政治的?な議論の中で
『“平等”と“公平”は違う』
という事を言う人が時々ます。
この、平等と公平の意味が、私にはどうもピンと来ないんですよね。
分かりやすい説明として、以下のようなイラストが挙げられていますが、これを見ても、今ひとつよく分からない。
いや、イラストの意味は分かりますが、こちらが「平等」でこちらが「公平」でしょって言われても、そうなの?という(笑)
(※上記のイラスト、どちらが平等でどちらが公平でしょうか?)
まぁ、「平等」と「公平」の言葉の定義をどうするか、という問題に過ぎないので、そこにあまり拘っても意味がないかな、と思いますが。
こちらの解説が分かりやすかったです。
https://buzzap.jp/news/20141111-equity-vs-equality/
ああ、「公平」ではなく「公正」なんですね、それだとちょっとだけニュアンスが分かりやすくなるかも。(そもそも、英語の文章を日本語に置き換えようとする時に、おかしな事になるんですよね。)
その中で、平等と公正それぞれの解説の原文訳がありますが
- 平等とは?
- 平等は公正さを推進させるために全員に対して同じものを与える。しかしそれが正常に機能するのは全員のスタート地点が同じ場合に限られる。この場合では全員の身長が同じ時だ。
- 公正とは?
- 公正さは人々を同じ機会へのアクセシビリティを確保すること。個人それぞれの差異や来歴は、何らかの機会への参加に対し障壁となることがある。なので最初にまず公正さが担保されて初めて平等を得ることができる」
「平等」は、個々の差異は無視して全員に同じものを与える事
「公正」は、個々の差異に配慮し、均等な「機会」を与えるもの
という感じですかね。
少しだけ理解できましたが、ただ、そう言われると、また別の問題が出てきますね。
機会さえ与えればその後の結果はどうであれ公正さは確保されている、と言う事になるのでしょうかね?
例えば、時々日本でも問題になる、男女の機会均等について。
雇用機会均等法なんてのがあったような気がしますが、男女に同じだけ、入社のチャンスを法律的に義務付けたとして、しかし現実は、やはり女性のほうが少ないじゃないか?!という話になっているという・・・
例えば、男女の入学試験や入社試験について、試験を受けるチャンスを平等に与えれば、結果についてはどうであっても問題ない、ということになるのか?
「結果的に、合格者が偏るのであれば、建前だけで実際には平等にチャンスが与えられていない」という主張が出てきそうです。
最近は、男女ごと別々に合格者を確保する「枠」が用意されているケースも多くなっているとか?(公務員とか?)
ただ、それはそれで、不平等だと批判の声もあるとか。
単純に不合格になった者の能力が足りていない可能性を検証する必要があるってことなんだと思います。
上記の例で言うと、身長の過不足に関係なく、優遇処置があるって言うケースですね。それは、過剰な優遇であって、それも公正ではないと。
余談ですが、平等と公正について画像検索掛けると、いろいろな画像が出てきて面白いです。
平等は「Equality」で共通ですが、公正は「Equity」から「Fairness」「Justice」と置き換えられて
さらに、対比として3つ目に「過剰」( Excessive )や、「資本主義」( Capitarity )、「環境」(environment)というのも加えられて議論されているのが分かりますね。
バリアフリーに関しては、公正を求めるより、環境を変えていく事が重要、というのは、理解しやすいです。(誰もサポートを受けずに試合が観戦できる環境を作るのがバリアフリー)
個々で、もう一つ、別のイラストをネットで拾いました。
イラストでは、様々な種類の動物が集められ、対する試験官が
「フェアに選抜するため、全員に同じ試験を受けてもらいます。試験内容は“木登り”です。」
と言っています。
これは「平等」?「公正」?
検索したら、こんなイラストも出てきましたが(笑)
個人的には、倒された木に対する配慮が足りないと思ってしまったり(笑)
これは、公正とか平等とはまた別の話な気がするのですよね。
一見フェアでないように見えますが、実は、木に登る事がどうしても必要な仕事をしてくれる人を募集しているとしたら、これはどうしても必要なテストと言う事になるでしょう。(「フェアな試験をやります」と試験官が余計なセリフを言ってるから問題になってるだけ。)
どうしても木に登る事が必要で、それが出来る人を募集しているのに、木に登れない人が応募してきて「不公正だ」と騒ぎ立てられても、それは違うとなるわけで。
もし、現代社会で実際に不公平だと訴えている人々の中に、そんな人が混ざっているとしたら、それは違うと言われる気がします。
しかし、そこで「差別だ」と言い出されるとやりにくくなる。
差別という言葉を、自分のワガママを通すツール、自分に都合が悪い意見を潰すツールに利用している人がもし居るなら、差別という言葉の意味を明確にしていく必要があるでしょうね。
ここまで、平等と公正について、なんとなく分かってきたような気はするのですが、イマイチピントコナイのは相変わらずだったりするのですが
実際、ワガママを言ってるだけの人が「不公正」や「差別」を訴えているような現状も垣間見えるためにモヤモヤするんだと思いますが。
SNSでこのような事を書いている人が居て、コレはすごくストンと腑に落ちました!
それは
全ての人間は平等であるが
人間の《能力》は平等では無い。
そうですよね。
権利的な話で言えば、すべての人は平等であるべきかも知れませんが
現実には、能力以外のあらゆる面に置いても、人は生まれながらにして平等ではない。
容姿も体格も能力も、生まれた家柄も、すべてが違っている。
それが現実です。
人間側がどれだけそれを不平等だ、不公正だと叫んだところで、現実は何も変わりません。
それを認めた上で、どうするかを考える必要があるわけですよね。
上記の木登り試験のイラストについて言えば、木に登れる能力がある人が試験に合格するというだけの話。それは、募集側が気に登る能力を求めているなら正当な話であり、そうでないのにこのような試験を行ったとしたら、それはフェアでもないし適切でもないという話になるだけですね。
魚は木に登れませんが、魚は水の中で生きる能力があるわけで。
これを人に置き換えるなら、人にはそれぞれ得意不得意、向き不向きがあるわけで。
それぞれに、能力を活かせる適材適所を選んでいく必要がある。それを選べるだけの機会と環境を作ってやることが理想なんじゃないかと。
ただ、それでもなお、問題は残る。
それこそが、現代社会の問題点、闇なのかなと思うのですが。
それは、
能力・適正にあった仕事を選ぶべきと言われても、その仕事の需要が少ない、働き口が少なかったらどうすればいいの?
それ以前に、何の能力も適正もない人間はどうすればいいの?
女性だけど男性のように生きたい、男性だけど女性のように生きたい、そう望む人が、どうしたらいいの?
譬えて言うなら
どうしても木に登りたい魚はどうしたらいいのか?
水の中で生活したい猿はどうしたらいいのか?
というような話。
そこまで極論でなくとも、本人の向き不向きと、本人の適正は必ずしも一致してない事のほうが多いわけです。
例えば、本当は男性に生まれたかった女性、女性に生まれたかった男性が居るとして。
でも、生まれてしまったのはどうしようもない現実で。
人は生まれながらにして不平等である。と言う事と同じ、今の自分に生まれ落ちた現実は変えようがないんですよね。
それを、ある程度工夫して、努力して希望を叶えていく。それを許容する社会であるべき、というのは理解できますが。それが当たり前にできて、当然の権利であるかというと、違うのかなと思うわけです。
できたらそうできれば理想だけど……という話。
余裕があれば、という話。
すべての人が裕福に働かずに暮らせる。どんな無理も贅沢もできる、それだけの経済的余裕があるなら、いろいろな事が可能になると思いますが。
現実はそうではない。
その余裕がない現実で、人はどうしてきた。
多数決で少数を切り捨てていく。あるいは権力を手にした一部の特権階級が、その他の人々を犠牲にしていく。
そのどちらかの方法しか、人類には今の所、発明できていません。
新しい方法を誰かが発明してくれたらよいのですが。。。
人は自分の理想を追求する権利はあるけれど。
それは全部個人のワガママでしかない。
現状で選択しうる結論は、ひとつしかない。
ワガママは、最期は我慢するしかない。
そうするしかないのかな、と思うんですよね。
私だって、自分の思い通りにならない事がたくさんある。
自分なりに出来る範囲で、思い通りの人生を実現するべく努力をするけれど、できない部分は、最期は我慢するしかないのかな、と思います。。。
最近、我が侭な人、多くなった気がしませんか?
なんでも言える世の中になったが故に、色々な主張が出てくるのは良いのですが・・・
「ワガママ言うな!」って言いたくなる事が個人的には多いのです。。。
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