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[霊力を鍛える] 射鵰英雄伝

(霊魂学的)補足・蛇足
射鵰英雄伝について書いてきましたが、この中に出てくる「内功」「内力」と言う概念が、非常に興味深いと個人的には思いました。

中国語ではクンフーという言葉は「拳法」というよりもっと幅が広い意味のようで、鍛え方が足りないというような意味で「功夫が足りない」なんてセリフがジャッキー・チェンの時代劇映画でもよく出てきますね。

作中では、外功・内功(または内力)という使い方をします。

気功法では、体の外部の気を動かす技を外気功、体の内部の気を動かす技を内気功といったりするようですが、そちらのニュアンスに近い使われ方をしていますね。

外功とは外側に現れる物理的な力、内功は、身体内部の強さ、内臓の強さのような感じで使われています。

郭靖の降龍十八掌の技を、黄薬師はその胴体にまともに受けて弾き返してみせるシーンがあり、「さすが、天下一の内功と言われるだけはある」とささやかれています。

黄薬師と欧陽鋒、洪七公が競い合い、欧陽鋒が「私の毒酒を試してみんか?」と言って、毒入りの酒を三人で飲み比べるシーンがあります。内蔵をも鍛えているので、毒を飲んでもそんなものには負けないという事のようです。

「グエー!なんちゃって!毒を飲んでもなんともないわ!」「クアー、この毒酒は癖になるな!もういっぱい!」と青汁のCMのような事をする洪七公(笑)
三人で何杯も毒酒を煽り続けますが、その後部屋に戻って三人とも呼吸法(?)を駆使して体に入れた毒を排出します。

しかし、内功は単純に内蔵の強さと言うようなものではなく、外功を支えるために重要な基礎体力のようなもので、優れた武術の技があっても内功による裏打ちが弱いと発揮できる力も弱い、という事になるようです。

楊康が裘千仞に武術を教えるよう迫るところでも、「技を教えても(郭靖とは)内功が違い過ぎる、10年は追いつけんぞ」と言われてしまいます。

全真教と欧陽鋒の決闘の前日のシーンでは、洪七公が全真教の弟子たちに、「何をぼーっとしている、明日の決闘は神頼みでは死ぬぞ。さっさと座禅でもして内力を少しでも高めておけ!」と叱咤します。

黄蓉が郭靖をかばって裘千仞の鉄掌をその身に受けてしまうシーンでは、服の下に鎧を着ていたため外傷は受けずにすみましたが、重篤な"内傷"を負ってしまい、このままで死んでしまうという状態になります。

死にかけた黄蓉は、一灯大師に会い、内傷を治療してもらいますが、その様子はまるで幽体離脱させた状態でその幽体に治療を施しているかのような映像表現でした。

黄蓉は傷が治り助かりますが、代わりに一灯大師はこれまで鍛え蓄えてきた内功を使いきって失ってしまいます。再び内功を取り戻すのには5年はかかる、と。

しかし九陰真経の上巻末尾にある梵語を一灯大師が翻訳できる事が分かり、解読した結果、5年はかかる内功を3ヶ月で取り戻すことができる事になりましたが。(洪七公にもこれを伝え、武功を取り戻すことができました。結局この九陰真経の極意の部分は、一灯大師・黄蓉・郭靖・洪七公が習得したことになります。)

黄薬師は「天下一の内功」として名高いようですが、この部分を伝授されたかどうかは不明
もしかすると洪七公が桃花島で養生している時に伝えているのかも知れませんね

しかし、黄蓉も、終盤ではあまり武術を使うシーンは出てきませんが、九陰真経の極意を身につけているわけで・・・相当な強さになっているはずですよね。
彼らも日々、この九陰真経のトレーニング法を行って鍛えているのでしょうか。


作中後半では、外功よりも内功を鍛えることがメインになっているように思いますが、内功の修行の日々というのを想像すると、霊的身体のトレーニングに非常によく似ているなぁと思います。

私も霊的トレーニングを始めて大分長くなりますが、日々トレーニングを積み幽体・霊体を鍛える姿が、物語の中で彼らが日々修行を積んでいる姿とイメージが重なります(笑)

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