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知らない人が闊歩する街ではセキュリティ意識は強まる

生き方・人生・人間関係科学・技術・文化・教育政治・経済・法律
最近は、子供たちには「知らない人とは声を掛けられても話してはいけません」と教えているのだとか。

散歩中の可愛い幼稚園児に、「寒いねえ」と言葉をかけたら、保育士が園児達に「知らない人と話してはいけませんよ」と注意した、なんて話も。

そのような教育の仕方は過保護過ぎ、対人経験不足で、人を見抜く力が養われないだろうと心配する意見もあるようで。

公園の遊具も誰かがケガをすればいっせいに取り除く『事なかれ主義』
昔の子供たちは、シーソーなどの遊具で何度もケガをしたが、当時は遊具はそのままだったわけで。

なんだか嫌な時代になった、それは事なかれ主義の大人の事情がそうさせているのだ、と嘆いている人がいた。

しかし・・・残念であり、悲しい事ですが、これは、島国でなくなった事=外国人がたくさん入ってきた(特に隣国から来た外国人は、外見がよく似ていて一見して外国人と分からない)ため、危険性が増して、セキュリティをより強く意識せざるを得ない状況になっているのだと思います。

別に外国人が危険だと言ってるわけではありませんが。

日本では昔は家に鍵など掛ける習慣がなかった。現代でも、田舎に行くほど、鍵など掛けない、近所の人が不在中に上がり込んで来たりしても何も問題が起きない。

それは、人口が少なく、村人全員が知り合い、それも家族や親戚のようによく知っている人間しか居ないから可能なのだと思います。

家族か親戚しか居ないのだから、余計な心配をする必要もない。

しかし、そこに、村の外から誰とも知れない素性の分からない者が入ってきたらどうなるか?

「どこの馬の骨か分からない」なんて言葉がありますが、どんな人間か分からないわけですから、当然警戒するわけです。

行く先々で注目され、ヒソヒソヒソヒソ・・・警戒されるわけですね。

どうも怪しい人物だ、と言う事になれば、村の安全性を保つために、排除・排斥するように動いたりすることもあるわけです。

村社会は閉鎖的だ、なんて言われるのもそんな事が時々あるからなのでしょうね。

つまり、安全性と排他性は、全員顔見知り、という状況から来ているというわけです。

もし、知らない人が村の中を自由に行き来するようになったらどうしましょうか?

そうなると、家に鍵を掛けないわけには行かなくなるわけです。

都会では家に鍵をかけないなんてありえないと思いますが、それは、知らない人が大量に自由に出入りする状況だからなんですね。。。

同じことが、世界規模で起きてきているのだと思います。

日本は海に囲まれているために、比較的閉鎖的=安全な状況が長く続いて来たのだと思いますが、今は、たくさんの外国人が日本に入っていくるようになったわけです。

知らない人がたくさん入ってくるような状況で

「昔は家の鍵など掛けなくても日本は安全だったのに・・・」

と嘆いていも仕方なし。

現状では鍵を掛けざるを得ないでしょう。

残念であり、悲しいことですが。国が開かれていくほど、セキュリティの意識はより強くなっていくのは仕方がないのでしょうね。。。

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