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差別は良くないが「差別」の悪用も規制する必要があるのではないか

政治・経済・法律
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ザックリ書くと---

「ネガティブ・オプション」、所謂「送りつけ詐欺」の「被害者の会」を女性議員や弁護士・市民活動家らが結成。

女性議員や女性活動家の家に下着などが送りつけられる嫌がらせが起きている、これは差別主義者の嫌がらせである、というような会見を行った。

しかし、送りつけ詐欺は男女問わず起きており、実際、報告された30件の被害の内、下着が送りつけられたのは2件だけで、残りは食品等だったとか。

そして、男性の被害者とも協力すべきという内部の意見を握りつぶし、退会させてしまった。

今やネガティブ・オプション詐欺は広範囲に発生して問題となっているが、それを女性活動家が「差別だ!」と訴えるためだけに利用しようとしたお粗末な内容だった模様。

差別はもちろん良くない。

しかし昨今は、活動家が「差別」を利用しているだけのケースがあまりに多く見える。

差別は良くないが、同時に、思想・言論・価値観の自由も尊重されるべき。

差別についての規制や処罰は、実害があった時にのみ対象とすべきで、思想や価値観、好みまでも強要しようとするのはおかしいだろう。

例えば、自分の所有物である自宅の中に、「自分は女性が嫌いだから女性は入れない」という男性が居たとして。その家はその人の私物なのだから、いかなる思想や価値観が理由であろうとも、その人が女性を入れたくないと言うのなら、それは尊重されるべきだろう。

それを「女性差別だ、女性を入れるべき」等と男性を糾弾するのはおかしいし、その男性が、「自分は女性は家に入れな」「自分は女性は嫌いだ」と外で発言することも、規制されるのはおかしい。

これを女性ではなく、宗教や人種に置き換えても同じだろう。その価値観が正しいか間違ってるかはともかくとして、その人の価値観や好み、権利は尊重されるべきであろう。

どのようなものであっても、何らかの価値観を「絶対正しい」と強要されるのは、思想の弾圧に他ならないわけで。

では、規制や処罰されるべき事例とはなにか?

例えば、これが、公共施設への立ち入りの話であったら話は180度変わるだろう。

本来誰でも立ち入ることができるとされているはずの自治体の公共施設に、性別や宗教、人種を理由にして立ち入りを禁じられるとしたら、それは実害がある事であり、規制、場合によっては処罰されう事もあるべきだろう。

例えば、上に登場した女性が嫌いな男性が、公共施設で働いてもなんの問題もない。

が、そこで、その男性が女性に対して不当・不平等な扱いをするのは許されないだろう。

しかし、その男性が普通に平等に女性に対しても接していたなら、とやかく言われることではない。

この男性は女性差別主義者だから公共施設で働くことは許されない、などと言い出したら、逆にそれこそ思想による差別となりかねない。

※もちろん、ケースバイケースではあるが・・・

例えば、女性と接することが主だった業務で、女性を見ると罵倒せずにはいられないというような極端な人間であれば、不適切という事で、その職業に就くのを拒否されても仕方がないだろうが。

あくまで公私を混同せず、公の場では公平に振る舞うことができる人であれば、思想や価値観を理由に就業を断るのは難しいかもしれない。

現代は、単なる好き嫌い何かと言うと「差別」とすぐに言われるが、「公」と「私」の区別が付いていないのではないかと思う事がよくある。

「公」においては、差別は許されないが、私的な好みや価値観、心情について差別だと糾弾されるのは、何かがおかしいだろう。

単に個人の好みの問題であるような事柄について「差別だ」「そのような価値観(好み)は間違っている」などと声を大にして糾弾する、現代の差別廃止運動にはそんなケースもあるように見える。

なんでもかんでもすぐに「差別」だと騒ぎ始める、それは実は、差別に反対するような団体の多くが、利権を確保するために活動しているという実態があるからではなかろうか。

「差別反対」という活動は、常に「権利」の闘争でもあるわけだが、「権利」の問題には常に表裏一体に「利権」が存在する。

獲得された「権利」は、やがて「利権」に変質するのだ。

そして、利権を守るために、相手を黙らせる(言論弾圧)のためのツールとして、権利を獲得する時に使われた「差別反対」が利用される。

同じようなケースが、世界中で増えているようである。

差別は絶対によくない。差別をなくす運動は素晴らしいことである。

だが、「利権」を守るために「差別糾弾」をツールとして悪用するような者が、常に紛れ込んでいるという時代になったように思う。

なんでもかんでも「差別」と言えば無条件に正しいとして反論が許されない、黙るしかない。それは、ある意味、逆差別であり、言論弾圧社会に他ならない。

何らかの価値観が「絶対正しい」と決めつけられ、それを強要されるというのは、思想弾圧をする恐ろしい社会だと言える。

例えば、給与待遇について男女不平等が制度的に実際にあるなら是正されるべきだが、個々の人間が男女差別的な価値観や思想を心の内に持つ事それ自体は、規制される事ではない。

それが正しいか間違っているかという議論は別として、心の内面までも規制しようとするのは、恐ろしい思想弾圧、自由への挑戦に他ならないだろう。

「女性は専業主婦をして家に居るべきで、仕事などするべきではない」と考えている男性が居たとしても、自分の好みとして、そう考えるのは自由なわけで。
そういう男性は実際に結婚したなら、妻となった女性の権利の問題で軋轢が生じる可能性が高いのは間違いないが(笑)
専業主婦をやりたいという女性だって居るはずなわけで。その男性は、同じ価値観の女性と結婚すれば何も問題ないわけだ。

それを、女権活動家が「専業主婦なんかやってる女が居るから女性の権利が認められないんだ」と言って、専業主婦の女性を迫害し始めたら、それこそ専業主婦の女性の対する差別にほかならないだろう。

(※専業主婦も、外へ出て働くことも、どちらも自由に選択できる事が、真の意味での女性の自由ではないかと思うのだが・・・)

かつて、人間達は、思想・宗教言論の自由を勝ち取るために、たくさんの血を流してきた。

現代は、平和な時代になった故なのだろう、いつのまにか、言論の自由を守る意識が薄れ、価値観の押し付けと言論弾圧の社会になりつつあるように思う。

今後は、常に利権のために悪用する人間が混ざっている事を前提に、何が差別でなにがそうではないのかを明確に線引き、定義する必要があるだろう。

もともと基準を曖昧にしておいて運用で処理する傾向が日本は強いので、なかなかそのような基準の明確化は進まないだろうが、海外でも同様のケースが増えいているようなので、諸外国から基準を決めていってくれる事を願う。

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