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イマジンなんてヘドが出る

生き方・人生・人間関係政治・経済・法律
夏のとある日、海辺のカフェでくつろいでいたところ

BGMにジョン・レノンの「イマジン」が流れてきた。

この曲は名曲なのかも知れないが、自分は好きではない。

いや、実は、好きではないなんてレベルではない、嫌悪を感じる。

子供の頃から違和感を感じていたが、その理由をその頃は明確に説明できなかった。

今は分かる。典型的なグローバリズムだからだ。

『想像してごらん、国境がない世界を。誰もが行きたい場所へ、どこへでも自由に行ける世界を』

一見素晴らしい世界に思えるかも知れないが、よくよく考えてみたら、怖い世界である。

こう言いかえれば分かりやすいと思う。

『想像してごらん、知らない人が自由に自分の家に侵入してくる世界を。泥棒や強盗、強姦魔が自由にどの家にでも入っていける世界を。家に塀を建て、ドアに鍵をかけると「オマエは間違ってる」と言われる世界を』

武装放棄論と同じ。自分が加害者である前提でのみ語られるばかりで、被害者になるケースが想定されていない。

片側の目線でしか見ていない、片手落ちの理想である。

私はそんな世界に住みたくない。

ふと、キリスト教のとあるジョークを思い出す。
「神父様、愛する人たちみんなと、天国で再会できるのですよね?」

「はい、再会できます。・・・ただ、他の人々とも再会しますよ?」
境界のない世界。国境も、敷地境界線も、塀も何もない世界。誰でも自由にどこにもでも出入りできる。いつでも家のドアは開いており、誰でも自由に出入りできる。

それは素晴らしい世界に見える。

世界には善人しか居ないのであれば、いいのですけどね。

夢物語を語るのはいいけれど、現実(政治)は、性善説に基づいてはいけない。

『女性は多種多様です』という文字が書かれたあるイラストがTwitterに投稿されていた。
消えてしまうかも知れないので、一応どんなイラストであったか解説も書いておくと

温泉らしき場所に10人の老若男女が裸で並んでいる。

1.長髪の女性、ペニスあり
2.禿げた年配の男性、ペニスがない
3.顔は若い女性だが胸なし、ペニスもなし
4.普通の若い男性
5.普通の若い女性
6.筋骨隆々の男性
7.年配の女性
8.短髪の女性、ペニスあり
9.禿げた年配の男性
10.若い中性的な顔、胸なし、ペニスあり

これらが全て「女性」である、と言う事らしい。

心が女性、と言う意味なのだろうが、これを受け入れられる人は、さすがに多くはないのではなかろうか・・・?

筋骨隆々の男らしい容姿の男性や、完全に身体は男のままのオッサンも、「心は女性」だと言えば、女湯に入ることをゆるされるべき?

「これが受け入れられないのは、まだまだLGBTが受け入れられない人が多いということだ」というようなコメントもあったが

LGBTを認めると言う事が、イコール自称「心は女」のオッサンが女湯に入るのを認めるという意味なるのなら、おそらく、大部分の女性は受け入れられないのではなかろうか?

それが認められないのは、LGBTを受けれられていない人間、つまり=差別主義者という事になるのか???

もしそうだと言うなら、大部分の女性が、否、大部分の人間が「差別主義者」となるだろう。

このような主張は、論点を摩り替えのような気がする。
摩り替えた結果、LGBTの理解と許容にマイナスになってしまっている事例かと。

(※おそらく、LGBTの人の大部分は、このような考え方はしていないだろうと思うが。しかし中には本気でこのように考えている人もゼロではないという事か・・・?)

男性か女性か、というのは、物理的・科学的に識別できる事なので、それは明確に区別できること。単純に、その点のみで識別・区別されるべきではないのか?

「心は女性」という識別が、自己申告だけでは、それが嘘かどうか客観的に判別する方法がない。

ましてや、男性の肉体で女性相手に性的に興奮する人間が「でも自分の心は女性なんだ」と言っても、それも認めろということになったら、なんでも有りになってしまうだろう。

犯罪者の男性が、自分は心は女性だと偽ってトランスジェンダー認定を受け、女子トイレや女風呂に侵入する可能性がある。

(※実際に海外では、トランスジェンダー認定を受けた元男性が少女を強姦した事例や、女子刑務所に収監された元男性が女性の囚人をレイプした事例などが既に起きているとか?)

心がどうであれ、物理的、構造的に肉体が男性のそれである場合は、心が女性であったとしても、女性と完全に同列に扱ってはいけないだろう。(そういう人への配慮はあってもよいが、男性・女性とは隔離するような配慮であるべき。)
仮に、それでも心が女性であり、男性と一緒にされるのが苦痛であると言う人が居たとしても、その人間を女性と一緒にするのは問題がある────その人物を受け入れることで、今度は多くの女性の側が苦痛を感じることになるのだから────肉体的には男性であるが、心が女性であるという人間にも配慮する必要があるというのであれば、それは、男性でも女性でもない別のカテゴリーとして分ける必要があるのではなかろうか?

いわゆる「グローバリスト」が目指す世界というと、国境がない、あらゆる境界線のない世界ということらしいが、それはこのような世界ということなのか?

左翼系グローバリストはよく「差別をなくせ」「多様性を認めろ」という主張をするが、実はそれをつきつめていくと、「全員同じ」に行き着く。それは、多様性を一切認めない、という矛盾した主張となってしまうのだが。

先にも書いたが、すべての境界線をなくしてしまった社会は、犯罪者が望む理想の世界でもあるだろう。

守るべき家族がある人は、境界線を引き、防御壁を必要とする。

ボーダーレスを望む種類の人間は、その防壁を取り除けと主張しているのだ。

境界線を無くすことは、守るべき家族がある人にはメリットはほとんどない。

海外では、グローバリストとは=共産主義者の事である、という理解で概ね良いらしい。

共産主義を、ものすごく分かりやすく一言で言うと、

「オマエのモノは俺のモノ」

という主義なのだと思う。

いや、本当の共産主義はそうではないのかも知れないが。

厳密に言えばグローバリズムと共産主義もまた違うのだろうと思うが、そうであるなら、共産主義者がそれを実現するために、グローバリズムを利用しているのだろう。

現在の地球でソレ(ボーダーレス)を主張している人達は、「オマエのモノは俺のモノ」な人が多い気がする。

「オマエのモノは俺のモノ」これは、横暴であるという話なのではなく、価値観の違い、文化の違いという側面はあるらしい。

こちらの記事の中にある、消しゴムの話が、まさに分かりやすい。
反日教育を受けてきた韓国人女性が、日本への帰化を選んだ理由 - ページ 2 / 5 - まぐまぐニュース!
急に怒り出した八百屋さん 日本に来て最初の一年は、良い日本に感激した時期であった。それは韓国で教えられていた日本の姿とはまったく違っていた。しかし、2年経ち、3年を経て、日本の内部に入っていくようになると、呉さんはしだい……
www.mag2.com
日本に留学してきた韓国人の著者は、日本でできた友人が「消しゴムを貸して」「ありがとう」といちいち言うので、「この友人は自分と仲良くする気がない」と思ったという。

なぜなら、韓国では、友人であれば、断らずに借りて、黙って返すのが当たり前なのだとか。

まさに、「オマエのモノは俺のモノ」という感じだ。悪気があるわけではなく、それが当たり前の文化だということのようだ。

確かに、これを理解せずに付き合ったら、軋轢が生じるのは当然だと思う。

私は、たとえ友人であろうと、自分の物を黙って拝借されるのは御免こうむる。それを相手が理解してくれればよいが・・・

最近、「レイシスト」というレッテルを貼られている人をみると、安心する。

そういう人は、自分にとっては、安心して付き合える人である可能性が高い事が分かってきたので(笑)
レイシズム(Racism)というのは、人種という意味のレイス(Race)から来ていて、直訳すると人種主義者と言う事になるらしい。

それが広義となって人種に関わらない差別も含む、差別主義者という使われ方をするようになったのだろう。
ただ、この言葉、日本では一般的ではない。日本で生まれ育った人で、英語を話さない人からこの言葉を聞く事は、ほぼないと思う。

レイシストという言葉が使われ始めたのはわりと近年のような気がするが、これは、いわゆるグローバリスト=左翼系思想の主義者が使いだした言葉なのだろうと思う。

おそらく、レイシストという言葉を、日本人よりも身近に使っている、つまり外国から来たものなのではないかと思う。

現在の日本に置いては、純粋な左翼系思想の主義者はほとんど居ないように思う。

(いや、居るのかも知れないが、声の大きい別の種類の人間達の声にかき消されてしまっている。)

その別の種類の人間というのは、いわゆる「反日」勢力=在日外国人の勢力。

これらの勢力は「グローバリズム」そして「共産主義」を、自分達の都合がよいように利用しているだけなのだと思うが。

外国人と言っても、朝鮮半島とCHINAのみ限定の話。
(これらの地域をネットスラングで、アジアの中でも特定の地域という意味で、「特定亜細亜」または略して「特亜」などと言うらしい。)
そう言うと「差別だ」「偏見だ」と言う言葉が聞こえてきそうだが、そのようなレッテルを貼る事自体が、利用している行為そのものであると思う。

もちろん、すべての人がそうではないだろうから、「その中の一部の人」と言うことになるが。

しかし、一部というのがどれくらいの数になるのは不明、しかし、上記の呉善花氏のように、反日教育を受けてきたと認めている人も居る事を考えれば、その割合はかなり多そうな気がするのは否定できないだろう。
おそらく、彼らの中では、「レイシスト」という言葉はより身近で使いやすかったのかも知れない(日本人よりは英語が得意な人が多いという事情があるのかもしれない)。

逆に言えば、レイシストという言葉を使っている時点で、日本人ではないと言う事を露呈させてしまっている気もするが。

「レイシスト」という言葉を使うのは、ほとんどが特亜系の左翼勢力の人間であり、つまり、彼らにレイシストとレッテルを貼られる人というのは、ほとんどが「保守」または「右翼」系の思想を持っている人間であると言うことになる。

そのような使い方をされているがゆえ、日本において、レイシストは「差別主義者」ではなく、「国粋主義者」というニュアンスになってしまっているだろう。

ならば、レイシストと言われる人のほうが、境界線をなくしたくない私は安心して付き合えるということになってしまう。

中には、特定アジア地域の人間をかなり酷い言葉で罵る人もいるが、そういう人のほうが、グローバリストよりは安心してしまう自分が居ることに、最近気がついてしまった(笑)

左翼思想系の理想論を延々と騙る人は、実は上辺だけで、実は日本人ではないのではないか?腹の底では日本人を憎んでいて、いざとなったら裏切られるのではないか?酷い目に合わされるのではないか?と警戒する気持ちが抜けないのだ・・・。

理想論ばかりを語る人より、レイシストのほうが安心する、それは自分が境界線を守りたいタイプの人間だからなんだと思う。

自分のプライベートスペースには誰も入ってきて欲しくはない。

親しき中にも礼儀あり。

人とはちゃんと距離感を持って付き合える社会が良い。

境界線を無神経に超えて侵入してくる人間はとは、安心して付き合えない。

グローバリストの理想論は片手落ちの視点であると最初に書いたが、グローバリストかどうかと言う以前に、性格的なものなのかも知れないと思う。

世の中には、境界線をきっちりと引いて、節度ある付き合いをしたいと言うタイプと、境界線などお構いなしというタイプの人がいる。

前者は、集団で生活する小動物のようだとも、個人的には思っている(笑)
つまり、お互いに明確に線を引いてルールを守らないと密集した集団を維持できないのだと思う。

このタイプは人間関係において、境界線を守るが故に、なかなか距離を縮められないところがある。

逆に、境界線などお構いなしに、無神経に距離を近づけてくる人も居る。
そういう人は、良く言えば人懐っこい、社交的だと言うことになるが、時に、超えてほしくない線を超えて迷惑をかける事もあると思う(笑)

また、イマジンの歌詞のように、国境がなくどこにでも自由に行ける世界を理想とする人は、「旅人気質」の人なんだと思う。

私は、実は旅人属性はゼロに近いタイプで。引きこもりではないが、ホームにしっかりと根づいて、そこからあまり動きたくないタイプなので。

誰だか分からない、中には危険な人物も混ざっているかもしれない人達が、どんどん境界線を超えて入ってくるのは、恐怖を感じる。

「世界に国境があるから争いがなくならない」というのは、半分は正しいのかもしれないが、半分は間違っていると思う。

ルールを破って境界線を超えてくる人間が居るから、争いが起きる、とも言えるだろう。きちっと境界線と秩序が守られて内は平和なのだ。

おそらく、本気で境界線の無い世界が理想だと信じている人は、ルールを破るという発想がない人なのだと思う。

しかし現代の世界においては、ルールを守りたくない人間達が、理想を "騙って" 境界線をなくせと言っている、そういうケースがあまりに多くなってしまったのではなかろうか。。。

人のものを盗む、人に暴力をふるう、人の命を奪う。そしてそれを「悪いこと」とは思っていない価値観・文化の人間達が存在しているとしたら、境界線がない世界ほど恐ろしいものはない。

「政治は性善説で行ってはならない」

という考え方があるが

「国境をなくせ」

という議論の前に

「この世に悪人は居るのか居ないのか?」

を議論する必要があるだろうと思うのだが。

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