プレジデントに興味深い記事がありました。
あ、記事は冗長で分かりにくいので、忙しい人は読まなくても良いです(笑)
要約すると、
「貧しいうちは収入の上昇と比例して幸福度が上がっていくが、一定以上の収入に達すると、収入が上昇しても幸福度が上昇しなくなってくる。」
と言う話のようです。
年収10億 富裕層の結論「“ビンボー”が幸福を呼ぶ」 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online
収入が高くなれば幸福度は増すが、高収入層は小さな幸せに鈍感だ。年収10億の著者が再認識したのは…
そもそも『年収が10億円もある人の語る幸福論』と言う時点で、まじめに読む気が失せてくるのですが・・・貧乏人根性でしょうか?(笑) ただ、興味深いなと思ったのは、 「所得が低ければ小さな幸せを満喫できるが、所得が増えすぎると小さな幸せを感じるセンサーが鈍くなる」 と言う事。 これは、私が常々感じている、 『人の感覚は比較対象や落差がないと感じられなくなってしまう』 と言う、人間の感覚の機能的な問題に通じるのではないかと思うのです。
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古の哲学者曰く
「足ることを知る者が幸福である」
しかし・・・ 足りないものがある人は、それが満たされた時、幸せを感じられますが。 「あるのが当たり前」になってしまったモノは、やがて忘れられて空気と同じになってしまいます。 そして、人は忘れる生き物なので、長い間、満たされた状態で失われる心配がないなら、やがて―――どんな人でも―――空気となって忘れてしまうものですね。(なにせ、記憶力に限界がありますから。) 結局、人は、いつまで経っても、どこまで行っても、それが当たり前になってしまい、感動が薄れ、満足することはなくなってしまう。
しかしこれは「足ることを知らない人が愚かである」という事ではなく、人間の神経、または心の機能的な問題なのではないか?と思うのですよね。 「絶対感覚」があれば良いのでしょうが・・・人の感覚が「相対的」であるなら、常にメリハリが必要になるわけです。 人は誰しも、結局のところ、幸福を求めているわけです。 そして、人にとっては、何もないこと(苦しみも悲しみも喜びも何もない虚無のの状態)もまた、不幸だという説もあって。 これは、別の言い方をすると、人間は、刺激を求めて生きているということになる。 しかし、「刺激」はやがて「慣れ」てしまう。 より強い刺激を求めれば、やがて破滅に向かうでしょう(笑) 辛い物が好きな人が、だんだん強い刺激を求めて際限なく辛さを追求していってしまう、みたいなものか?(笑)
神経的な話だけでなく、もっと観念的な心の部分も同じで。 初めて食べて「これは美味しい!!」と思った食べ物が、次に食べてみたら、それほどの感動はなかったりする事がありますが、これは「感動の期待値」のハードルが上がり過ぎているのに、一度経験済みなので刺激量としてはそれほどでもないというギャップから来るのではないかと思います。 さらに言えば、人の幸せというのは様々であり。 まず食欲や性欲などの生理的欲求の充足が重大ですが、このような原始的な欲求はお金があれば解決できます。 大金持ちになった人は、そのような原始的な欲求の心配がなくなると、今度は別の欲求の充足を求めるようになる。自己承認欲求や自己顕示欲などの、社会的な欲求ですね。 これはなかなかやっかいです。その他の感覚と同じように、比較対象がないと実感が特に難しいからではないかと思います。 人は、あらゆるすべての条件がまったく同じ、であったとしたら―――全員とは言いませんが、何割かの人は―――その状態を不幸と嘆く人が必ず出てくるはずです。 人の上に立って偉そうにすることが快感であると言う人が居れば、必ず、誰か自分より下の者を作り出そうとするわけです。 この問題がある限り、人は平和や平等を実現することはできないだろうし、イジメはなくならないだろうなと思うわけです・・・
人生を幸せに生きる「コツ」はメリハリだ!と言う事は言えるかも?(笑) 年収が10億円もあったら、自分だったらどれだけ有意義に使える事か?!と貧乏人は思うわけですが(笑) 実際にそうなっても、人間は、なぜか有意義には生きられないものなのでしょうね。 もし、どんな「当たり前の事」にも、最大級の感動と幸福を感じることができれば、人はどんな時も幸せに生きる事ができるかも知れない。 でも、そんな風に感じられるためのスイッチはどこにある・・・?
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