出家とその弟子
倉田百三
この戯曲を信心深きわが叔母上にささぐ 極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中。 煩悩障眼雖不見。 大悲無倦常照我。 (正信念仏偈)
序曲
死ぬるもの
――ある日のまぼろし―― 人間 (地上をあゆみつつ)わしは産まれた。そして太陽の光を浴び、大気を呼吸して生きている。ほんとに私は生きている。見よ。あのいい色の弓なりの空を。そしてわしのこの素足がしっかりと踏みしめている黒土を。はえしげる草木、飛び回る禽獣、さては女のめでたさ、子供の愛らしさ、あゝわしは生きたい生きたい。(間)わしはきょうまでさまざまの悲しみを知って来た。しかし悲しめば悲しむだけこの世が好きになる。あゝ不思議な世界よ。わしはお前に執着する。愛すべき娑婆よ、わしは煩悩の林に遊びたい。千年も万年も生きていたい。いつまでも。いつまでも。 顔蔽いせる者 (あらわる)お前は何者じゃ。 人間 私は人間でございます。 顔蔽いせる者 では「死ぬるもの」じゃな。 人間 私は生きています。私の知っているのはこれきりです。 顔蔽いせる者 お前はまたごまかしたな。 人間 私の父は死にました。父の父も。おゝ私の愛する隣人の多くも死にました。しかし私が死ぬるとは思われません。 顔蔽いせる者 お前は甘えているな。 人間 (やや躊躇して後)わたしは恐れてはいます。もしや死ぬのではなかろうかと。……あゝあなたは私の心を見抜きましたな。ほんとうは私も死ぬのだろうと思っているのです。私の祖先の知恵ある長老たちも昔から自分らのことをモータルと呼んでいますから。 顔蔽いせる者 それはほんとうじゃ。禽獣草木魚介の族と同じく死ぬるものじゃ。 人間 あなたはどなたでございますか。その威力ある言葉を出すあなたは? 顔蔽いせる者 わしは死なざるものに仕える臣じゃ。お前はわしを知らぬかの。 人間 知っているような気もするのですが、……いゝえ、やはり知りません。 顔蔽いせる者 お前はたびたびわしの名を呼ぶようじゃ。ことにこのごろはあまりたびたびなので煩わしいほどじゃ。 人間 ではもしやあなたは? おそれながらお顔蔽いをとって一度だけどうぞお顔をお見せくださいませ。 顔蔽いせる者 わしはモータルには顔を見せぬものじゃ。死ぬるものには。 人間 それはなぜでございます。 顔蔽いせる者 モータルを見るとわしは恥ずかしくて死ぬるからじゃ。 人間 死ぬる者という言葉には軽蔑の意味が含まっているように聞こえます。 顔蔽いせる者 死ぬのは罪があるからじゃ。罪のないものはとこしえに生きるのじゃ。「死ぬる者」とは「罪ある者」と同じことじゃ。 人間 では人間は皆罪人だとおっしゃるのでございますか。 顔蔽いせる者 皆悪人じゃ。罪の価は死じゃ。(消ゆ) 人間 今のは彼れだな。それに違いない。いったいあれは幻だろうか実在だろうか。わしは初めは無論幻だと思っていた。けれどだんだんそうは思われなくなりだした、だってあの恐ろしい破壊力は、あまりはっきりしているもの。実在だとしていったいあれは何者だろう。私はあれの正体が見たい。それを知りさえしたらこわくはない。私はあの恐ろしい火と水との正体を知ってからは、彼ら自身の法則でかえって彼らを使役して私の粉ひき場の車をまわさせたり竈をたかせたりしている、わしは彼の法則を知りたい。彼の本体をつかみたい。でなくてはわしの生活はいつも脅かされるから。あれを知るようになったのは私の不幸だ。しかし私の知恵の成長でもある。あゝ恐ろしい彼よ! 顔蔽いせる者 (あらわる)お前はまたわしを呼んだな。 人間 私はあなたの顔が見たい。 顔蔽いせる者 ゆるされぬ。 人間 どうあっても。 顔蔽いせる者 その欲望はお前の分に過ぎている。お前の目に不浄のある限りは。 人間 弓矢にかけても。 顔蔽いせる者 あわれなものよ! 人間 (手をのばして顔蔽いをとろうとする) 顔蔽いせる者 その手に禍いあれ!(遠雷きこゆ) 人間 (ひざまずく) 幻影の列あらわる。 顔蔽いせる者 見よ。 人間 鳥や獣やはうものの列がすぎる。鷲は鳩を追い、狼は羊をつかみ、蛇は蛙をくわえている。だがあの列の先頭に甲冑をかぶり弓矢を負うて、馬にのって進んでいるのは人間のようだ。 顔蔽いせる者 彼は全列を率いている。 人間 あれは征服者だ。 顔蔽いせる者 そして哀れなもののなかの最も哀れなものだ。 人間 あ、馬に拍車をあてた、全列は突進しだした。(凶暴なる音楽おこる)まるであらしのように。あんなに急いでどこに行くのだろう。 顔蔽いせる者 滅亡へ。すべての私を知らないものの行くところへ。 人間 おゝ。 列通過す。あらしのごとき音楽次第におだやかになり、静かに夢のごとき調子となる。新しき幻影現わる。 顔蔽いせる者 見よ。 人間 若い男と女だな。男はたくましい腕の中に女を抱いている。そして女は男の胸に顔をうずめている。玉のような肩に黒髪がふるえている。甘いさざめきに酔っているのだろう。 顔蔽いせる者 よく見よ。 人間 (熟視す)あゝ泣いているのだ。男は女をはなしてため息をついている。さびしそうな顔。 顔蔽いせる者 幸福の破れるのを知りかけているのだ。 人間 あなたを呼んでいるのではありませんか。 顔蔽いせる者 わしに気がつきかけているのじゃ。しかし、わしを呼ぶのを自らさけているのじゃ、自分をいつわっているのじゃ。 人間 男はふたたび女を抱こうとしました。けれど女はこのたびは突きのけました。そして男を呪うています。男は女を捕えました。無理に引っぱって崖のそばに行きました。……あゝあぶない。……(叫ぶ)あッ。 顔蔽いせる者 わしをまっすぐに見ないものの陥るあやまちじゃ。(音楽やみ、幻影消ゆ) 人間 私はあなたをみとめています。あなたをまっすぐに見ています。あなたの本体を知りたいと願っています。 顔蔽いせる者 小猿の知識でな。ものの周囲をまわるけれど決してものの中核にはいらない知識でな。 人間 私はあなたの力を認めます。あなたの破壊力を。あなたは何のために、ものをこわすのですか。 顔蔽いせる者 それはこわれないたしかなものを鍛え出すためじゃ。 人間 私はそのたしかなものを求めます。私があなたを知って以来あなたにこわされないものを捜しています。 顔蔽いせる者 見つかったかな。 人間 まだ。たしかなと思ったものはみなあなたがこわしてしまいましたから。征服欲も友情も、恋も学問も。 顔蔽いせる者 こわれるものはみなこわすのがわしの役目じゃ。(間) 人間 たしからしいものを見つけました。今度は大丈夫のつもりです。 顔蔽いせる者 何ものじゃ。 人間 子供です。たとえ私は衰えて死滅しても、わたしの子供は新しい力で生きるでしょう。私の欲望を子供の魂のなかに吹きこみます。 顔蔽いせる者 お前はまだ知らないな。 人間 え。 顔蔽いせる者 お前のむすこは死んだぞ。 人間 えっ。(まっさおになる)そんなことがあるものか。 顔蔽いせる者 凶報が来るのにまもあるまい。 人間 達者で勉強しているという手紙が来たのはけさのことです。 顔蔽いせる者 午すぎに死んだのだ。 人間 うそだ。 顔蔽いせる者 (沈黙) 人間 (熟視す)あゝあなたの態度にはたしかさがある。(絶望的に)だめだ! 顔蔽いせる者 さようなら。 人間 (あわてる)待ってください。せがれは病気をかくしていたのですね。あわれな父に心配させまいと思って。 顔蔽いせる者 組でいちばん元気だった。 人間 決闘しましたか。無礼な侮辱者を倒すために。あれは名誉を重んじたから。 顔蔽いせる者 いいや。 人間 ではどうして? 顔蔽いせる者 煙突から落ちたのだ。 人間 (失神したるがごとく沈黙) 顔蔽いせる者 二分間前まで日あたりのよい芝生の上で友人とたのしく話していた。その時友の一人がふとした思いつきで、たれか煙突にのぼって見せないかと言った。お前の子はこれもほんの気まぐれに、一つは友だちを笑わせようという人のいいおどけた心で、快活に、「やってみよう」といってのぼりはじめた。仲間はその早わざをほめた。ところで、てっぺんのところの足止めの釘が腐っていたのだ。 人間 おゝ。 顔蔽いせる者 人はその日の午後に来た道楽者の煙突掃除人をしあわせものだと言っていた。 人間 (うめくように)芸術だ。たしかなものは芸術です。わたしはわたしの涙で顔料を溶かします。私の画布の中にこわれないたしかなものを塗りこみます。 顔蔽いせる者 ここまで来てはもうたしかなともたしかにないともわしは言わない。だが、お前はお前の病気のことを忘れはしまいな。 人間 片時も。あなたが私の健康を奪ってしまったのが私の不幸のはじまりでした。そしてあなたを知るはじまりでした。それからというもの私がどれほど苦しんでいるか! 顔蔽いせる者 お前の体温がもう二度高くなればお前は刷毛を捨てねばなるまい。 人間 おゝ。 顔蔽いせる者 それは起こり得ぬ事だろうか。今だってお前は毎日熱が出るのではないか。 人間 祈りです。たしかなものは祈りです。私は寝床のなかで身動きもできなくとも目をつむって祈ることができます。 顔蔽いせる者 一つの打撃がお前の頭の調和を破れば、お前は今まで祈った口でたわいもない囈言を語り、今まで殊勝に組み合わせた手できたならしいことを公衆の前にして見せるかもしれない。あの動物園の猿のように。 人間 (よろめく)そんなことはあり得ぬことだ。 顔蔽いせる者 ありうることだ。現にお前たちの仲間はこのごろ盛んに殺し合っているようだが、そのような白痴が幾人できたか知れない、―― 人間 あなたはあまり残酷だ。 顔蔽いせる者 お前の価に相当しただけ、―― 鳥獣ら無数の生物の群れのおらぶ声起こる。 人間 (おののきつつ)あの声は? 顔蔽いせる者 お前の殺した生物の呪詛だ。 人間 あゝ。(頭をおさえる) 顔蔽いせる者 お前は姦淫によって生まれたものだ。それを愛の名でかくしてはいるが。 人間 私の罪を数えたてるのはよしてください。 顔蔽いせる者 限りがないから。―― 人間 私は共食いしなくては生きることができず、姦淫しなくては産むことができぬようにつくられているのです。 顔蔽いせる者 それがモータルの分限なのだ。 人間 (訴えるように)人間の苦痛を哀れんでください。 顔蔽いせる者 同情するのはわしの役目ではない。 人間 なぜ? あゝなぜでございますか。 顔蔽いせる者 刑罰だ!(大地六種震動す) 人間 (地に倒れる) 顔蔽いせる者 (消ゆ) 舞台暗黒。暴風雨の音。やがてその音次第に静まり、舞台ほの白くなり、うす甘き青空遠くに見ゆ。人間の姿屍のごとく横たわれるが見ゆ。かすかなる音楽。 童子の群れ (天に現わる。歌を唱う) すべての創られたるものに恵みあれ。 死なざるもののめぐし子に幸いあれ。 童子の群れ (消ゆ) 人間 (起き上がり天を仰ぐ)遠い遠い空の色だな。そこはかとなき思慕が、わたしをひきつける。吸い込まれるようなスウィートな気がする。この世界が善いものでなくてはならぬという気がほんとうにしだした。たしかなものがあることは疑われなくなりだした。私はたしかに何物かの力になだめられている。けれど恵みにさだめられているような気がする。それをうけとることが、すなわち福いであるように。行こう。(二、三歩前にあゆむ)向こうの空まで。私の魂が挙げられるまで。 ――幕――
第一幕
人物 日野左衛門 四十歳 お兼(その妻) 三十六歳 松若(その息。出家して唯円)十一歳 親鸞 六十一歳 慈円(その弟子) 六十歳 良寛(その弟子) 二十七歳
第一場
日野左衛門屋敷。 座敷の中央に炉が切ってある。長押に槍、塀に鉄砲、笠、蓑など掛けてある。舞台の右にかたよって門がある。外はちょっとした広場があって通路に続いている。雪が深く積もって道のところだけ低くなっている。 お兼 (炉のそばで着物を縫うている)やっとここまでできた。あと四、五日もすればできあがるだろう。なにしろ早くしなくてはもうすぐお正月が来る。松若も来年は十二になるのだ。早く大きくなってくれなくては。ほんとに引き延ばしたいような気がする。(間)それにつけても左衛門殿のこのごろの気のすさみようはどうしたものだろう。だんだんひどくなるようだ。国にいたころはあんな人ではなかったのだけれど。ほんとに末が案じられてならない。(外をあらしの吹き過ぎる音がする)きょうもたいそう立腹して吉助殿の家に行かれたのだけれど、めんどうな事にならなければよいが。(立ちあがり、戸をあけて空を見る)おゝ寒。(身ぶるいする)また降って来るな。(戸を締め炉のはたにきたり、火かきで火をつつき手をかざす)松若はきょうはおそいこと、寒いのに早く帰って来ればよいのに。(あたりをば見回し)もう暗くなった。(立ちあがり、押し入れから行灯を出して火をつける。仏壇にお灯明をあげ、手を合わせて拝む) 松若 (登場。色目の悪い顔。ふくれるように着物を着ている。戸をあける)かあ様、ただ今。(ふろしき包みと草紙とを投げ出し)おゝ寒い、さむい。(手に息を吹きかける) お兼 おゝお帰り。寒かったろう。さあおあたり。きょうはたいへんおそかったね。 松若 (炉のそばに行く)お師匠様のうちでごちそうが出たの。皆およばれしたのだよ。それでおそくなったの。 お兼 そうかえ。それはよかったね。お行儀よくしていただいたかえ。 松若 あゝ。わしの清書が松だったのだよ。 お兼 そうかえ。それはえらいね。草紙をお見せ。この前の清書の時は竹だったにね。(松若より草紙を受け取り、広げて見る)なるほど、「朱に交われば赤くなる」だね。だいぶしっかりして来たね。も少し字配りをよくしたらなおいいだろう。丹誠してお稽古したおかげだよ。(松若の頭をなでる) 松若 吉助さんとこの吉也さんは梅だったよ。 お兼 あの子はいたずら好きでなまけるからだよ。(間)あの、ちょいと立ってごらん。(松若立つ。ものさしで丈を測る)三寸五分だね。ではあげを短くしなくては。お前の荷物だよ。よくうつるだろう。お正月にこれを着てお師匠様の所に年始に行くのだよ。 松若 お正月はいつ来るの。 お兼 もう十二日寝ると来るよ。 松若 おとうさんは? お兼 おとうさんは吉助殿の所へ行かれた。もうおっつけお帰りだろう。 松若 吉助のうちの吉也は私をいじめるよ。きょうもお稽古から帰りに、皆して私の悪口を言って。 お兼 え。悪口をいっていじめるって。ほんとかい。 松若 松若のおとうさんは渡り者のくせに、百姓をいじめたり、殺生をしたりする悪いやつだって。 お兼 まあ(暗い顔をする)そんな事を言うかい。 松若 うむ。宅のおとうさんをいじめるから、私はお前をいじめてやると言って雪をぶっかけたよ。 お兼 悪いことをするやつがあるね。大丈夫だよ。私がお師匠様に言いつけてやるから。 松若 いんや。私が一度お師匠様にいいつけたら、帰り道によけいにいじめたよ。(残念そうに)道ばたの田の中に押し落としたりしたよ。 お兼 まあ。そんなひどい事をするかえ。心配おしでないよ。私が今によくしてあげるからね。 松若 うむ。(うなずく) お兼 (戸棚から皿に干し柿を入れて持ちきたる)さあ、これをおあがり。秋にかあさんが干しておいたのだよ。私はちょっとお台所を見て来るからね。(裏口から退場) 松若柿を食う。それからあたりを見回し仏壇の前に行き、立ったまま不思議そうに仏像を見る。それからすわってちょっと手を合わせ拝むまねをする。それから卓の上の本を捜し、絵本を一冊持って炉のはたにきたり、好奇心を感じたらしくめくって見る。 お兼 (登場。前掛けで手をふきつつ)おいしかったろう。(間)何を見ているのだえ。 松若 うむ。おいしかったよ。(熱心に絵本に見入る) お兼 今の間に少し裁縫をしよう。(炉のはたに近く縫いさしの着物を持ちきたり針を動かす) 両人しばらく沈黙。 松若 かあさん。これなんの絵だえ。 お兼 (針を止めて)お見せ。(のぞき込む)それはね、お釈迦様という仏様がおなくなりなさった絵だよ。(針をつづける) 松若 そうかい。衣を着たたくさんの坊さんがそばで泣いているね。 お兼 みんなお弟子たちだよ。偉いお師匠様がおかくれなされたのだからねえ。 松若 ふむ。猿だの蛇だのいるね。鳩もいるよ。皆泣いてるね。どうしたのだろうね。 お兼 お釈迦様は慈悲深いおかたで畜生でもかわいがっておやりなされたのだよ。それでかわいがってくれた人が死んだので皆泣いているのだよ。 松若 ふむ。(考えている) 左衛門 (登場。猟師の装いをしている。鉄砲をかつぎ、腰に小鳥を二、三羽携えている)帰ったよ。ばかに寒い。 お兼 お帰りなさい。待っていました。寒かったでしょう。降っていますか。(戸のそばまで出て迎える) 左衛門 大雪だよ。このぶんでは道がふさがってしまうだろう。(雪を払う) 松若 とう様。お帰りなさい。(手をつき頭をかがむ) 左衛門 うむ。(頭をなでる)きょうはお師匠様とこのおふるまいだったってな。 松若 あい。よく知ってるね。 左衛門 吉助かたで吉坊に聞いて来た。 お兼 あの話の首尾はどうだったの。(鉄砲を塀にかけ、獲物をかたづける) 左衛門 まるでだめだ。きょうはさんざんな目にあった。朝から山を駆け回ってやっと雑鳥が三羽だろう。それから吉助の宅に寄ったが、あのやつずるいやつでね。わしが強く出ると涙をめそめそこぼして拝み倒そうとするのだよ。それでいてこっちが優しく出ようものなら、ひどい目にあわせるのだからね。全くこの辺の百姓は手に合わないよ。(着物を着換え、炉のそばに寄る) お兼 それでどういう話になったの。 左衛門 正月までに払わなければこっちはこっちの考えを実行するからそう思えときめつけてやったよ。そしたら吉助がまっさおになったよ。おふくろはすがりついてことわりをするしね。吉也までそばで泣きだしたよ。 お兼 まあかわいそうではありませんか。も少し待っておやりなさいな。あの宅でもほんとうに困っているのでしょうから。 左衛門 どうだか知れたものではない。わしはあの吉助が心からきらいなのだ。腹の悪いくせにお追従を使って。この春だってそ知らぬ顔で宅の田地の境界を狭めていたのだ。 お兼 それは吉助も悪いには悪いけれど、そうなるのもよっぽど困るからのことですわ。 左衛門 困ると言えば宅だって困ってるではないか。こっちに移って来てからというもの、不運つづきで、少しばかりの貯えで買った田地は大水で流れるし、松若は病気をするし、なかなか楽な渡世ではないよ。優しくしていればきりがつかないのだ。吉助ばかりではない。この辺の百姓は皆そうだ。わしは時々自暴になるような気がするよ。世の中の人間が皆きらいになるよ。 お兼 でもこのお正月だけは無事に祝わせておやりなさいな。あまり手荒な事をして恨みを結んだりしては寝ざめがよくないわ。人にたたかれたのでは寝られるが、人をたたいたのでは寝られないと言うではありませんか。(間)まあ御飯をおあがりあそばせ。(裏口より退場) 左衛門 松若、お前はさっきから何を見てるのだい。 松若 かあ様の絵の本だよ。仏壇の卓にあったのだ。たくさん絵があるよ。御殿やお寺の絵もあるし、鬼が火の車をひいている絵もあるし、それから…… 左衛門 はあ。あの「地獄極楽のしるべ」か。 松若 地獄極楽って私知ってるよ。善いことをしたものは死んで極楽に行くし、悪い事をしたものは地獄に行くのだろう。だがあれはほんとうかい。 左衛門 皆うそだよ。そう言って戒めてあるのだよ。(考えて)もしほんとうとしたら、地獄だけあるだろうよ。はゝゝゝ。 松若 ここに子供が川ばたでたくさん石を積んで、鬼が金棒でくずしている絵があるがこれはなんだろうね。 左衛門 (暗い顔をする)それは賽の河原と言って子供が死んだら行く所だ。 松若 私は死んだら賽の河原へ行くのかい。 左衛門 皆うそだ。つくり話だ。(松若の顔を見る)その本はもう見るのおよし。 松若 私はなんだかこの本がおもしろいよ。 左衛門 いやそれは子供の見る本ではない。(松若より絵本を取る)お前は寒いからもうお寝みよ。また風をひくといけないからな。 松若 まだ眠くないよ。 お兼 (登場。箱膳の上に徳利を載せて左衛門の前に置く)お待ち遠さま。ひもじかったでしょう。さあおあがりなさい。(徳利を持つ) 左衛門 (杯をさし出し注いでもらって飲む)お兼。わしもなひどいことをするのは元来好きなたちではないのだ。小さい時から人のけんかをするのを見ても胸がドキドキしたくらいだよ。だがあんなふうにして殿様に見捨てられて、浪人になってこっちに渡って来てから、わしは世間の人の腹の悪さをいやになるほど知ったからな。人は皆悪いのだ。信じたものは売られるのだ。心の善いものはばかな目を見せられて、とても世渡りはできないのだ。わしは嘲笑したいような気がするのだ。わしは思うのだ。わしの優しいのは性格の弱さだ。わしはそれに打ちかたねばならない。ひどい事にも耐える強い心にならねばならない。わしは自分でひどい事に自分をならそうと努めているのだよ。 お兼 まあ。そんな事をする人があるものですか。自分の心を善くしょうと心がけるかわりに悪くしょうとして骨折るなんて。 左衛門 (飲み飲み語る)わしは悪人になってやろうと思うのだ。善人らしい面をしているやつの面の皮をはいでやりたいのだ。皆うそばかりついていやがる、わしはな、これで時々考えてみるのだよ。だが死んでしまうか、盗賊になるか、この世の渡り方は二つしか無いと思うのだ。生きてるとすれば食わねばならぬ。人と争わずに食うとすれば乞食をするほかはない。世の中の人間が皆もののわかる人間なら乞食はいちばん気持ちのいい暮らし方だろう。だがいやな人間から犬に物を投げてやるようにして哀れみの目で見られて残り物をもらって生きるのはいちばんつらいからな。そして世の中の人間はみんなそのような手合いばかりだからな。乞食もできないとすれば、むしろ力ずくで奪うほうがいくら気持ちがよいか知れない。どうせ争わねばならぬのなら、わしは慈悲深そうな顔をしたり、また自分を慈悲深いもののように考えたり虚偽の面をかぶるよりも、わしは悪者ですと銘打って出たいのだ。さもなくば乞食をするか。それも業腹なら死んでしまうかだよ。ところでわしはまだ死にともないのだ。だから強くなくてはいけないのだ。だがわしは気が弱いでな。気を強くする鍛錬をしなくてはいけないのだ。きょうも吉助の宅でおふくろに泣かれた時にはふらふらしかけたよ。わしはわしをしかってもっと気強くしなくてはならないと腹を決めてどなりつけてやったのだよ。悪くなりくらなら、おれだっていくらでも悪くなれるぞという気がしたよ。(酒を飲む) お兼 まあ、あなたのような一概な考え方をなさる人もないものですわ。そのような事を松若の前で話すのはよしてくださいな。自分の子におとうさんがお前は泥棒になれと教えるようなものではありませんか。あなたはとても悪者になれる柄ではないのですからね。根が優しいのですからね。それは善い性格ではありませんか。 左衛門 いや、わしは自分を善い性格とは考えたくないのだ。善い人間ならなぜ乞食をしないのだ。いやなぜ死なないのだ。皆うその皮だよ。わしの言う事がわからないかい。(だんだん興奮する) お兼 あなたの心持ちはわかりますけれどね。 左衛門 わしは気が弱くていけないのだ。こっちに来てからだんだん貧乏になったのもそのためだよ。様子を知らぬ武士の果てと見て取って、損と知れている商売をつかませたり、田地をせばったり、貸した金は返りはしないし。今にいやいやで乞食にならねばならなくなるよ。いやないやなやつの門口に哀れみを乞うて親子三人立たねばならなくなるよ。わしはお前や松若がかわいいでな。今のうちにしっかりしなくては末が知れている。なにしろ気が弱くてはだめだよ。(酒をがぶがぶ飲む) お兼 (心配そうに)もうおよしなさいな、お酒は。あなたはだんだん気が荒くおなりなさるのね。私はほんとうに心配しますわ。それに近所の評判も悪いのですもの。きょうもね。(声を落として)松若から聞くと、吉也がほかの子供をけしかけて松若をいじめるのですって。それがあなた、皆あなたの気荒いせいからなのですよ。 左衛門 なんだってわしのせいだというのだい。 お兼 松若のおとうさんは殺生をしたり百姓をいじめる悪いやつだっていうのですよ。宅のおとうさんをいじめるから、お前をおれがいじめてやると言って雪をぶっかけたり、道ばたから押し落としたりするそうですよ。 左衛門 そんな事をするかい。悪いやつだ。お師匠様に言いつけてやれ。 お兼 そうすると帰り道によけいにひどい目に会わせるそうですよ。 左衛門 (怒る)吉也の悪め。よし、そんな事をするならおれに考えがある。あすにも吉助の宅に行ってウンという目にあわせてやる。 お兼 そのような手荒な事をしたのではかえって松若のためにもなりませんわ。それよりもあなたがもっと気を静めて百姓などをいたわってやってくださればよいのですわ。無理をしないであなたの生まれつきの性質のとおりにしてくださればよいのではありませんか。 左衛門 それでは見る見る家がつぶれるよ。こっちが優しく出れば、向こうも、正直に応じるというように世の中の人間はできていないのだ。あくまで優しく出る気ならさっきも言ったようにいやなやつの門口に立つ覚悟でなくてはできないのだ。お前にその覚悟があるかい。わしは世渡りの巧みな性質に生まれて来ていないのだ。この性質を鍛え直さなくては世渡りができないのだ。妻子を養い外の侮辱を防ぐ事ができないのだ。(気をいら立てる)もっと悪に耐えうる強い性格にならなくてはならないのだ。おれはおかげでだんだん悪くなれそうだよ。昔は人様に悪く言われると気になって夜も眠られなかったものだ。今は悪く言われても平気だよ。いや気持ちがいいくらいだよ。おれも強くなったなと思うのでな。鉄砲で鳥や獣を打つのでも鶏をつぶすのでも、初めはいやでならなかったが今ではなんでもなくなった。(酒を飲む) お兼 私はあなたに言おうと思っていたのです。後生だから猟はもうよしてくださいな。私殺生は心からいやですのよ。猟をしなくっては食べていけないというのではなし。 左衛門 初めはいやいややったのが、今ではおもしろくてやめられないのだ。向こうの木の枝に鳥がいる。あれはもうおれのものだと思うと勝ち誇ったような愉快な気がする。殺すも生かすもおれの心のままだでな。バタバタ落ちて来たやつを拾い上げて見ると、まだ血が翼について温かいよ。たまには翼を打たれて落ちてバタバタしてまだ生きているのもあるよ。そのような時には長く苦しませずに首をねじって参らせてやるのだ。 お兼 私そんな話を聞くのはもういやですからよしてください。私のおかあさんは生きてるとき生き物を殺すのをどんなにいやがったか知れません。あんなに信心深かったのですからね。私などはおかあさんのしつけのせいか、殺生は心からいやですわ。あなたが庭で鶏をつぶしなさる時のあの鳴き声のいやな事といったらありませんわ。それに(松若のほうをちょっと見て)それに私はなんだかあのように松若の弱いのは、あなたが殺生をしだしてからのような気がするのですよ。 左衛門 そんなばかな事があるものか。お前の御幣かつぎにもあきれるよ。 お兼 それにあなたは、信心気がありませんからね。せめて朝と晩とだけはお礼だけでもなさいましな。私などは一度でも拝むのを怠ると気持ちが悪くていけませんわ。ほんに行く末が案じられますわ。このような事では運のめぐって来ないのも無理はありませんわ。 左衛門 仏様を拝んだところでしかたがないよ。わしは仏像と面を見合わせてすわるのがつらいのだよ。(間)今晩は変な気がしてちょっとも酔えないよ。お前が陰気な話ばかりするものだから。もっと酔わなくては。(酒を杯に二、三杯続けて飲む) お兼 そんな無茶に飲むのはおよしなさいな。(左衛門を心配そうに見つつちょっと沈黙)私はほんとに心細くなるわ。(戸の外をあらしの音が過ぎる)ひどい吹雪ですねえ。 左衛門は手酌でチビリチビリ飲んでいる。お兼は黙って考えている。松若は本を見ている。親鸞、慈円、良寛、舞台の右手より登場。墨染めの衣に、笈を負い草鞋をはき、杖をついている。笠の上には雪が積もっている。 慈円 たいへんな吹雪になりましたな。 良寛 だんだんひどくなるようでございます。 慈円 お師匠様。あなたはたいそうお疲れのように見えますな。 良寛 おん衣の袖はしみて氷のように冷とうなりました。 親鸞 もう日も暮れてだいぶになるな。 慈円 雪で道もふさがってしまいました。 良寛 私はもう歩く力がございません。 親鸞 ではこのあたりで泊めてもらおうかな。 慈円 この家で一夜の宿を乞うてみましょう。 良寛 ほかの家も見あたりませんね。(戸口に行き戸をたたく)もし、もし。 松若 (耳を澄ます)とうさん。だれか戸をたたくよ。 お兼 風の音だろう。 左衛門 この吹雪に外に出るものは無いからな。 松若 いんや。確かにだれか戸をたたいてるよ。 良寛 (戸を強くたたく)もしもし。お願い申します。お願い申します。 お兼 (耳を澄ます)ほんとに戸をたたいてるね。だれか人声がするようだ。(庭におり戸を開く)どなた様で?(三人の僧を見る)何か御用でございますか。 松若母の後ろより好奇心でながめて立っている。 良寛 旅の僧でございますが、この吹雪で難儀いたしております、誠に恐れ入りますが、一夜の宿をお願いいたす事はできますまいか。 お兼 それはお困りでございましょう、もう十丁ほどおいでなされば宿屋がございます。 慈円 あの私たちは托鉢いたして歩きますものでお金を持っておりませんので。 良寛 どのような所でもただ眠ることさえできればよろしいのでございますが。 お兼 さようでございますか。(三人の僧をつくづく見る)ではちょっと夫にきいてみますから。そこはお寒うございます。内にはいってお温まりあそばせ。 左衛門 お兼。なんだい。 お兼 旅の坊さんなんですがね。三人ですの。この雪で困るから一夜だけ泊めてくれないかとおっしゃるのです。お金がないから宿には着けないのですって。 三人の僧内にはいり庭に立つ。 左衛門 (いやな顔をする)せっかくだがお断わりしよう。 お兼 でも困っていらっしゃるのだから泊めてあげようではありませんか。 左衛門 いや泊めるわけには行かないよ。 お兼 あなたいいではありませぬか。何も迷惑になるのではなし。それに御出家様ではありませぬか。 左衛門 いやだよ。(声を荒くする)坊さんだから泊められないのだ。わしは坊さんが大きらいだ。世の中でいちばんきらいだ。 お兼 そんな失礼なことを。(慈円に小声にて)お酒に酔っているのです。気を悪くしないでください。 慈円 (左衛門に)どこでもよろしゅうございますから、今晩一夜だけとめていただかれますまいか。 左衛門 お断わりします。 良寛 縁先でもよろしゅうございますが。 左衛門 くどい人だな。 慈円 お師匠様どういたしましょう。 親鸞 私がも一度頼んでみましょう。(左衛門に)御迷惑ではございましょうが、難儀をいたしておりますで、御縁とおぼしめして一夜だけ泊めていただかれませんでしょうか。 左衛門 お前さんは師匠様だな。(冷笑する)なるほどありがたそうな顔をしておいでなさるよ。だがあいにくわしは坊さんがきらいでしてな。虫が好きませんのでな。 親鸞 おいやなのはわかりました。だがあわれんでお泊めくださいまし。 左衛門 お前さんがたをあわれむなんて。どういたしまして。いちばんおうらやましい御身分でいらっしゃいますよ。この世では皆に尊ばれて死ぬれば極楽へ行かれますでな。あなたがたは善い事しかなさらないそうだでな。わしは悪い事しかしませんでな。どうも肌が合いませんよ。 親鸞 いいえ。悪い事しかしないのは私の事でございます。 左衛門 (親鸞の言葉には耳を傾けず)あなたがたのなさる説教というものはありがたいものですな。おかげで世間に悪人がなくなりますよ。喜捨、供養をすれば罪が滅びると教えてくださるので、皆喜んで米やお金を持って行きますでな。お寺は繁盛いたしますよ。すわっていて安楽に暮らして行けますよ。善い事をすれば極楽に行けるとはありがたい教えでございます。ところであいにくこの世の中は善い事ができぬようにくふうしてつくってありますでな。皆極楽参りができますよ。はゝゝゝ。 親鸞 そのようにおっしゃるのはごもっともでございます。 左衛門 あなたがたはまったくお偉いよ。むつかしいお経をたくさん読んでおられるでな。またそのお経に書いてあるとおりを実行なさるのでな。殺生もなさらず、肉も食わず、妻も持たず、まるで生きた仏様みたようでございますよ。心の内で人を呪う事もなければ、婦を見て色情も起こりませぬのでな。いやきたない夢さえも御覧になりませぬのでな。御立派な事ですよ。さような立派なおかたがたに、わしみたような汚れたものの宅に泊まっていただいてはおそれ多い気がしますのでな。 親鸞 滅相な。私は決してあなたのおっしゃるような清い人間ではありません。 左衛門 わしはけさも殺生しました。それからけんかをしました。それから酒を飲みました。それから今はお前さんがたを…… お兼 左衛門殿。ちとたしなみなさらぬか。はたの聞く耳もつらいではありませんか。(顔を赤くする。親鸞に)御出家様。どうぞ堪忍してやってくださいまし。(左衛門に)あなたそんなに口ぎたなく言ったり、皮肉を言ったりしないでも、お断わりするのなら、そう言っておとなしくお断わりすればいいではありませんか。 左衛門 だから始めから断わってるではないか。わしは坊さんはきらいだから、お泊め申す事はできないのだ。 慈円 では私ら二人は泊めていただかなくともようございます。どうぞお師匠様だけは泊めてあげてくださいませ。たいへんお疲れでございますから。 良寛 御覧のとおり寒さにふるえていらっしゃいます。 慈円 吹雪さえやめば、あすの朝早く発足いたしますから。 良寛 一夜の宿を頼むのも何かの因縁とおぼしめして。 左衛門 できないといったらできません。 外をあらしの音がする。 慈円 私はどうなってもよろしい。ただお師匠だけは……(涙ぐむ) 左衛門 あいにくそのお師匠様がいちばんきらいだよ。人に虚偽を教えるものはなおさらいやだよ。わしはな悪人だが悪人という事を知っているのだ。 親鸞 あなたはよいところに気がついておられます。私とよく似た気持ちを持っていられます。 左衛門 はゝゝゝ。あなたと私と似てたまるものかい。 良寛 では宿の儀はかないませぬか。 左衛門 かないません。 慈円 ではあきらめます。どうぞその炉で衣をかわかす事だけお許しください。しみて氷のように冷たくなっています。 お兼 さあ、さあどうぞおかわかしなさいませ。今炭をついでよい火をおこしてあげますから。(炉のほうに行かんとする) 左衛門 (さえぎる)よけいな世話を焼くな。(声を荒くする)お前がたはなんというくどいやつだろう。さっきからわしがあれほど言うのがわからないのかい。少しは腹を立てい。この偽善者め。面の皮の厚い―― お兼 左衛門殿、左衛門殿。 左衛門 (親鸞に)早く出て行け。この乞食坊主め。(親鸞を押す) 慈円 あまりと言えば失礼な―― 良寛 お師匠様に手を掛けたな。 左衛門 早く出て行け。(良寛をこづく) 良寛 なにを。(杖を握る) 左衛門 打つ気か。(親鸞の杖を取って振りあげる) 親鸞 良寛。手荒な事はなりませぬぞ。 親鸞二人の中に割って入る。左衛門親鸞を打つ。杖は笈にあたる。 慈円 お師匠様早くお出あそばせ。(左衛門をさえぎる) 松若 おとうさん。おとうさん。(うろうろする) お兼 (まっさおになる)左衛門殿、左衛門殿。(後ろから左衛門を抱き止める) 左衛門 放せ。ぶちなぐってやるのだ。 親鸞、慈円、良寛、戸の外に出る。左衛門杖を投げる。杖は雪の上に落ちる。 松若 おとうさん。おとうさん。(左衛門にしがみついて泣く) お兼 (外に飛んで出る。おどおどして親鸞をさする)痛かったでしょう。許してください。私どうしましょう。おけがはありませぬか。 親鸞 大事ありません。托鉢をして歩けばこのような事は時々あることです。 お兼 どうぞ私の夫を呪ってやってくださいますな。(泣く)悪いやつでもゆるしてやってくださいまし。 親鸞 心配なさるな。私はむしろあの人は純な人だと思っていますのじゃ。 慈円 あまりひど過ぎると思います。 良寛 (涙ぐむ)お師匠様。私はなさけなくなってしまいました。 ――黒幕――
第二場
舞台一場と同じ。夜中。家の内には左衛門、お兼、松若三人枕を並べて寝ている。戸の外には親鸞石を枕にして寝ている。良寛、慈円雪の上にて語りいる。 慈円 夜がふけて来ましたな。 良寛 風は落ちましたけれど、よけいに冷たくなりました。 慈円 足の先がちぎれるような気がします。(間)お師匠様はおやすみでございますか。 良寛 さっきまで念仏を唱えていられましたが、疲れて寝入りあそばしたと見えます。 慈円 すやすやと眠っていられますな。 良寛 お寝顔の尊い事を御覧なさいませ。 慈円 生きた仏様とはお師匠様のようなかたの事でしょうねえ。 良寛 私はおいとしくてなりません。(親鸞の顔に雪がかかるのを自分の衣で蔽うようにする) 慈円 なかなかの御苦労ではございませんね。 良寛 私は若いからよろしいけれど、お師匠様やあなたはさぞつろうございましょう。おからだにさわらなければようございますが。(親鸞のからだに手を触れて)まるでしみるように冷たくなっていられます。 慈円 この屋の家内は炉のそばで温かく休んでいるのでしょうね。 良寛 主人はあまりひど過ぎますね。酒の上とは言いながら。 慈円 縁の先ぐらいは貸してくれてもよさそうなものですにね。 良寛 私は行脚してもこのような目にあったのは初めてです。 慈円 お師匠様を打つなんてね。 良寛 私はあの時ばかりは腹が立ってこらえかねましたよ。お師匠様がお止めなさらぬなら打ちのめしてやろうと思いました。 慈円 あの手が腐らずにはいますまい。(間)お師匠様の忍耐強いのには感心いたします。私は越路の雪深い山道をお供をして長らく行脚いたしましたが、それはそれはさまざまの難儀に出会いました。飢え死にしかけた事もありますし、山中で盗賊に襲われたこともありますよ。親知らず、子知らずの険所を越える時などは、岩かどでお足をおけがなされて、足袋はあかく血がにじみましてな。 良寛 京にいられた時には草鞋など召した事はなかったのでしょうからね。 慈円 いつもお駕籠でしたよ。おおぜいのお弟子がお供に付きましてね。お上の御勘気で御流罪にならせられてからこのかたの御辛苦というものは、とても言葉には尽くせぬほどでございます。 良寛 あなたはそのころから片時離れずお供あそばしていらっしゃるのですからね。 慈円 私は死ぬまでお師匠様に従います。京にいるころから受けたおんいつくしみを思えば私はどんなに苦しくても離れる気にはなられません。 良寛 ごもっともでございます。(間)私は比叡山と奈良の僧侶たちが憎くなります。かほどの尊い聖人様をなぜあしざまに讒訴したのでございましょう。あのころの京での騒動のほども忍ばれます。 慈円 あのころの事を思えばたまらなくなります。偉いお弟子たちはあるいは打ち首、あるいは流罪になられました。どんなに多くの愛し合っている人々が別れ別れになった事でしょう。今でも私は忘れられませぬのはお師匠様が法然様とお別れなされた時の事でございます。 良寛 さぞお嘆きなされた事でございましょうねえ。 慈円 それは深く愛し合っていられましたからね。お師匠様が小松谷の禅室にお暇乞いにいらした時法然様は文机の前にすわって念仏していられました。お師匠様は声をあげて御落涙なされましたよ。なにしろ土佐の国と越後の国ではとても再会のできないのは知れていますからね。それに法然聖人は八十に近い御老体ですもの。 良寛 法然様はなんと仰せになりましたか。(涙ぐむ) 慈円 親鸞よ。泣くな。ただ念仏を唱えて別れましょう。浄土できっと会いましょう。その時はお互いに美しい仏にしてもらっていましょう。南無阿弥陀仏とおっしゃいました。 良寛 それきりお別れなされたのでございますか。 慈円 忘れもせぬ承元元年三月十六日、京はちょうど花盛りでしたがね。同じ日に法然様は土佐へ向け、お師匠様は北国をさして御発足あそばしました。 良寛 法然様は今はどうしていらっしゃいますでしょう。 慈円 もうおかくれあそばしました。そのたよりのあったのは上野の国を行脚している時でしたがね。お師匠様は道に倒れて泣き入られましたよ。 良寛 ではほんとうに生き別れだったのですね。 慈円 はい。(衣の袖で涙をふく) 両人しばらく沈黙。 良寛 まだ夜はなかなか明けますまいな。 慈円 まだ夜中過ぎでございます。 良寛 寒くてとても眠られそうにはありませんね。 慈円 でも少しなと眠らないとあすの旅に疲れますからね。 良寛 では少し眠ってみましょうか。 両人横になり目をつむる。 左衛門 (うなる)うーむ。うーむ。 お兼 (身を起こす)左衛門殿。左衛門殿。(左衛門をゆり起こす) 左衛門 (目をさます)あゝ、夢だったのか。(あたりを見回し、ぼんやりしている) お兼 あなたたいへんうなされましたよ。 左衛門 あゝこわい夢を見た。 お兼 私はちょっとも寝つかれないでうつらうつらしていたら、急にあなたが変な声をしてうなりなさるものだからびっくりしましたわ。 左衛門 ふむ。(考えている) お兼 私は気味が悪かったわ。あなたが目をさますと、私を見た時にはそれは恐ろしそうな顔つきでしたよ。 左衛門 恐ろしいというよりも不気味な、たちの悪い夢だった。魂の底にこたえるような。(まじめな顔をして、夢をたどっている) お兼 どんな夢ですの。話してください。私も気にかかる事があるのですから。 左衛門 (寝床の上にすわる)わしが鶏をつぶしている夢を見たのだよ。薄寒いような竹やぶの陰だったがね。わしはそこらにころがっている材木の丸太に片足かけ片手で鶏の両の翼と首とをいっしょに畳み込んで、しっぽや胴の羽を一本一本むしっていた。鶏は痛いと見えて一本抜くたびに足をひきつけて、首をぐいぐいさせてるけれど首をねじてあるのだから鳴く事はできないのだ。見る見る胴体から胸のほうにかけて黄色いぽツぽツのある鳥肌がむきだしになった。その毛の抜けた格好のぶざまなのが、皮肉なような、残酷な感じがするものでね。 お兼 まあいやな。あなたがいつも鶏をつぶしなさるから、そのような夢を見るのですわ。 左衛門 ところで今度はあの翼を抜かねばならない。わしは片方の翼と足とを捕まえて、地べたにおしつけて力を入れて抜いた。翼は大きくて小さい骨ほどあるのだからちょっと引っぱったぐらいでは抜けはしないからね。すると一本抜くごとに鶏が悲鳴をあげるのだ。 お兼 私はあの声ぐらいいやなものはありませんわ。殺してしまってからぬけばよかりそうなものですにね。 左衛門 それでは羽が抜けにくいし、だいち肉がおいしくなくなるのだ。わしは夢の中でその声を聞くとなんとも言えない残酷な快感を感じるのだ。それで首を自由にさせて、ゆっくりゆっくり一本ずつぬいて行った。するとお前が飛んで来てね。 お兼 まあ。いやな。私も出るのですか。 左衛門 うむ。後生だから、鳴かせるのはよしてくださいと言うのだ。それでわしは鶏の首をぐるぐるねじったのだ。それがまるで手ぬぐいを絞るような気がするのだよ。そして鶏の頭を、背のところにおしつけて、片手で腹をしめつけて、足を踏まえて、しばらくじッとしていたのだ。鶏は執念深くて、お尻で呼吸をするのだからな。もう参ったろうと思って手を放したところが、その毛のぬけたもう鶏とは見えないようなやつが、一、二間も駆け出すのだよ。 お兼 もうよしてください。ほんとに恐ろしい。 左衛門 それからが気味が悪いのだよ。わしはあわてて、その鶏を捕まえて、今度は鶏の首を打ち切ろうと思って地べたに踏みつけて庖丁を持って今にも切ろうとしたのだよ。鶏は変な目つきをしてわしを見た。そして訴えるような、か弱い声でしきりに鳴くのだ。その時急に夢の中でわしがその鶏になってるんだよ。わしは恐ろしくて声を限り泣いた。「鶏つぶし」は冷然としてわしの顔を見おろしていた。わしはもう鳴く力も弱くなって、哀れな訴えるような声を立てていた。するとわしはなんだかこのとおりの事がいつか前に一度あったような気がするのだよ。はて聞き覚えのある声ではあるわいと思った。その時今まで長く忘れてしまっていた一つの光景が不思議なほどはっきりとその鶏になってるわしの記憶によみがえって来たのだ。ずっと昔にわしが前の世にいた時に一人の旅の女を殺した事があったのだ。わしは山の中で脇差をぬいて女に迫った。女は訴えるような声を立てて泣いた。わしが思い出したのはその泣き声だったのだ。その報いが今来たのだなと思った。屠殺者の庖丁は今に下りそうで下らない。その時わしはうなされて目がさめたのだ。 お兼 なんて変な恐ろしい夢でしょうねえ。(身ぶるいする) 左衛門 その前世の悪事の光景を思い出した時の恐ろしさ。気味の悪いほどはっきりしているのだからね。あゝ地獄だという気がしたよ。今でも思い出すと魂の底が寒いような気がする。(青い顔をしている) お兼 今夜はなんだか変な気がしますね。私も寝床にはいってから少しも眠られないので、いろいろな事が考えられてならなかったのですの。実は私のなくなったおかあさんの事を思い出しましてね。変な事をいうようですけれどもね。私はなんだか宵のあの出家様が私のおかあさんの生まれかわりのような気がするのですよ。 左衛門 なにをばかな。そんな事があるものか。 お兼 おかあさんはあんなに信心深かったでしょう。そして死ぬる前ころ私に「私は今度はどうせ助かるまい。私が死んだら坊様に生まれかわって来る。よく覚えておおきよ。門口に巡礼して来るからね」って言いました。それを真顔でね。それからというものは私は巡礼の僧だけは粗末にする気になれないのですよ。その事を思い出しますのでね。 松若 (目をさます)もう起きるのかい。 お兼 いいえ。夜中だよ。寒いから寝ておいで。(蒲団をかけてやる) 松若 そうかい。(また寝入る) 二人沈黙。外を風の音が過ぎる。 左衛門 宵の出家の衆はどうしただろうね。 お兼 雪の中を迷っているでしょうよ。 左衛門 わしは気になってね。酒に酔っていたものだからね。すこしひどすぎた。(考えている) お兼 あなた坊さまを杖でぶちましたね。 左衛門 悪い事をした。 お兼 私がはたで見ていても宵のあなたのやり口は立派とは思えませんでしたよ。乱暴なだけではありませんでしたからね。あなたのいつもはきらう、皮肉やら、あてつけやら、ひねくれた冷たい態度でしたからね。 左衛門 わしもそう思うのだ。宵にはどうも気が変になって来ていたからね。 お兼 それにあの坊さんはよさそうな人でしたよ。少しも気取ったところなどなくて、謙遜な態度でしたからね。私は好きでしたから、泊めてあげたかったのですのに、あなたはまるで聞きわけが無いのですもの。 左衛門 少し変わった坊様のようだったね。 お兼 少しも悪びれない立派な応対でしたわ。私はかえってあの坊様にあなたの風を見せるのが恥ずかしくて顔が赤くなるようでしたわ。 左衛門 まったくいけなかったね。 お兼 それにあの坊様はあなたの言葉に興味を感じて注意しているようでしたよ。むしろ親しい好意のある表情をして聞いていましたよ。 左衛門 わしもそんな気がせぬでもなかった。 お兼 ほんとに宵のあなたはみじめだったわ。坊様はあなたの皮肉に参らないで、かえってあなたを哀れみの目で見ているようでしたよ。 左衛門 (顔を赤くする)そう言われてもしかたがない。 お兼 お弟子衆は私らは家の外でもよろしい、ただお師匠様だけは凍えさせたくない、と言って折り入って頼むのに、あなたは冷淡に構えているのですもの。私かわいそうでしたわ。 左衛門 どうしてああだったのだろう。わしの中に悪霊でもいたのだろうか。 お兼 おまけに杖でぶったのですもの。あの時年とったお弟子は涙ぐんでいましたよ。若いほうのお弟子が腹を立てて杖を握りましたら、坊様はそれを止めましたよ。威厳のある顔つきでしたわ。 左衛門、黙って腕を組んでいる。 お兼 私は外に飛んで出て思わず坊様の肩をさすって許しを乞いましたのよ。でもあまりおいとしかったのですもの。 左衛門 坊様はその時なんと言った。 お兼 大事ありません、行脚すれば、このような事はたびたびありますとおっしゃいました。 左衛門 あれからどうしただろうかねえ。さだめしわしを呪った事であろう。(考える)お前これから行って呼びもどして来てくれないか。あの坊様が一生呪いを解かずに雪の中を巡礼していると思うとわしはたまらなくなる。 お兼 いいえ。夫を呪ってやってくださるなと私が言ったら、安心なさい、私はむしろあの人を心の純な人と思っていますとおっしゃいましたよ。 左衛門 そんな事を言ったかえ。(涙ぐむ)どうぞも一度連れて来てくれ。わしはあやまらなくては気がすまない。 お兼 この雪の降る真夜中にどことあてもなく捜すことができるものですか。 左衛門 これきり会えないのはたまらない気がする。 お兼 でもしかたがありませんわ。 左衛門 もしかまだ門口にいられはすまいか。 お兼 そんな事があるものですか。あんな所に立っていたら凍え死にしてしまいますわ。 左衛門 でも気になるから、見て来てくれ。 お兼 見て来るには来ますけれどね。(手燭をともし、庭におり、戸をあけて外を透かして見る)あら(叫ぶ。外に一度飛んで出る。それからまた内にはいる)左衛門殿。早く来てください。来てください。(外に飛び出る) 左衛門、緊張した、まっさおな顔をして外に飛び出る。松若母の声に目をさまし、父のあとからついて出る。三人の僧驚いて目をさまし、身を起こす。 お兼 まあ、あなたがたはまだここにいらしたのですか。この雪の降るのに、この夜中に。まあ、どうだろう。冷たかったでしょう。凍えつくようだったでしょう。 左衛門 (親鸞に)私は……私は……(泣く)許してください。(雪の上にひざまずく) 親鸞、感動する。少しおどおどする。それから黙って左衛門の肩をさする。 お兼 根はいい人なのですからね。根はいい人なのですからね。 慈円 (涙ぐむ。小声にて)南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。 良寛 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。 異様な緊張した感動一同を支配す。少時沈黙。 お兼 どうぞ皆様内にはいってください。炉にあたってください。冷たかったでしょう。この夜中に。薄い衣きりで。ほんとにどうぞはいってください。(親鸞の衣より雪を払う)こんなに雪がたくさんかかって。(内にはいる) 左衛門続いてはいる。親鸞、慈円、良寛、沈黙して内にはいり、雪を戸口で衣より払い庭に立つ。 左衛門 (座敷に上がる)どうぞ上がってください。お兼たき木をたくさんついでくれ。 お兼 (たき木をつぎつつ)どうぞ上がってください。炉のそばで衣をかわかしてください。 親鸞 (弟子に)ではあげてもらいましょう。(草鞋を脱いで座敷に上がり炉のそばに寄る。慈円、良寛それにならう) 左衛門 宵には私はひどい仕打ちをいたしました。酒を飲んで気が変になっていたのです。いったいにこのごろ気が変になっているのです。私が悪うございました。私は恥ずかしい気がします。私は皮肉を言ったり冷笑したりしました。(熱心になる)私はそれがいちばん気にかかります。あなたがたはさぞ私を卑しいやつだとおぼしめしたでしょう。そう思われてもしかたがありません。私はいつもはそのような事を卑しんでいました。けれど昨夜は心の中に不思議な力があって、私にそのような所業をさせてしまいました。私はその力に抵抗する事ができませんでした。 親鸞 それを業の催しというのです。人間が罪を犯すのは、皆その力に強いられるのです。だれも抵抗する事はできません。(間)私はあなたを卑しい人とは思いませんでした。むしろ純な人だと思いました。 左衛門 ようおっしゃってくださいます。私が一つの呪いの言葉を出した時に、次の呪いの言葉がおのずからくちびるの上にのぼりました。私はののしり果たすまではやめられませんでした。あなたがたを戸の外に締め出したあとで、私の心はすぐに悔い始めました。けれど私はそれを姑息にも酔いでごまかしました。私はけさ不思議に恐ろしい夢にうなされて目がさめました。酔いはすでにさめ果てていました。私は宵の出来事を思い返しました。そして心鋭い後悔の苦しみと、あやまりたい願いでいっぱいになりました。このままあやまらずにしまうならどうしようかと思いました。その時雪の中で凍えかけていられるあなたがたを見いだしたのです。どうぞ私を許してください。 親鸞 仏様が許してくださいましょう。あなたのお心が安まるために、私も許すと申しましょう。あなたが私に悪い事をなすったのなら。けれど私はあなたを裁きたくありません。だいち私はその価がありません。昨夜私は初めあなたの言葉を聞いた時あなたの心の善さがじきにわかりました。私は親しい心であなたに対しました。けれどあなたは私を受けいれてくれませんでした。その時私はあなたをお恨み申しました。外に追い出された時私の心は怒りました。もし奥様のとりなしの言葉が無いならば、あなたを呪ったかもしれません。私は奥様に決して呪いませんと申しました。けれど夜がふけて寒さの身にしむにつれて、私の心はあなたがたを恨み始めました。私は決して仏様のような美しい心で念仏していたのでありません。私はだいち肉体的苦痛に圧倒されそうでした。それからあなたがたを呪う心と戦わねばなりませんでした。私の心は罪と苦しみとに囚われていたのです。 左衛門 あなたのお話はこれまでの坊様のとはちがいます。あなたは自分を悪人かのようにお話しなされます。 親鸞 私は自分を悪人と信じています。そうです。私は救い難き悪人です。私の心は同じ仏子を呪いますもの。私の肉は同じ仏子を食いますもの。悪人でなくてなんでしょうか。 慈円 お師匠様はいつもそのように仰せられます。 お兼 左衛門殿も常々そのように申します。 親鸞 (左衛門に)あなたはよいところに気がついていられます。あなたのお考えはほんとうです。 左衛門 あなたはそれで苦しくはありませんか。私は考えると自暴になります。私は善を慕う心がございます。けれど私は悪をつくらずに生きて行く事ができません。またその悪であることを思わずにいる事もできません。これは恐ろしい事だと思います。不合理な気がします。私はしかたがないから悪くなってやれという気が時々いたします。 お兼 左衛門殿は自分を悪に耐える強い人間に鍛えあげるのだと言って、わざとひどい事に自分を練らそうとするのでございますよ。そのくせいつも心は責められているのでございますよ。それで苦しまぐれに自暴になって、お酒など飲むのです。だんだん気が荒んで行きますので、私もほんとに案じています。 左衛門 どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。(間)御出家様。教えてください、極楽と地獄とはほんとうにあるものでございましょうか。 親鸞 私はあるものと信じています。私は地獄が無いはずはないという気が先にするのです。私は他人の運命を傷つけた時に、そしてその取り返しがつかない時に、私を鞭うってください、私を罰してください、と何者かに向かって叫びたい気がするのです。その償いをする方法が見つからないのです。また自分が残酷な事をした時にはこの報いが無くて済むものかという気がするのです。これは私の魂の実感です。 左衛門 私はさっきそのような気がいたしました。もしあなたがたにあやまる機会がなくて、あれぎりになってしまったら、あなたがたがいつまでも呪いを解かずに巡礼していらしたなら、私のつくった悪はいつまでも消えずにおごそかに残るにちがいないという気がしました。また私は生きた鶏をつぶす時にいつも感じます。このようなことが報いなくて済むものかと。私はあなたを打ったことを思うと、どうぞ私を打ってくださいといいたい気がします。 親鸞 私は地獄がなければならぬと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならその世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです。私たちが自分は悪かったと悔いている時の心持ちの中にはどこかに地獄ならぬ感じが含まれていないでしょうか。こうしてこんな炉を囲んでしみじみと話している。前には争うたものも今は互いに許し合っている。なんだか涙ぐまれるようなここちがする。どこかに極楽が無ければならぬような気がするではありませんか。 左衛門 私もそのような気もするのです。けれどそのような心持ちはじきに乱されてしまいます。一つの出来事に当たればすぐに変わります。そして私の心の中には依然として、憎みや怒りが勝ちを占めます。そして地獄を証するような感情ばかり満ちます。 親鸞 私もそのとおりです。それが人間の心の実相です。人間の心は刺激によって変じます。私たちの心は風の前の木の葉のごとくに散りやすいものです。 左衛門 それにこの世の成り立ちが、私たちに悪を強います。私は善い人間として、世渡りしようと努めました。しかしそのために世間の人から傷つけられました。それでとても渡世のできない事を知りました。死ぬるか乞食になるかしなくてはなりません。しかし私は死にともないのです。女房や子供がかわいいのです。またいやなやつの門に哀れみを乞うて立つのはたまりません。私は悪人になるよりほかに道がありません。けれどそれがまたいやなのです。私の心はいつも責められます。 親鸞 あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。善くなろうとする願いをいだいて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのがほんとうです。私はあなたの苦しみを尊いと思います。私は九歳の年に出家してから、比叡山や奈良で数十年の長い間自分を善くしょうとして修業いたしました。自分の心から呪いを去り切ってしまおうとして、どんなに苦しんだ事でしょう。けれど私のその願いはかないませんでした。私の生命の中にそれを許さぬ運命のあることを知りました。私は絶望いたしました。私は信じます。人間は善くなり切る事はできません。絶対に他の生命を損じない事はできません。そのようなものとしてつくられているのです。 左衛門 あなたのような出家からそのような言葉を聞くのは初めてです。では人は皆悪人ですか。あなたもですか。 親鸞 私は極重悪人です。運命に会えば会うだけ私の悪の根深さがわかります。善の相の心の眼にひらけて行くだけ、前には気のつかなかった悪が見えるようになります。 左衛門 あなたは地獄はあるとおっしゃいましたね。 親鸞 あると信じます。 左衛門 (まじめな表情をする)ではあなたは地獄に堕ちなくてはならないのでありませんか。 親鸞 このままなら地獄に堕ちます。それを無理とは思いません。 左衛門 あなたはこわくはないのですか。 親鸞 こわくないどころではありません。私はその恐怖に昼も夜もふるえていました。私は昔から地獄のある事を疑いませんでした。私はまだ童子であったころに友だちと遊んで、よく「目蓮尊者の母親は心が邪険で火の車」という歌をうたいました。私はその歌が恐ろしくてなりませんでした。そのころから私はこの恐怖を持っていたのです。いかにすれば地獄から免れる事ができるか。私は考えもだえました。それは罪をつくらなければよい。善根を積めばよいと教えられました。私はそのとおりをしようと努めました。それからというもの、私は艱難辛苦して修業しました。それはずいぶん苦しみましたよ。雪の降る夜、比叡山から、三里半ある六角堂まで百夜も夜参りをして帰り帰りした事もありました。しかし一つの善根を積めば、十の悪業がふえて来ました。ちょうど、賽の河原に、童子が石を積んでも積んでも鬼が来て覆すようなものでした。私の心の内にはびこる悪は、私に地獄のある事をますます明らかに証しました。そして私はその悪からのがれる希望を失いました。私は所詮地獄行きと決定しました。 左衛門 私はこわくなります。あなたのお話を聞いていると、地獄が無いなどとは思われなくなります。魂の底の鋭い、根深い力が私に迫ってまいります。私は地獄はないかもしれないと、運命に甘えておりました。きょうもせがれに地獄極楽はほんとうにあるのかときかれて私はうそだ、つくり話だと言いましたけれど、自信はありませんでした。地獄だけはあるかもしれないと冗談を言って笑いましたけれどほんとにそうかもしれないという気がして変に不安な気がしました。あなたに会って話していると、私は甘える心を失います。魂の深い知恵が呼びさまされます。そして地獄の恐ろしさが身に迫ります。 お兼 ゆうべの夢の話と言い、私はなんだか気味の悪いここちがするわ。 左衛門 (外をあらしの音が過ぎる)その地獄から免れる道はありませぬか。 親鸞 善くならなくては極楽に行けないのならもう望みはありません。しかし私は悪くても、別な法則で極楽参りがさせていただけると信じているのです。それは愛です。赦しです。善、悪をこえて働く力です。この世界はその力でささえられているのです。その力は、善悪の区別より深くてしかも善悪を生むものです。これまでの出家は善行で極楽参りができると教えました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。しかし仏様は私たちを悪いままで助けてくださいます。罪をゆるしてくださいます。それが仏様の愛です。私はそれを信じています。それを信じなくては生きられません。 左衛門 (目を輝かす)殺生をしても、姦淫をしても。 親鸞 たとい十悪五逆の罪人でも。 良寛 御慈悲に二つはございませぬ。 慈円 他力の信心と申して、お師匠様のお開きなされた救いの道でございます。 左衛門 (まっさおな、緊張した顔をして沈黙。やがて異常の感動のために、調子のはずれた、物の言い方をする)私は変な気がします。私は急に不思議な、大きな鐘の声を聞いたような気がします。その声は私の魂の底までさえ渡って響きました。私の長く待っていたものがついに来たような親しい、しっくりとした気持ちがします。私はありがたい気がします。私はすぐにその救いが信じられます。そのはずです。それはうそではありません。ほんとうでなければなりません。私は気がつきました。前から知っていたように、私のものになりました。まったく私の所有になりました。ありがたい、泣きたいような気がして来ました。 親鸞 それはほんとうです。私は吉水で法然聖人に会った時、即座にその救いが腹にはいりました。あなたの今の感じのとおりです。さながら忘れていたものを思い出したようでした。まるで単純な事です。だれでもこの自分に近い、平易な真理がわからないのが不思議でした。私たちの魂の真実を御覧なさい。私たちは愛します。そしてゆるします。他人の悪をゆるします。その時私たちの心は最も平和です。私たちは悪い事ばかりします。憎みかつ呪います。しかしさまざまの汚れた心の働きの中でも私たちは愛を知っています。そしてゆるします。その時の感謝と涙とを皆知っています。私たちの救いの原理も同じ単純な法則です。魂の底からその単純なものがよみがえって来るのです。そして信仰となるのです。 慈円 あなたは長い間正直に苦しみなさいました。自分の心を直視なさいました。あなたの心の歩みは他力の信仰を受け取る充分な用意ができていたのです。 良寛 前のものからあとのものに移る必然性がある時には、たやすいほどな確かさがまるで水の低きに流れるようにして得られるものでございますね。 親鸞 あなたの信心は堅固なものだと存じます。 左衛門 私は今夜はうれしい気がします。この幾年私の心を去っていた平和が返って来たようなここちがいたします。(涙ぐむ) お兼 ほんとにそうですわ。もうずいぶん長い間あなたが潤うた、和らかな心でいらしたことはありませんわ。 親鸞 あなたは自分を悪に慣らそうとつとめているとおっしゃいましたね。 左衛門 私は生まれつき気が弱くていけないのです。それでは渡世に困るから、もっと悪人にならねばならぬと思ったのでした。 お兼 それで猟を始めたり、鶏をつぶしたり、百姓とけんかしたりするのでございますよ。 親鸞 私はあなたの心持ちに同情します。しかしそれは無理な事です。あなたは「業」ということを考えたことはありませぬか。人間は悪くなろうと努めたとて、それで悪くなれるものではありません。また業に催されればどのような罪でも犯します。あなたは無理をしないで素直にあなたの心のほんとうの願いに従いなされませ。あなたの性格が善良なのだからしかたがありません。 左衛門 では善くなろう、と努めるのも無理ですか。 親鸞 善くなろうとする願いが心にわいて来るなら無理ではありません。素直にというのは自分の魂の本然の願いに従う事です。人間の魂は善を慕うのが自然です。しかし宿業の力に妨げられて、その願いを満たす事ができないのです。私たちは罰せられているのです。私たちは悪を除き去る事はできません。救いは悪を持ちながら摂取されるのです。しかし私は善くなろうとする願いはどこまでも失いません。その願いがかなわぬのは地上のさだめです。私はその願いが念仏によって成仏する時に、満足するものと信じています。私は死ぬるまでこの願いを持ち続けるつもりです。 左衛門 渡世ができなくなりはいたしますまいか。 親鸞 できないほうがほんとうなのです。善良な人は貧乏になるのが当然です。あなたは自然に貧しくなるなら、しかたがないから貧しくおなりなさい。人間はどのようにしてでも暮らされるものです。お経の中には韋駄天が三界を駆け回って、仏の子の衣食をあつめて供養すると書いてあります。お釈迦様も托鉢なさいました。私も御覧のとおり行脚いたしています。でもきょうまで生きて来ました。私のせがれもなんとかして暮らしています。 お兼 あなたにはお子様がお有りなさるのですか。 親鸞 はい。京に残してあります。六つの年に別れてからまだ会わずにいるのです。 お兼 まあ。そして奥様は? 親鸞 京を立つ時に別れましたが、私が越後にいる時に死にましてな。 お兼 御臨終にもお会いなさらないで。 慈円 お師匠様は道のために、お上のおとがめをこうむって御流罪におなりあそばしたのでございます。奥様のおかくれあそばしたのは、その御勘気中で京へお帰りあそばす事はできなかったのです。まだ二十六のお若死にでございました。 良寛 玉日様と申してお美しいかたでございました。それから後の御苦労と申すものは、一通りではございません。なにしろ公家の御子息―― 親鸞 それはもう言うてくれるな。 お兼 (涙ぐみ)さだめしお子様に会いたい事でございましょうねえ。 親鸞 はい。時々気になりましてな。 お兼 ごもっともでございます。 親鸞 (松若に)お幾つにおなりなさる。 松若 (顔を赤くする)十一。 親鸞 よいお子じゃの。(頭をなでる) 左衛門 少しからだが弱いので困ります。 親鸞 ほんに少し顔色が悪いね。 一同しばらく沈黙。 親鸞 良寛、ちょっと私の笈を見てくれ。最前杖があたった時に変な音がしたのだが、もしかすると…… 良寛 (笈をひらいて見る)おゝ阿弥陀様のお像がこわれています。(小さな阿弥陀如来の像を取り出す) 慈円 左のお手が欠けましたな。 左衛門 (青ざめる)私に見せてください。(小さな仏像をつくづく見入る。やがて涙をはらはらこぼす) 親鸞 左衛門殿どうなされた。 一同左衛門を見る。 左衛門 私はたまりません。この小さく刻まれたお顔の尊いことを御覧なさいませ。私はこのお像を杖で打ちこわしたのです。この美しい左のお手を。指まで一本一本美しく彫ってあるこのお手を。私の魂の荒々しさが今さらのように感じられます。私は悪い事をいたしました。私の業の深さが恐ろしくなります。私は親鸞様を打ちました。お弟子たちをののしりました。そして仏像を片輪にしました。私は、私は……(泣く) 親鸞 左衛門殿、お泣きなさるな。さほどに罪深きあなたをもそのまま許してくださるのが仏様のお慈悲です。この仏像はかたみにあなたにさしあげます。これを見てはあなたの業の深いことを思ってください。そしてその深重な罪の子をゆるしてくださる仏様を信じてください。そしてあなたの隣人をその心で愛してください。(間)もうほど無く夜も明けましょう。私はお暇いたします。あすの旅路を急ぎます。良寛、慈円、したくをなさい。(親鸞立ちあがる) 左衛門 (親鸞の衣の袖を握る)どうぞお待ちください。私は出家いたします。これからあなたのお供をいたします。どこまでも連れて行ってください。 親鸞 (感動する)あなたのお心はわかります。私は涙がこぼれます。けれどあなたは思いとどまってください。浄土門の信心は在家のままの信心です。商人は商人、猟師は猟師のままの信心です。だから私も妻も持てば肉も食うのです。私は僧ではありません。在家のままで心は出家なのです。形に捕われてはいけません。心が大切なのです。 左衛門 でもあなたとこのままお別れするのはつろうございます。いつまた会われるのかわかりません。 お兼 せめて四、五日なりとお泊まりあそばして。 親鸞 会うものはどうせ別れなくてはならないのです。それがこの世のさだめです。恋しくおぼしめさば南無阿弥陀仏を唱えてください。私はその中に住んでいます。 左衛門 ではどうあってもお立ちなされますか。 親鸞 縁あらばまたお日にかかれる時もございましょう。 お兼 これからどちらに向けておいでなされます。 親鸞 どこと定まったあてはありません。 親鸞、慈円、良寛身じたくをして外に出る。夜はしらしらと明けかけている。左衛門、お兼は門口に立つ。松若も母に手を引かれて立って見送る。 親鸞 私はこのようにしてたくさんな人々と別れました。私の心の中には忘れ得ぬ人々のおもかげがあります。きょうからあなたがたをもその中に加えます。私はあなたがたを忘れません。別れていてもあなたがたのために祈ります。 左衛門 私もあなたを一生忘れません。あなたのために祈ります。 お兼 おからだを大切になさってくださいまし。(涙ぐむ) 慈円 夜も明けはじめました。 良寛 雪もやんだようでございます。 親鸞 ではさようなら。 左衛門 さようなら。 お兼 さようなら。(松若に)おい、さようならをおし。 松若 おじさん、さようなら。 親鸞 (松若を衣の袖で抱く)さようなら。大きく偉くおなりなさいよ。 慈円 さようなら。 良寛 さようなら。 親鸞、慈円、良寛、退場。左衛門、お兼、松若、涙ぐみつつ見送る。 ――幕――
第二幕
場所 西の洞院御坊。 本堂の裏手にあたる僧の控え間。高殿になっていて京の町を望む。すぐ下に通路あり。通行人あり。 人物 親鸞 七十五歳 松若改め唯円 二十五歳 僧三人 同行衆 六人 内儀 女中 丁稚 二人 十二、三歳 時 第一幕より十五年後 秋の午後 僧三人語りいる。 僧一 まだお勤めまでにはしばらく暇がありますね。 僧二 おっつけ始まりましょう。もう本堂は参詣人でいっぱいでございます。 僧三 今さらながら当流の御繁盛はたいしたものでございますね。 僧一 本堂にははいり切れないで廊下にこぼれている者もたくさんございます。なにしろきょうはあれほど帰依の厚かった法然聖人様の御法会でございますもの。 僧二 そのはずでもありましょうよ。御存命中は黒谷の生き仏様とあがめられていらっしゃいましたからね。土佐へ御流罪の時などは、七条から鳥羽までお輿の通るお道筋には、老若男女が垣をつくって皆泣いてお見送りいたしたほどでございました。 僧三 私はあの時鳥羽の南門までお供をいたしました。それからは川舟でした。長くなった白髪に梨打烏帽子をかぶり、水色の直垂を召した聖人様がお輿から出て、舟にお乗りなされた時のおいとしいお姿は、まだ私の目の前にあるようでございます。 僧一 もうおかくれあそばしてから二十三年になりますかね。月日のたつのは早いものですね。私たちの年寄ったのも無理はありませんな。 僧二 法然聖人様と申し、お師匠様と申し、ずいぶん御難儀なされたものでございますね。きょうの御繁盛もそのおかげでございますね。 僧三 浄土門今日の御威勢を法然様が御覧なされたら、さぞお満足あそばすでしょうにね。 僧二 お師匠様もだいぶお年を召しましたね。 僧一 今度の御不例は大事ありますまいか。 僧二 いいえ、ほんのお風を召したばかりでございます。 僧三 御老体ゆえお大切になされなくてはなりません。 僧一 唯円殿がだいじにお仕えなさるゆえ安心でございます。 僧二 唯円殿はお若いのによく万事気がつきますからね。 僧三 ああしておとなしい気の優しい人ですからね。 僧一 お師匠様はまた唯円殿をことのほかお寵愛なさいますようですね。 僧二 おそばの御用事は皆唯円殿に仰せつけられます。 唯円 (登場。廊下伝いに本堂のほうに行く。僧のほうに会釈する)御免あそばせ。 僧三 唯円殿。 唯円 はい。(立ち止まる) 僧一 急ぎの御用でございますか。 唯円 いいえ。別に。ちょっと本堂まで行ってみようと存じまして。 僧二 ではちょっとここにお寄りなされませ。伺いたい事もございます。 僧三 お勤めの始まるまでお茶でも入れて話しましょう。 唯円、僧のそばに行きてすわる。僧三お茶をついで唯円にすすめる。 僧一 お師匠様の御模様はいかがでございます。 唯円 ただ今はお寝みでございます。 僧二 気づかいな御容体では無いのでしょうね。 唯円 はい、もうほとんどよろしいのでございます。きょうも大切な法然様の御命日ゆえ起きてお勤めするとおっしゃったのを私が無理に御用心あそばすようにお止め申したのでございます。もう起きて庭などお散歩あそばすほどでございます。 僧三 それがよろしゅうございます。おからだにさわってはなりません。 僧一 私などとは違い大切なおからだでございますからね。 僧二 誠に念仏宗の柱石でいらっしゃいます。 僧三 法然聖人御入滅後法敵多き浄土門を一身に引き受けて今日の御繁盛をきたしましたのは、まったくお師匠様のお徳でございます。 僧一 万一いまお師匠様の身に一大事がありでもしたら、当流はまるで暗やみのごとくになりましょう。 僧二 我々初め数知れぬお弟子衆は善知識を失うて、途方に暮れる事でございましょう。 僧三 頼りに思う御子息善鸞様はあのようなふうでございますしね。 僧一 当流の法統を継ぐべき身でありながら、父上におそむきあそばすとは浅ましい事でございます。 僧二 お師匠様とは打って変わって荒々しい御性質でございます。 僧三 不肖の子とでも申すのでございましょうか。 唯円 早く父上の御勘気が解けてくれればよいと思います。 僧一 いやあのようなお身持ちでは御勘気の解けぬが当然と思います。あのようなお子がお世継ぎとあっては当流の名にもかかわります。 僧二 普教のさわりにもなろうと思われます。 僧三 たださえ世間では当流の安心は万善を廃するとて非難いたしておるおりでございます。 唯円 善鸞様は善いかたでございます。あなたがたの思っていられるようなかたではありません。私は善鸞様としばらく話してすぐに好きになりました。どのような事をなされたかは存じませぬが私はあのかたを悪いかたとは思われません。 僧一 唯円殿のお言葉ですが、善鸞様は放蕩にて素行の修まらぬ上に、浄土門の信心に御反対でございます。 僧二 放蕩をなさるのなら浄土門の信心でなくては出離の道はありますまいにね。 僧三 では悪くても救われるから悪い事もしてやれというのではないのですね。 僧一 私もそうであろうと思いました。しかしほんとうはそうではなさそうです。それで私も合点が行かぬのでございます。 僧二 それではお師匠様の御立腹も無理はございませんね。 唯円 お師匠様は善鸞様の事を陰ではどれほど気にしていらっしゃるか知れませんよ。 僧三 しかし今のままではとても御勘気の解ける見込みはありませんね。なにしろ稲田の時からの長い御勘当でございますからね。 唯円 善鸞様は今度稲田から御上洛あそばすそうでございますが。 僧一 とても御面会はかないますまい。 唯円 どうぞ御面会がかないますようにあなたがたのおとりなしのほどをお願い申します。 僧二 そのような事はめったにできません。お師匠様のおしかりを受けます。 僧三 善鸞様のお心が改まらなくてはかえっておためにもなりますまい。 唯円 私は悲しい気がいたします。 一同ちょっと沈黙。 僧一 きょうの法話はどなたがなさるのでございますか。 僧二 私がいたすはずになっています。 僧三 どのような事についてお話しなさるおつもりですか。 僧二 法悦という事について話そうと考えています。仏の救いを信ずるものの感ずる喜びですな、経にいわゆる踴躍歓喜の情ですな。富もいらぬ、名誉もほしくない、私にはそれよりも楽しい法の悦びがあります。その悦びがあればこそこの年まで墨染めの衣を着て貧しく暮らして来たのですからね。 僧一 そうですとも。私は他人の綺羅をうらやむ気はありません。私は心に目に見えぬ錦を着ていると信じていますから。 僧二 私はきょう話そうと思います。皆様はこの法悦の味を知っていますか。もしこの味を知らないならば、たとい皆さんは無量の富を積んでいようとも、私は貧しい人であると断言いたしますと。(肩をそびやかす) 僧三 それは思い切った、強い宣言ですな。 僧二 若いむすこや娘たち――私は言おうと思います。皆様はこの法悦の味を知っていますか。もしこの味を知らないならばたとい皆様は楽しい恋に酔おうとも、私は哀れむべき人々であると断言いたします。 僧三 若い人々は耳をそばだてるでしょうね。 僧二 私からなんでも奪ってください――私は言おうと思います。富でも名誉でも恋でも。ただしかしこの法の悦びだけは残してください。それを奪われることは私にとっては死も同じ事です。 僧一 ちょうど私の言いたい事をあなたは言ってくださるようにいい気持ちがします。 僧三 私も同じ心です。その悦びがなくては私たちは実にみじめですからね。僧ほどつまらないものはありませんからね。私もその悦びで生きているのです。 僧二 私はその悦びは私たちの救われている証拠であると言おうと思います。私たちはこの濁れた娑婆の世界には望みを置かない。安養の浄土に希望をいだいている。私たちは病気をしても死を恐れることはない。死は私たちにとって失でなくて得である。安養の国に往いて生きるのだからである。このような意味の事を話そうと思うのです。 僧三 それは皆ほんとうです。私たち信者の何人も経験する実感です。 僧一 昔からの開山たちが、一生涯貧しくしかも悠々として富めるがごとき風があったのは、昔心の中にこの踴躍歓喜の情があったからであると思います。 僧二 唯円殿、あなたは何を考え込んでいられますか。 僧三 たいそう沈んでいらっしゃいますね。 僧一 顔色もすぐれませんね。お気分でも悪いのではありませぬか。 唯円 いいえ、ただなんとなく気が重たいのでございます。 僧三 そのように気のめいる時には仏前にすわって念仏を唱えてごらんなさい。明るい、さえざえした心になります。 唯円 さようでございますか。 僧一 大きな声を出してお経を読むとようございます。 僧二 一つは信心の足りないせいかもしれません。気を悪くなさいますな。私は年寄りだから言うのですからね。だが仏様のお慈悲をいただいていればいつも心がうれしいはずですからね。いつも希望が満ちていなくてはなりません。また仏様の兆載永劫の御苦労を思えば、感謝の念と衆生を哀れむ愛とが常に胸にあふれていなくてはなりませんからな。法悦のないのは信心の獲得できていない証だと思います。気を悪くなさいますな。いや若い時はだれでもそんなものですよ。 僧一 おやお勤めの始まる鐘がなっています。 僧二 本堂のほうへ参らなくてばなりません。 僧三 ではごいっしょに参りましょう。唯円殿は? 唯円 私はお師匠様のお給仕をいたしますので。 三人の僧退場。唯円しばらく沈黙。やがて茶器を片付け、立ちあがり、廊下にいで、柱に身をよせかけ、ぼんやりして下の道路を見ている。商家の内儀と女中と下の道路の端に登場。 内儀 きょうはたくさんなお参りだね。 女中 いいお天気でございますからね。 内儀 ずいぶんほこりが立ちますね。(眉をひそむ) 女中 お髷が白くなりましたよ。 内儀 そうかえ。(手巾を出して髷を払う)少し急いで歩いたものだから、汗がじっとりしたよ。(額や首をふく) 女中 ほんに少し暑すぎるくらいですね。 内儀 線香に、米袋に、お花、皆ありますね。 女中 皆ちゃんとそろっています。 内儀 おやお勤めの鐘がなってるよ。 女中 ちょうどよいところへ参りました。 内儀 早く本堂のほうに行きましょう。(道路の向こうの端に退場) 親鸞 (登場。唯円の後ろに立つ)唯円、唯円。 唯円 (振り向く。親鸞を見て顔を赤くする) 親鸞 そんなところで何をしている。 唯円 ぼんやり町を通る人を見ていました。 親鸞 きょうはよいお天気じゃの。 唯円 秋にしては暑いくらいでございます。 親鸞 たくさんな参詣人じゃの。 唯円 はい。ここから見ているといろいろな人が下を通ります。 丁稚二人登場。角帯をしめ、前だれをあて、白足袋をはいている。印のはいったつづらを載せた車を一人がひき、一人が押している。 丁稚一 もっとゆっくり行こうよ。 丁稚二 でもおそくなるとまたしかられるよ。 丁稚一 私はくたびれたよ。 丁稚二 またゆうべのように居眠りするとやられるよ。 丁稚一 でも眠くてねむくてしょうがなかったのだよ。 丁稚二 ずいぶん暑いね。(手で汗をふく) 丁稚一 そんなに草履をパタパタさせな。 丁稚二 たくさんな人だね。 丁稚一 皆お寺参りだよ。 丁稚二 見せ物の看板でも見て行こうか。 丁稚一 (ちょっと誘惑を感じたらしく立ち止まる)でもおそくなるとしかられるから早く行こうよ。(退場) 親鸞 世のさまざまな相が見られるな。私は昔から通行人を見ているとさびしい気がしてな。 唯円 私もさっきからそのような気がしていたのです。 親鸞 ここでしばらくやすんで行こうか。 唯円 それがよろしゅうございます。(座ぶとんを持って来て敷く)きょうはよく晴れて比叡山があのようにはっきりと見えます。 親鸞 (すわる)あの山には今もたくさんな修行者がいるのだがな。 唯円 あなたも昔あの山に長くいらしたのですね。 親鸞 九つの時に初めて登山して、二十九の時に法然様に会うまではたいていあの山で修行したのです。 唯円 そのころの事が思われましょうね。 親鸞 あのころの事は忘れられないね、若々しい精進と憧憬との間にまじめに一すじに煩悶したのだからな。森なかで静かに考えたり漁るように経書を読んだりしたよ。また夕がたなど暮れて行く京の町をながめてあくがれるような寂しい思いもしたのだよ。 唯円 では私の年にはあの山にいらしたのですね。どのような気持ちで暮らしていられましたか。 親鸞 お前の年には私は不安な気持ちが次第に切迫して来た。苦しい時代だった。お経を読んでも読んでも私の心にしっくりとしないのだからな。それに私はその不安を心に収めて、まるで孤独で暮らさねばならなかった。 唯円 同じ年輩の若い修行者がたくさん近くにいられたのではないのですか。 親鸞 何百というほどいたよ。恐ろしい荒行をする猛勇な人や、夜の目も惜しんで研究する人や、また仙人のように清く身を保つ人やさまざまな人がいた。私もその人々のするような事をおくれずにした。ずいぶん思い切った行もした。しかし私の心のなかにはその人々には話されぬようなさびしさがあった。人生の愛とかなしみとに対するあくがれがあった。話せば取り合われないか、あるいは軽蔑されるかだから、私はその心持ちをひとりで胸の内に守っていた。そのさびしさは私の心の内でだんだんとひとには知れずに育って行った。私がいよいよ山を下る前ごろにはそのさびしさで破産しそうな気がしたくらいだったよ。 唯円 お師匠様。私はこのごろなんだかさびしい気がしてならないのです。時々ぼんやりいたします。きょうもここに立って通る人を見ていたらひとりでに涙が出て来ました。 親鸞 (唯円の顔を見る)そうだろう。(間)お前は感じやすいからな。 唯円 何も別にこれと言って原因はないのです。しかしさびしいような、悲しいような気がするのです。時々は泣けるだけ泣きたいような気がするのです。永蓮殿はからだが弱いせいだろうと言われます。私もそうだろうかとも思うのです。けれどもそうばかりでもないように思われます。私は自分の心が自分でわかりません。私はさびしくてもいいのでしょうか。 親鸞 さびしいのがほんとうだよ。さびしい時にはさびしがるよりしかたはないのだ。 唯円 今にさびしくなくなりましょうか。 親鸞 どうだかね。もっとさびしくなるかもしれないね。今はぼんやりさびしいのが、後には飢えるようにさびしくなるかもしれない。 唯円 あなたはさびしくはありませんか。 親鸞 私もさびしいのだよ。私は一生涯さびしいのだろうと思っている。もっとも今の私のさびしさはお前のさびしさとは違うがね。 唯円 どのように違いますか。 親鸞 (あわれむように唯円を見る)お前のさびしさは対象によって癒されるさびしさだが、私のさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ。人間の運命としてのさびしさなのだ。それはお前が人生を経験して行かなくてはわからない事だ。お前の今のさびしさはだんだん形が定まって、中心に集中して来るよ。そのさびしさをしのいでからほんとうのさびしさが来るのだ。今の私のようなさびしさが。しかしこのような事は話したのではわかるものではない。お前が自ら知って行くよ。 唯円 では私はどうすればいいのでしょうか。 親鸞 さびしい時はさびしがるがいい。運命がお前を育てているのだよ。ただ何事も一すじの心でまじめにやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ。何が自分の心のほんとうの願いかということも、すぐにはわかるものではない。さまざまな迷いを自分でつくり出すからな。しかしまじめでさえあれば、それを見いだす知恵が次第にみがき出されるものだ。 唯円 あなたのおっしゃる事はよくわかりません。しかし私はまじめに生きる気です。 親鸞 うむ。お前には素直な一向な善い素質がある。私はお前を愛している。その素質を大切にしなくてはならない。運命にまっすぐに向かえ。知恵は運命だけがみがき出すのだ。今はお前は年のわりに幼いようだけれど、先では大きくなれるよ。 唯円 さっき私は知応殿にしかられましてな。 親鸞 なんと言って。 唯円 私がさびしいのは信心が足りないからだと言うて。仏様の救いを信ずるものは法悦がなければならぬ。その法悦は救われている証拠だ。踴躍歓喜の情が胸に満ちていればさびしい事はない。さびしいのは救われていない証拠だとおっしゃいました。 親鸞 ふむ。(考えている) 両人しばらく沈黙。本堂より、鐘の音読経の合唱かすかに聞こえて来る。 唯円 お師匠様、あの(顔を赤くする)恋とはどのようなものでございましょうか。 親鸞 (まじめに)苦しいものだよ。 唯円 恋は罪の一つでございましょうか。 親鸞 罪にからまったものだ。この世では罪をつくらずに恋をすることはできないのだ。 唯円 では恋をしてはいけませんね。 親鸞 いけなくてもだれも一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が目の前にひらけるのだ。この関所の越え方のいかんで多くの人の生涯はきまると言ってもいいくらいだ。 唯円 そのように重大なものですか。 親鸞 二つとない大切な生活材料だ。まじめにこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。すべての知恵の芽が一時に目ざめる。魂はものの深い本質を見る事ができるようになる。いたずらな、浮いた心でこの関所に向かえば、人は盲目になり、ぐうたらになる。その関所の向こうの涼しい国をあくがれる力がなくなって、関所のこちらで精力がつきてへとへとになってしまうのだ。 唯円 では恋と信心は一致するものでございましょうか。 親鸞 恋は信心に入る通路だよ。人間の純な一すじな願いをつき詰めて行けば、皆宗教的意識にはいり込むのだ。恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ。そこから信心は近いのだ。 唯円 では私は恋をしてもよろしいのですか。 親鸞 (ほほえむ)お前の問い方は愛らしいな。私はよいとも悪いとも言わない。恋をすればするでよい。ただまじめに一すじにやれ。 唯円 あなたも恋をなさいましたか。 親鸞 うむ。(間)私が比叡山で一生懸命修行しているころであった。慈鎮和尚様の御名代で宮中に参内して天皇の御前で和歌を詠ませられた。その時の題が恋というのだよ。ところがあまた公家たちの歌よみの中で私のがいちばんすぐれているとて天皇のお気に召したのだよ。そして御褒美をばいただいた。私は恐縮してさがろうとした。すると公家の中の一人がかような歌をよむからにはお前は恋をしたのに相違ない。恋をした者でなくてはわからぬ気持ちだ。どうだ恋をした事があるだろうときくのだ。 唯円 あなたはなんとお答えあそばしましたか。 親鸞 そのような覚えはありませんと言った。するとその公家がそのようにうそを言ってもだめだ。出家の身で恋をするとはけしからんと言うのだ。ほかの公家たちがクスクス笑っているのが聞こえた。 唯円 まじめに言ったのではないのですか。 親鸞 からかって笑い草にしたのだよ。私は威厳を傷つけられて御所を退出した。どんなに恥ずかしい気がしたろう。それから比叡山に帰る道すがら、私はまじめに考えてみずにはいられなかった。私はほんとうに恋を知らないのであろうか。私はそうとは言えなかった。ではなぜ恋をしましたと言えなかったのか? なぜうそをついたのか。出家は恋をしてはいけない事になっているからだ。私はいやな気がした。私は自分らの生活の虚偽を今さらのように憎悪した。そして山上の修行が一つの型になっているのがたまらなく偽善のように感じられた。その時から私は山を下る気を起こしだした。もっとうそをつかずに暮らす方はないか。恋をしても救われる道はないかと考えずにはいられなかった。 唯円 およそ悪の中でも偽善ほど悪いものは無いのですね。あなたはいつか偽善者は人殺しよりも仏に遠いとおっしゃいましたね。 親鸞 そのとおりだ。百の悪業に催されて自分の罪を感じている悪人よりも、小善根を積んでおのれの悪を認めぬ偽善者のほうが仏の愛にはもれているのだ。仏様は悪いと知って私たちを助けてくださるのだ。悪人のための救いなのだからな。 唯円 善いものでなくては助からぬという聖道の教えとはなんという相違でございましょう。 親鸞 他人はともあれ、私のようなものはそれでは助かる見込みはつかないのだ。私は今でも忘れ得ぬが、六角堂に夜参りして山へ帰る道で一人の女に出会ってね。寒空に月が凍りつくように光っている夜だったよ。私を山へ連れて登ってくれというのだ。私は比叡山は女人禁制で女は連れて登るわけに行かないと断わったのだ。すると私の衣の袖にすがって泣くのだ。私も修行して助けられたいからぜひ山へ連れて行って出家にしてくれと一生懸命に哀願するのだ。いくら言っても聞き入れないのだ。はては女は助からなくてもよいのですかと恨むのだ。私は実に困った。山の上では女は罪深くして三世の諸仏も見捨てたもうということになっているのだ。しかたがないから私はそのとおりを言ってあきらめさせようとした。すると女は見る見るまっさおな顔をした。やがて胸をたたいて仏を呪う言葉を続発した。それから一目散に走って逃げてしまった。 唯円 まあかわいそうな事をなさいましたね。 親鸞 でも山の上へは連れて行けなかったのだ。あらしで森ははげしく鳴っている。私は女の呪いが胸の底にこたえて夢中で山の上まで帰った。その夜はまんじりともしなかった。それからというものは私は女も救われなくてはうそだという気が心から去らなくなった。私は毎夜毎夜六角堂に通って観音様に祈った。夢中で泣いて祈った。私は死んでもよいと思った。私はそのころからものの見方がだいぶ変わって来だした。山上の生活をきらう心は極度に達した。私は六角堂から帰りによく三条の橋の欄干にもたれて往来の人々をながめた。むつかしそうな顔をした武士や、胸算用に余念の無さそうな商人や、娘を連れた老人などが通った。あるいは口笛を吹きながら廓へ通うらしい若者も通った。私はどんなに親しくその人たちをながめたろう。皆許されねばならないような気がした。世の相をあるがままに保っておくほうがよいという気がした。「このままで、このままで」と私は心の中に叫んだ。「みんな助かっているのでは無かろうか」と。山へ帰っても、もはや、そこは私の住み家ではない気がした。 唯円 その時法然聖人にお会いなされたのですね。 親鸞 まったく観音様のおひきあわせだよ。私は法然様の前で泣けて泣けてしかたがなかったよ。 唯円 (涙ぐむ)あなたのお心は私にもよくわかります。 両人しばらく沈黙。僧一、僧三登場。 僧一 お師匠様はここにいられましたか。 親鸞 唯円と日向で話していました。 僧三 御気分はいかがでございますか。 親鸞 もうほとんどよいのだよ。ありがとう。 僧一 それはうれしゅうございます。大切にあそばしてください。 親鸞 お前たちもここでお話しなさい。本堂のほうはどうだった。 唯円、座ぶとんを持ちきたり、両人にすすめ、茶をつぐ。 僧三 いっぱいの参詣人でございます。お勤めが済みまして、今は知応殿の説教最中でございます。 僧一 知応殿の熱心な説教には皆感動したようでございました。 僧三 権威のある、強い説教でした。皆かしこまって聴聞いたしていました。 僧一 きょうの説教はことに上できでございました。 親鸞 やはり法悦という題でしたのだな。 僧三 御存じでいらっしゃいますか。 親鸞 知応が私に話した事もあるし、さっき唯円からちょっと聞いた。 僧一 宗教的歓喜というものがいかに富や名誉など、地上の楽よりもすぐれて尊いかを高潮してお話しなされました。 僧三 恋よりも楽しいとさえおっしゃいました。 唯円 死の恐怖もなく孤独のさびしさもなく、浮き世への誘惑も無いとおっしゃいました。 僧一 法悦は救いの証拠であると言われました。 僧三 私たち出家しているものの、特別に恵まれた境遇である事を、あの説教を聞いて私は今さらのごとくに感じました。 唯円 私はあれを聞いて不安な気がいたします。私はこのごろはさびしい気がいつもいたします。ぼんやりしてお経を読んでも心が躍らない時があります。私は病身で先月も少し熱が高かったので死ぬのではないかとこわくてたまりませんでした。今死んでは惜しくてなりません。私はなんだかあくがれるような、浮き世をなつかしむような気が催して来ます。知応様のように強い証を立てる事ができません、法悦が救いの証拠とすれば私は救われていないのでしょうか。私はこのようでも仏様が助けてくださる事だけは疑わないのですけれど…… 僧一 からだの弱いせいだろうと私は思います。 僧三 やはり信心が若いからではありますまいか。 唯円 お師匠様、いったいどうなのでございましょう。教えてください。私は不安でたまりません。私は助かっていますか。いませんか。 親鸞 助かっています。心配する事はありません。実は私も唯円と同じ心持ちで暮らしています。病気の時は死を恐れ、煩悩には絶えず催され、時々はさびしくてたまらなくなる事もあります。踴躍歓喜の情は、どうもおろそかになりがちでな。時に燃えるような法悦三昧に入る事もあるが、その高潮はやがて灰のように散りやすくてな。私は始終苦しんでいます。 僧一 (驚きて親鸞を見る)あなたがですか。 親鸞 私はなぜこうなのだろうといつも自分を責めています。よくよく私は業が深いのだ。私の老年になってこうなのだから、若い唯円が苦しむのも無理はない。しかし私は決して救いは疑わぬのだ。仏かねて知ろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられた。そのいたし方のない罪人の私らをこのまま助けてくださるのだ。 僧三 では知応殿のお考えは間違いでございますか。 親鸞 いや間違いではない。人によって業の深浅があるのだ。法悦の相続できる人は恵まれた人だ。私はそのような人を祝福する。ある人は煩悩が少なく、ある人は煩悩が強くて苦しむのだ。ただ法悦を救いの証とするのが浅い。知応にも話そうと思っているがよくお聞きなさい。救いには一切の証はありませんぞ。その証を求めるのはこちらのはからいで一種の自力です。救いは仏様の願いで成就している。私らは自分の機にかかわらずただ信じればよいのです。業の最も浅い人と深い人とはまるで相違したこの世の渡りようをします。しかしどちらも助かっているのです。 唯円 私はありがたい気がいたします。もったいないほどでございます。 僧一 私はそこに気がつきませんでした。法悦があっても、なくても、私らの心のありさまの変化にはかかわりなしに救いは確立しているのでございますね。 親鸞 それでなくては運命にこぼたれぬ確かな救いと言われません。私らの心のありさまは運命で動かされるのだからな。 僧三 やはり自らの功で助けられようとする自力根性が残っているのですね。すべてのものを仏様に返し奉る事は容易ではございませんね。 親鸞 何もかもお任せする素直な心になりたいものだな。 唯円 聞けば聞くだけ深い教えでございます。 親鸞 みんな助かっているのじゃ。ただそれに気がつかぬのじゃ。 僧二 (登場)皆様ここにいられましたか。今やっと説教が済みました。(興奮している) 親鸞 御苦労様でした。しばらくここでお休みなさい。 僧二 お師匠様にお願いであります。ただ今私が説教を終わりますと、講座のそばに五、六名の同行が出て参りまして、親鸞様にぜひお目にかかりたいから会われるようにとりなしてくれと頼みました。 親鸞 何か特別な用向きでもあるのですか。 僧二 往生の一大事について承りたき筋あって、はるばる遠方から尋ねて参ったと申します。皆熱心面にあふれていました。 親鸞 往生の次第ならばもはや幾度も聴聞しているはずだがな。まことに単純な事で私は別に話し加える事もありませんがな。 僧二 私もさよう申し聞かせました。ことに少し御不例ゆえまた日をかえていらしたらどうかと申しました。しかし皆はるばる参ったものゆえ、ぜひ親鸞様にお目にかからせてくれと泣かぬばかりに頼みます。あまり熱心でございますから、私も不便になりまして、御病気のあなたを煩わすのは恐れ入りますが、一応お尋ね申す事にいたしました。 親鸞 それはおやすい事です。私に会いたいのならいつでもお目にかかります。ただ私はむつかしい事は知らぬとその事だけ伝えておいてください。ではここへすぐ通してください。 僧二 ありがとうございます。さぞ皆が喜ぶ事でございましょう。(退場) 僧一 遠方から参ったものと見えますな。 僧三 熱心な同行衆でございますね。 唯円 お師匠様に会いたさにはるばる京にたずねて来たのですね。私は殊勝な気がいたします。 親鸞 (黙って考えている) 僧二 (同行衆六名を案内して登場) 親鸞 (同行衆の躊躇しているのを見て)さあ、こちらにおいでなさい。遠慮なさるな。 唯円、席をととのえる。同行衆皆座に着く。 親鸞 私が親鸞です。(弟子をさして)この人たちはいつも私のそばにいる同行です。 同行一 あなたが親鸞様でございましたか。(涙ぐみ親鸞をじっと見る) 同行二 私はうれしゅうございます。一生に一度はお目にかかりたいと祈っていました。 同行三 逢坂の関を越えてここは京と聞いたとき私は涙がこぼれました。 同行四 ほんになかなかの思いではございませんでしたね。 同行五 長い間の願いがかない、このような本望なことはございません。 同行六 私はさっき本堂で断わられるのではないかと気が気でありませんでした。 親鸞 (感動する)よくこそたずねて来てくださいました。私もうれしく思います。どちらからお越しなされました。 同行一 私どもは常陸の国から参りましたので。 同行四 私らは越後の者でございます。 親鸞 まああなたがたはそのように遠くからいらしたのですか。 同行二 ずいぶん長い旅をいたしました。 親鸞 そうでしょうともね。常陸も越後も私には思い出の深い国でございます。 同行四 私の国ではほうぼうであなたの事を同行が集まってはおうわさ申しております。 同行一 あなたのおのこしなされた御感化は私の国にもくまなく行き渡っております。 同行三 まだお目にかからぬあなた様をどんなにお慕い申した事でございましょう。 親鸞 私もなつかしい気がいたします。あのあたりを行脚したころの事が思い出されます。 同行五 あのころとはいろいろ変わっていますよ。 親鸞 なにしろもう二十年の昔になりますからね。 同行六 雪だけは相変わらずたくさん積もります。 親鸞 雪にうずもれた越後の山脈の景色は一生忘れる事はできません。 同行四 も一度いらしてくださる気はございませんか。 親鸞 御縁がありましたらな。だがおそらく二度と行くことはありますまい。もう年をとりましたでな。 同行一 お幾つにおなりなされますか。 親鸞 七十五になります。 同行二 さっきちょっと承りましたら、あなたは御病気でいらっしゃいますそうで。 親鸞 はい少し風をひきましてな。もうほとんどよいのです。 同行二 どうぞお大切になされてくださいませ。 同行三 皆の者がいかほどおたより申しているか知れないのですから。 親鸞 はいようおっしゃってくださいます。(間。唯円をさし)この人は常陸から来ているのです。 唯円 私は常陸の大門村在の生まれでございます。 同行一 同じお国と聞けばなつかしゅうございます。もう長らく京にいられるのでございますか。 唯円 国を出てから十年になります。国には父が残っていますので恋しゅうございます。 親鸞 十五年前に私が常陸の国を行脚したおりに、雪に降りこめられてこの人の家に一夜の宿をお世話になったのです。それが縁となって、今ではこうして朝夕いっしょに暮らすようになりました。 同行二 因縁と申すものは不思議なものでございますな。 僧一 袖の振り合いも他生の縁とか申します。 僧二 こうして皆様と半日をいっしょに温かく話すのでも、縁なくば許される事ではありませんね。 僧三 一つの逢瀬でも、一つの別れでもなかなかつくろうとしてつくれるものではありませんね。人の世のかなしさ、うれしさは深い宿世の約束事でございます。 唯円 私は縁という事を考えると涙ぐまれるここちがします。この世で敵どうしに生まれて傷つけ合っているものでも、縁という事に気がつけば互いに許す気になるだろうと思います。「ああ私たちはなんという悪縁なのでしょう」こう言って涙をこぼして二人は手を握る事はできないものでしょうか。 親鸞 互いに気に入らぬ夫婦でも縁あらば一生別れる事はできないのだ。墓場にはいった時は何もかもわかるだろう。そして別れずに一生添い遂げた事を互いに喜ぶだろう。 唯円 愛してよかった。許してよかった。あの時に呪わないでしあわせだった、と思うでしょうよね。 僧三 人は皆仲よく暮らすことですね。 一同しんみり沈黙。 同行一 (ひざをすすめる)実は私たちが十余か国の境を越えてはるばる京へ参りましたのは往生の一義が心にかかるからでございます。私たちはぜひとも今度の後生の一大事が助けていただきたいのでございます。皆に代わって私が一向にお願い申します。何とぞ往生の道をお教えくださいませ。 親鸞 さほどに懸命に道を求めなさるのは実に殊勝に存じます。私はいつも世の人が信心を軽い事に思うのを不快に感じています。信心は一大事じゃ。真剣勝負じゃ。地獄と極楽との追分じゃ。人間がいちばんまじめに対せねばならぬ事だでな。だが、あなたがたは国のお寺では聴聞なされませぬかの。 同行二 毎度聴聞いたしています。 親鸞 どのように聴聞していられます。 同行三 阿弥陀様に、何とぞ今度の後生を助けたまわれとひとすじにお願い申せばいかなる悪人も必ず助けてくださると、こう承っていますので。 親鸞 そのとおりです。それでよろしい。 同行四 そこまではたびたび聞いてよく承知いたしています。それから先を詳しく教えていただきたいので。 親鸞 それを聞いて何になさるのじゃ。 同行五 極楽参りがいたしたいので。 親鸞 極楽参りはお国で聴聞なされてよく御承知のとおりの念仏で確かにできるのです。 同行六 でもなんだか不安な気がしまして。 親鸞 安心なさい。それだけで充分です。 同行一 あなたの御安心が承りたいので。 親鸞 私の安心もただその念仏だけです。 同行二 でもあまり曲がなさ過ぎます。 親鸞 その単純なのが当流の面目です。単純なものでなくては真理ではありません。また万人の心に触れる事はできません。 同行三 ではございましょうが、あなたは長い間比叡山や奈良で御研学あそばしたのでございましょう。私たち無学な者にはわからぬかは存じませぬが、御教養の一部をお漏らしなされてくださいませ。 同行四 それを承りにはるばる参ったのでございます。 同行五 国のみやげにいたします。 親鸞 (まじめな表情になる)いやそのさまざまの学問は極楽参りの邪魔にこそなれ助けにはなりません。信心と学問とは別事です。たとい八万の法蔵を究めたとて、極楽の門が開けるわけではありません。念仏だけが正定の業です。もしおのおのがたが親鸞はむつかしき経釈をもわきまえ、あるいは往生の別の子細をも存じおるべしと心憎くおぼしめして、はるばる尋ねていらしたのならば、まことにお気の毒に思います。私は何もむつかしい事は存じませぬのでな。その儀ならば南都北嶺にゆゆしき学者たちがおられます。そこに行ってお聞きなされませ。 同行一 御謙遜なるお言葉に痛み入ります。なおさらゆかしく存じます。 同行二 北嶺一の俊才と聞こえたるあなた様、なんのおろそかがございましょう。 親鸞 北嶺南都で積んだ学問では出離の道は得られなかったのです。私は学問を捨てたのです。そして念仏申して助かるべしと善き師の仰せを承って、信ずるほかには別の子細はないのです。 同行三 それは真証でござりますか。 一同不審の顔つきをしている。 親鸞 何しに虚言を申しましょう。思わせぶりだとおぼしめしなさるな。およそ真理は単純なものです。救いの手続きとして、外から見れば念仏ほど簡単なものはありませぬ。ただの六字だでな。だが内からその心持ちに分け入れば、限りもなく深く複雑なものです。おそらくあなたがたが一生かかってもその底に達する事はありますまい。人生の愛と運命と悲哀と――あなたがたの一生涯かかって体験なさる内容を一つの簡単な形に煮詰めて盛り込んであるのです。人生の歩みの道すがら、振りかえるごとにこの六字の深さが見えて行くのです。(だんだん熱心になる)それを知恵が増すと申すのじゃ。経書の教義を究めるのとは別事です。知識がふえても心の眼は明るくならぬでな。もしめいめいがたが親鸞に相談なさるなら、御熟知の唱名でよろしいと申しましょう。経釈の聞きぼこりはもってのほかの事じゃ。それよりもめいめいに念仏の心持ちを味わう事を心がけなさるがよい。人を愛しなさい。許しなさい。悲しみを耐え忍びなさい。業の催しに苦しみなさい。運命を直視なさい。その時人生のさまざまの事象を見る目がぬれて来ます。仏様のお慈悲がありがたく心にしむようになります。南無阿弥陀仏がしっくりと心にはまります。それがほんとうの学問と申すものじゃ。 同行五 おそれ入りました。鈍な私たちにもよく腹に入りました。極楽へ参らせていただくためには、ただ念仏すればよいのでございますな。ただそれだけでよいのでございますな。 同行六 鋭い刀で切ったように心がはっきりとして参りました。 同行一 ただ一つ私にお聞かせください。その念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠があるのですか。 親鸞 信心には証拠はありません。証拠を求むるなら信じているのではありません。(一気に強く)弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の教説虚言ではありますまい。釈尊の教説虚言ならずば、善導の御釈偽りでございますまい。善導の御釈偽りならずば法然聖人の御勧化よも空言ではありますまい。(間)いやたとい法然聖人にだまされて地獄に堕ちようとも私は恨みる気はありません。私は弥陀の本願がないならば、どうせ地獄のほかに行く所は無い身です。どうせ助からぬ罪人ですもの。そうです。私の心を著しく表現するなら、念仏はほんとうに極楽に生まるる種なのか。それとも地獄に堕ちる因なのか、私はまったく知らぬと言ってもよい。私は何もかもお任せするものじゃ。私の希望、いのち、私そのものを仏様に預けるのじゃ。どこへなとつれて行ってくださるでしょうよ。 一同しばらく沈黙。 同行一 私は恥ずかしい気がいたします。私の心の浅ましさ、証拠が無くては信じないとはなんという卑しい事でございましょう。 同行二 私の心の自力が日にさらされるように露われて参りました。 同行三 さまざまの塀を作って仏のお慈悲を拒んでいたのに気がつきました。 同行四 まだまだ任せ切っていないのでした。 同行五 心の内の甘えるもの、媚びるものがくずれて行くような気がします。 同行六 (涙ぐむ)思えばたのもしい仏のおん誓いでございます。 親鸞 さかしらな物の言い方をいたして気になります。必ずともにむつかしい事を知ろうとなさいますな。素直な子供のような心で仏様におすがりあそばせ。あまり話が理に落ちました。少しよもやまの話でもいたしましょう。もう名所の御見物はなされましたか。 同行一 まだどこも見ませんので。 同行二 京に着くとすぐここにお参りいたしましたのです。 親鸞 祇園、清水、知恩院、嵐山の紅葉ももう色づきはじめましょう。なんなら案内をさせてあげますよ。 同行一 はいありがとうございます。 この時夕方の鐘が鳴る。 唯円 お師匠様。夕ざれて、涼しくなって参りました。もうお居間でお休みあそばしませぬとおからだにさわりますよ。 同行四 どうぞお休みなされてくださいまし。 同行五 私たちはもうお暇申します。 親鸞 いや、今夜は私の寺にお泊まりください。これから私の居間でお茶でも入れて、ゆっくりとお話しいたしましょう。(弟子たちに)お前たちもいっしょにいらっしゃい。唯円、御案内申しあげておくれ。 親鸞先に立ちて退場。皆々立ちあがる。 唯円 さあ、どうぞこちらにお越しなされませ。 ――幕――
第三幕
第一場
三条木屋町。松の家の一室(鴨川に臨んでいる) 人物 善鸞(親鸞の息) 三十二歳 唯円 浅香(遊女) 二十六歳 かえで(遊女) 十六歳 遊女三人 仲居二人 太鼓持ち 時 秋の日ぐれ 遊女三人欄干にもたれて語りいる。 遊女一 冷たい風が吹いて気持ちのいいこと。 遊女二 顔が燃えてしょうがないわ。(頬に手をあてる) 遊女三 私は遊び疲れてしまいました。 遊女一 この四、五日は飲みつづけ、歌いつづけですものね。 遊女二 私は善鸞様に盛りつぶされ、酔いくたびれて逃げて来ました。 遊女三 善鸞様はいくらでもむちゃにおあがりなさるのですもの。とてもかないませんわ。そのくせおいしそうでもないのね。 遊女一 飲むほど青いお顔色におなりなさるのね。 遊女二 ばかにはしゃいでいらっしゃるかと思えば、急に泣きだしたりしてほんとうに変なかたですわね。私はお酒によって泣く人はいやだわ。 遊女三 ほんとうに私は時々気味が悪くなってよ。このあいだも私がお酒のお相手をしていたら、妙に沈んでいらしたが、私の顔をじっと見て、私はお前がかわゆいかわゆいと言って私をお抱きなさるのよ。それが色気なしなのよ。 遊女一 気が狂うのではないかと思うと、一方ではまたしっかりしたところがあるしね。 遊女二 私は始め少し足りないのではないかと思ったのよ。ところがどうして、鋭すぎるくらいしっかりしているのよ。めったな事は言われませんよ。 遊女三 なにしろ好いたらしい人ではありませんね。 遊女一 そんな事をいうと浅香さんがおこりますよ。 遊女二 浅香さんと言えば、あのかたにひどく身を入れたものね。あのおとなしい浅香さんがどうしてあのようなかたが好きなのでしょうね。 遊女三 それは好きずきでしかたはないわ。あなたならあのこのあいだ善鸞様の所に見えた、若い、美しい坊様のほうがお気に召しましょうけれどね。 遊女二 冗談ばっかし。(打つまねをする)あれはかえでさんよ。 歌う声。話し声。人々の足音が聞こえる。 遊女一 こちらにいらっしゃるようよ。 善鸞、浅香とかえでと太鼓持ちと仲居を従えて登場。 太鼓持ち これはしたり。おのおのがたにはここに逃げ込んでいられたか。 善鸞 私たちをまいて、ここに来て内緒でよい事をしたのかい。はゝゝゝ。 太鼓持ち ひそひそ話はひらに御容赦。 遊女一 (善鸞に)あなたこそおたのしみ。 遊女二 私たちがいてはお邪魔と思って気をきかしてあげたのですわ。 善鸞 これは恐れ入ったな。 太鼓持ち 恐れ入りやのとうさい坊主。 善鸞 坊主とはひどいな。はゝゝゝ。 太鼓持ち これはとんだ失礼。(自分の頭を扇子で打つ) 一同笑う。 善鸞 黙って逃げた罰にもっとお酒を飲ましてやるぞ。おい酒を持って来い。 仲居 はいかしこまりました。(行こうとする) 浅香 もうお酒はおよしあそばせ。おからだに毒です。ゆうべから飲みつづけではありませんか。 善鸞 この私に摂生を守れと言ってくれるかな。お前は貞女だな。はゝゝゝ。ここで川の景色を見つつ飲み直そう。さっきのお前の陰気な話で気がめいった。(仲居に)すぐに持って来い。 仲居退場。 浅香 ほんとうにもうおよしなさればいいのに。好きでかなわぬ酒でもないのに。 善鸞 私は飲んで飲んで私のからだを燃やし尽くすのだ。からだで火をともして生きるのだ。火が消えるとさびしくてしようがないのだよ。 浅香 でもほどがありますわ。 善鸞 さびしさにはほどがないのだよ。魂の底までさびしいのだよ。 浅香 そのさびしさを慰めるために私たちがついているのではありませんか。 善鸞 うむ。お前たちは私に無くてはならぬものだ。お前たちがなくては生きられない。そのくせお前たちと遊んでいるとまたよけいさびしくなるのだ。浅香、お前はいつもさびしい顔をしているね。きょうはもっと陽気になってくれ。 浅香 でも私の性分なんですからしかたがありませんわ。 善鸞 きょうは皆騒ぐのだよ。何もかも忘れてしまうのだよ。さびしくても、楽しいものと無理に思うのだよ。人生は善い、調和したものと無理にきめるのだよ。(声を高くする)さあ今世界は調和した。人と人とは美しく従属した。人の心の悪の根が断滅した。不幸な人は一人もいない。みんな喜んでいる。みんな子供のように遊んでいる。あゝ川が流れる、流れる。ゆるやかに、平和に。(川を見入る) 仲居、酒、肴、その他酒宴の道具を運ぶ。 善鸞 さあ、皆飲んだ、飲んだ。(遊女に杯をさす) 遊女一 もう堪忍してくださいな。 遊女二 私は苦しくてしょうがないわ。 善鸞 いやどうあっても飲ませねばいけないのだ。 太鼓持ち 君命もだし難く候ほどに。 仲居遊女たちに酒をついでまわる。 善鸞 (杯を手に持ちて)このなみなみとあふれるように盛りあがった黄金色の液体の豊醇なことはどうだろう。歓楽の精をとかして流したようだ。貧しい、欠けた人の世の感じは、どこにも見えないような気がする。(飲みほす)この杯はだれにやろう。(見回す)かえで、かえで。小さいかえでに。(杯をかえでにさす) かえで おおきに。(心持ち頭を傾け、杯を受け取る) 仲居酒をつぐ。かえでちょっと唇をつけて下に置く。 善鸞 かえで、何か歌っておきかせ。 かえで 私はいやですわ。ねえさんたちがたくさんいらっしゃるではありませんか。 善鸞 いやお前でなくてはいけないのだ。 太鼓持ち さあ、所望じゃ、所望じゃ。 かえで しょうがないのね。(子供らしい声で歌う) 浅香三味線をひく。 萩、桔梗、なかに玉章しのばせて、 月は野末に、草のつゆ。 君を松虫夜ごとにすだく。 ふけゆく空や雁の声。 恋はこうした…… 善鸞 もうよい。もうよい。(堪えられぬように)おゝ、あの口もとの小さなこと。 浅香 (まだ三味線を持ったまま)まあ、不意に途中でお切りなさるのですもの。 善鸞 見てやってください。この小さい子を。よその荒男が歌をうたえと責めまする……(涙ぐむ)も一つおあがり。(かえでに杯をさす) かえで もうたくさん。 太鼓持ち (女の声色を使う)私がすけてあげましょうわいな。(かえでの前の杯を取って飲む) 浅香 きょうのあなたはどうかしていらっしゃるのね。 善鸞 いやどうもしてはいないよ。 浅香 きょうはもうよしましょうよ。お顔色もよくありませんよ。私少しも騒いだりする気になれないわ。 善鸞 さびしい事を言う女だな。(浅香の顔をじっと見る。やがて急に浅香の前髪の中に手を突き込む) 浅香 (おどろく)あれ、何をなさるのです。(頭に手をやる) 善鸞 ………… かえで 鬢がほつれてしまったわ。 善鸞 お前のふさふさとした黒髪を見ていたら、憎らしくなったのだ。(太鼓持ちに)これ、鶏の鳴くまねをしてみろ。 太鼓持ち 心得ました。(鶏の声色を使う) 遊女たち笑う。 善鸞 膝頭で歩いてみろ。 太鼓持ち こうでござりますか。(膝頭であるく) 遊女たち笑う。 善鸞 お前の頭をたたいてみろ。 太鼓持ち おやすいことで。(おのれの頭を扇子で打つ) 善鸞 (狂うように)もっと、もっと。 太鼓持ちつづけざまにおのれの頭を打つ。 善鸞 おゝ。(目をつぶる) 遊女二 たいそうお沈みなされましたのね。 浅香 (いとしそうに善鸞を見る)善鸞様。私は知っていますよ。お寺へやった使いの事で、心がお苦しいのでござりましょう。 一座やや白ける。善鸞黙って考えている。 遊女一 何を考えていらっしゃるの。 遊女二 たいそうお沈みなされましたのね。 善鸞 (急に浮き浮きする)今お前を身受けする事を考えていたのだ。 遊女二 (笑う)それは大きにありがとう。身受けしてどうなされます。 善鸞 はて知れた事。連れて帰って女房にする。さあこっちにおいで。(立ち上がり、遊女の手を取って引き立てる) 遊女二 じょうだんはおよしあそばせ。 善鸞 さあ、こっちにおいで。(無理に引っぱる) 遊女二 (よろよろして引っぱられる)いたずらをなさいますな。(振り放して座に返ろうとする) 善鸞 かわゆいやつめ。(後ろから遊女二を抱きしめる) 遊女二 あれ、放してください。放してください。(身をもがく)そんなになすっては、せつなくて、せつなくて、しょうがありはしないわ。 善鸞 (笑う)なんて色気の無い人だ。この人は。 一同驚いて見ている。仲居登場。 仲居 ただ今唯円様がお見えになりました。 善鸞 (遊女二を放す。やや動揺す)ここに通してくれ。(座に返る) 一同沈黙、唯円登場。衣を着ている。 唯円 御免くださいまし。(一座の光景に打たれ、ちょっと躊躇する) 善鸞 よく来てくださいました。待っていました。さあこちらにお通りください。だれも遠慮な者はいません。えらい所を見せますな。はゝゝゝ。 仲居 どうぞお通りくださいませ。 唯円 (座に通り、善鸞の前にすわる)先日は失礼いたしました。 善鸞 きょうは使いを立てて失礼しました。御迷惑ではありませんでしたか。 唯円 いいえ。あなたからのお使いと聞いて喜んで参りました。何か御用でございますか。 善鸞 いえ。用と言ってはありません。私はたださびしくってあなたに会って話したかったのです。 唯円 私もあなたに会いとうございました。 仲居 (新しい杯を持って来て唯円の前に置く)どうぞお持ちあそばしませ。 唯円 (もじもじする)私は飲みませんので。 仲居 でも一つ。 善鸞 いや、この人にはすすめてくれな。(唯円の不安そうなのを見て)私たちは少し話があるから皆あちらに遠慮してくれ。 仲居 かしこまりました。では皆さん。 一同二人を残して退場。 善鸞 このような所へあなたを呼んですみません。それに私はお酒に酔っています。 唯円 私はかまいません。私は喜んで来たのです。 善鸞 私はさびしかったのです。だれも私の心を理解してくれる人はありません。私はこうして酒を飲んでいても腹の底は冷たいのです。私は苦しいのです。私はこのあいだあなたと会った時から、親しい、温かい気がするのです。私の胸の思いをすらすらと受けいれてくださるような気がするのです。あなたと向き合っていると、いろいろな事が聞いていただきたくなるのです。 唯円 私もこのあいだあなたと別れてから、あなたの事が思われてならないのです。あなたにお目にかかりたいといつも思っていました。あなたから使いの来た時にどんなにうれしかったでしょう。 善鸞 こんなに人をなつかしく思った事はずっと前に一度あったきりです。長い間私は心がすさんで来ていました。(間)私はあなたが好きです。 唯円 私はうれしゅうございます。あなたのようなかたをなぜ人は悪く言うのでしょう。私はそれがわかりません。先日も寺で皆様があなたの事を悪く言われましたから、私は腹が立ちました。そしてあのかたは善い人です。あなたがたの思っているような人ではありませんと言ってやりました。 善鸞 私の事をどのように悪く申しますか。 唯円 放蕩な上に、浄土門の救いを信じない滅びの子だと申しています。父上に肖ぬ荒々しい気質だと言っていましたよ。 善鸞 無理はありません。そのとおりです。私は滅びる魂なのでしょう。まったく荒々しい気質です。私は皆の批評に相当しています。 唯円 まああなたのように優しい御気質を…… 善鸞 いや。(さえぎる)あなたの前に出ると私の善い性質ばかり呼びさまされるのです。しかしほかの人に向かうとまるで違って荒い気質が出るのです。 唯円 皆がよくないのだと思います。あなた自身は善いかたに違いありません。私はそれを信じています。 善鸞 (涙ぐむ)そのように言ってくれる人はありません。私は自分の気質が、自分で自由にならないのです。それには小さい時から境遇や、また私の受けた心の傷やのせいもありますがね。私は御存じのように長く父の勘当を受けているのです。 唯円 ………… 善鸞 父にはいろいろな迷惑をかけましたからね。さぞ私を今でも憎んでいるでしょうねえ。 唯円 いいえ。違いますよ。お師匠様は陰ではあなたの事をどれほど案じていらっしゃるか知れませんよ。 善鸞 どうして暮らしていますか。 唯円 朝夕、御念仏三昧でございます。このあいだはお風を召しまして、お寝みなされましたが、もうほとんどよろしゅうございます。しかしだいぶお年をお召しあそばしましたよ。 善鸞 そうでしょうねえ。私はいつも稲田にいて、京へはめったに出ませんし、ことに面会もかなわぬ身で少しも様子がわかりません。私は親不幸ばかりしてはいますが、父の事は忘れてはいません。気をつけてやってください。 唯円 私はいつもおそばを離れず、お給仕申しているのです。 善鸞 父はあなたを愛しますか。 唯円 もったいないほどでございます。数多いお弟子衆の中でも私をいちばん愛してくださいます。 善鸞 あなたを愛せぬ人はありますまい。あのかえでがあなたを好きだと言っていましたよ。(ほほえむ) 唯円 (顔を赤くする)御冗談をおっしゃいます。 善鸞 あなたは女というものをどんなに感じますか。私はあわれな感じがして愛せずにはいられません。ことにこのような所にいる女と触れるのが私はいちばん人間と接しているような気がします。世の中の人は形式と礼儀とで表面を飾って、少しもほんとうの心を見せてくれません。そのようなものを武装にして身を守っているのですからね。私はそのように用心をせずに触れたいのです。自分の醜さや弱さを隠さずに交わりたいのです。このような所では人は恥ずかしい事を互いに分け持っていますからね。どれほど温かいほんとうの接触か知れません。それに私は女の与える気分に心をひかれずにはいられません。それは実に秋の露よりもあわれです。 唯円 私は心の奥で私が女を求めているのを感じています。しかし女とはどのようなものか少しもまだわかりません。またどのようにして触れたらよろしいやら手続きがわかりません。 善鸞 (愛らしいように唯円を見る)ほんとうにあなたは純潔です。私は自分は汚れ果てていますけれど、純潔な人を尊敬します。目の色からが違いますからね。だがおそらくあなたも女で苦しまずには人生を渡る事はできますまい。私などは物心がついてから女の意識が頭から離れた事はありません。しかし私はあなたを誘うのではありませんよ。はゝゝゝ。 唯円 (まじめに)このあいだもお師匠様とそのような話をいたしました。 善鸞 父はなんと申しましたか。 唯円 恋はしてもいいが、まじめに一すじにやれとおっしゃいました。 善鸞 ふむ。 唯円 私はあなたに聞こう聞こうと思っていましたが、あなたはどうして御勘当の身とおなりなされたのですか。 善鸞 (暗い顔になる)私は道ならぬ恋をしたのです。いや、道か、道でないかは私は今でもわからぬのです。私は人妻と恋をしました。 唯円 まあ。 善鸞 女は結婚せぬ前から私を恋していたのです。この世の義理が私の手から女を奪いました。しかし私の心から恋を奪う事はできなかったのです。その後の出来事はその矛盾の生む必然的な結果でした。女の夫は私の親戚でした。それが悲劇を複雑にしました。私は恋ゆえに道を破った悪人になりました。(ののしるように)恋が道を破るのか、道が恋を破るのか私は今でもわかりません。 唯円 女のかたはどうなされました。 善鸞 離られてから病気になりました。私は会う事も許されませんでした。ついに女は死にました。私は死に目にも会えなかったのです。 唯円 女の夫のかたはどうなされました。 善鸞 泣いて怒りました。今でも二人の名を呪っています。私はその人の事を思うとたまりません。私はその人を愛していました。おとなしい、善良な人でした。私はこの出来事の責任をだれに負わせるべきかがわかりません。私は悪いのに違いありません。しかしただそれきりでしょうか。私はむしろ人生の不調和に帰したいのです。もし世界をつくった仏があるならば仏に罪を帰したいのです。 唯円 おゝ、善鸞様、それは恐ろしい事です。私はあなたを愛します。私はあなたのために泣きます。どうぞ終わりの言葉を二度と言ってくださいますな。 善鸞 私は何もわかりません。何も信じられません。私は世界の成立の基礎に疑いをさしはさみます。なんという変な世界でしょう。不調和な人生でしょう。私はそれからというもの、心の中から祝福を失ってしまいました。ものの見方がゆがんで来ました。ものが信じられなくなりました。悲しみと憤りと悩みの間に、女ばかりが私の目にあかい花のように映じます。私は女の肌にしがみついて、私の苦しみをやる道を覚えました。人は私を放蕩者と呼びます。私はその名に甘んじます。 唯円 私はなんと申していいかわかりません。私はあなたの不幸な運命を悲しみます。あなたはほんとうにたまらない気がするでしょう。しかし仏様はどのような罪を犯したものでも、罪のままでゆるしてくださると聞いています。罪を犯さねばならぬように、つくられている人間のために、救いを成就してくださると、お師匠様から常に教わっています。 善鸞 あなたの信じやすい純な心を祝します。けれども私はそれが容易に信じられないのです。私の心が皮肉になっているのかもしれません。あまり虚偽を見すぎたのかもしれません。あまり都合よくできあがっている救いですからね。虫のいい極悪人のずるい心がつくり出したような安心ですからね。私は私の曲がった考え方をあなたの前に恥じます。しかし浄土門の信心は悪人の救いのように見えて、実はやはり心の純な善人でなくては信じ難いような教えですからね。私はやはり争われぬものだと思います。私が信じられぬのも私の罪や放蕩の罰と思います。あなたでも、父でも純な清い人ですからね。自分では深い罪人だと感じていらっしゃるけれど、魂を汚し過ぎると、ものがまっすぐに受け取れなくなるのです。私はずいぶんひどく汚れていますからね。とてもあなたには想像できません。たとえば(苦しそうに口ごもる)いや、とてもあなたの前では言えないような事をしていますからね。実に皮肉な、卑しい、不自然な事をしていますからね。とても罰なくしてゆるされるような身ではありません。それは虫がよすぎます。私は卑しくても、このようなきたない罪を犯しながらそのまま助けてくれと願うほどあつかましくはなっていないのです。それがせめてもの良心です。私の誇りです。私はむしろ、かくかくの難行苦行をすれば助けてやると言ってほしいのです。どんな苦しい目でもいいと思います。それがかなわぬならば、私は罰を受けます。そのほうが本望です。 唯円 あなたのお話を聞いていると私はせつなくなります。あなたは私などの知らない深い苦しみを持っていらっしゃいます。あなたの言葉には尊い良心が波打っています。私はむしろ尊い説教でも聞いているような気がいたします。 善鸞 いいえ。私は一人の悪魔としてあなたの前に立っているのです。私は滅ぶる運命を負わされているのです。信ずる事のできない呪われた魂をあわれんでください。 唯円 あなたは仏の子だと私は信じます。私はあなたと対していて悪魔らしい印象を少しも受ける事ができませんもの。善鸞様、私の申す事を聞いてください。私は何もあなたに申し上げるような知恵はありませんけれど。私はあなたは自分で自分の魂を侮辱していらっしゃると思います。ひねくれて物を反抗的にお考えなさると思います。私はあなたのそうおなりなさった道筋に無限の同情をささげます。しかしあなたの歩み方は本道をまともに進んでいらっしゃらないと思います。お師匠様が私に常々おっしゃるには、苦しい目に会ったとき、その罪が自分に見いだされない時は不合理な、恨めしい気がするものだ。その時にその恨みを仏様に向けたくなるものだ。そこをこらえよ。無理は無いけれどもじっと忍耐せよ。相構えて呪うな。その時にその忍耐から信心が生まれるとおっしゃいました。墓場に入れば何もかもわかるのでありますまいか。その不合理の中に仏様の深い愛がこもっていることがわかったとき、私たちは仏様を恨んだ事を恥じるような事はありますまいか。人間の知恵と仏様の知恵とは違うのではありますまいか。 善鸞 あなたのお言葉は単純でもまっすぐです。幼くても知恵が光っています。私は鞭打たれるような気がいたします。私は考えてみなくてはならないような気がしきりにいたします。 唯円 自分の魂のほんとうの願いを殺すのはいちばん深い罪と聞いています。 善鸞 あゝ私は素直なまともな心を回復したい。 両人沈黙して考えている。 唯円 あなたはお父上に会いたくはありませんか。 善鸞 会いたくても会えないのです。 唯円 私がお師匠様に頼んでみましょうか。 善鸞 ありがとうございますが、ほっておいでください。とても会ってはくれませんから。 唯円 でもお師匠様も心ではあなたに会いたくっていらっしゃるのです。父と子とがどちらも会いたがっている。それが会えなくてはうそだと思います。それを妨げる力はなんでしょう。私はその力をこわしたい。私はたまらない気がします。 善鸞 その力は私の恋を破った力と同じ力です。その力はなかなか強いものなのです。私はその力を呪います。しかしそれをこわす力がありません。 唯円 それは社会意志です。世の中のかたくなな無数の人々の意志です。その力は私のお寺の中をも支配しています。私はこのあいだその力に触れました。あゝどうして世の人はもっと情けを知らぬのでしょう。おのれの硬い心が他人を苦しめていることに気がつかぬのでしょう。私はなさけなくなります。 善鸞 私が今父に会う事は父のためにもなりません。たとい父がそれを許してくれても。浮き世の義理というものは苦しいものです。私は幼い時からその冷たい力に触れました。実は私は父の妻の子では無いのです。 唯円 (驚く)それは初めて承ります。 善鸞 私の母は稲田のある武士の娘でした。父が越後にいる時に父の妻はなくなりました。父は諸方を巡礼して稲田に来て私の母の父の家に足を止め、稲田に十五年すみました。その間に私の母と父とは恋に落ちました。私はそのようにして生まれたのです。私は父母を父母と呼びうるまでには暗い月日を過ごしました。私は父をとがめる気は少しもありません。そこには人生の愛と運命の悲しさがありましょう。 唯円 あなたの母上はどうなされました。 善鸞 父が京へ帰るとき稲田に残りましたが、もはや死んでしまいました。 唯円 ほんとうに世の中は限りもなくさびしいものでございますね。 善鸞 私には世界は悲しみの谷のごとくに見えます。 両人沈黙。 唯円 私はきょうはこれでお暇申します。 善鸞 そうですか。きょうはうれしい気がしました。私はもっと話したいのですけれども。 唯円 私もいつまでもいたいのですが、お師匠様に内緒で来たのですから。 善鸞 私のために苦しい思いをさせますね。許してください。きょうはいろいろと考えさせられました。ありがたい気がいたします。 唯円 私はこんなに充実して話した事はありません。きっとまた参りますからね。 善鸞 できるだけたびたび来てください。私はいつもさびしいのです。 唯円 では失礼いたします。(立ち上がり、入り口のそばまで行き振り返り、力を入れて)もしおとう様が会うとおっしゃればどうなされます。 善鸞 (考えて、きっぱりと)私は喜んで会う気です。 唯円 ではさようなら。 善鸞 (見送る)さようなら。 唯円退場。善鸞しばらく立ったまま動かずにいる。やがて部屋の中をあちこち歩く。それから柱に背をあてて立ったままじっと考えている。 浅香絹張りの行灯を持ちて登場。入り口に立ちながら善鸞を見る。善鸞浅香に気がつかずにじっとしている。 浅香 善鸞様。 善鸞 (浅香を見る)浅香お前はどう思う。ここに父と子とがある。父は諸天の恵みに浴して民は聖者と仰いでいる。子は酒肉におぼれて人は蕩児とさげすんでいる。父と子とは浮き世の義理に隔てられつつ互いに慕うている…… 浅香 まあ、だしぬけに……(注意を集中する) 善鸞 互いに飢えている。しかし会えば父の周囲の美しい平和が傷つけられる。人々は猜疑と嫌悪の眉をひそめる。父の一身に非難が集まる。その時に子はどうしたらよいのであろう。会うのがよいか会わぬがよいか。 浅香 (声をふるわす)会わぬがよい。 善鸞 もし父が招いたら、迷える子よ、かえって来よと言ったら。 浅香 (苦しげに)会わぬがよい。 善鸞 おゝ。(よろめく。柱で身をささえる) 浅香 善鸞様。善鸞様。(はせよって善鸞を抱く) 善鸞 私はわからない。私は思いにあまる。私は……助けてくれ。 浅香 会わずに祈ってください。父上の平和と幸福を祈ってください。私は強くなければなりません。あなたが私に、弱いと知っていらっしゃる私に助けをお求めなさるなら。あなたはずっと前にあなたの生涯の運命をきめるあぶない時に、今と同じ別れ道にお立ちなされたのではありませんか。おいとしいあなたの恋人と、おとなしいお従弟との一生の平和を守ってあげねばならないときに、あなたはお弱うございました。人をも身をも傷つけたとあなたは私におっしゃいました。なぜあの時泣いて耐え忍ばなかったろうと、あなたは幾度後悔なすったでしょう。たったきょうの昼間です。あなたが初めて、あなたの悲しい物語を私に打ち明けてくだすったのは。あなたは私の膝の上でお泣きなされました。まだ涙もかわかぬくらいです。その時あなたは私があわれな父母の犠牲になっている事をほめてくださいました。他人をしあわせにするために、苦しさを忍べとおしえてくださいました。 善鸞 お前は私の言葉をそのまま繰りかえすのだ。 浅香 (泣く)あなたに鞭をあてるのです。私のことばの強そうなこと。 善鸞 私の良心の代わりになってくれたのだ。 浅香 おいとしい善鸞様。 善鸞 そうだ。私は強くなければならない。かわゆいやつ。(浅香を強く抱く。舞台回る) 第二場 親鸞聖人居間 清楚な八畳、すみに小さな仏壇がある。床に一枚起請文を書いた軸が掛かっている。寝床のそばに机、その上に開いた本、他のすみに行灯がある。庭には秋草が茂っている。 人物 親鸞 唯円 僧二人 小僧一人 時 同じ日の宵 親鸞寝床にすわって僧二人と語っている。 僧一 ではやはりお会いなさいませぬのですな。 親鸞 うむ。(うなずく) 僧二 私もせっかくそのほうがよいと思っていたのです。 僧一 同行衆の間にいろいろな物議が起こってはおもしろくありませんからな。 僧二 口さがない世の人々はどのようなうわさを立てるかわかりません。また若い弟子たちのつまずきになってはならぬと思います。 僧一 若い弟子たちの間にはだんだんと素行の乱れたものもできだしたようでございます。木屋町のあるお茶屋から出て来るのを見たと申すものもございます。 僧二 世間ではそれを真宗の教えは淫逸をもきらわぬからだなどと申しています。 僧一 他宗の者どもは当流の繁盛をねたんで非難の口実を捜している時でございます。 僧二 なにしろ気をつけなければならない大切な時期と思います。(間)実は唯円殿は善鸞様のところに時々会いに行くといううわさがあるのでございますがね。 親鸞 そうかね。唯円は私には何も言わぬけれどね。 僧一 どうも少しそぶりが怪しいようでございます。先日も善鸞様の事をひどく弁護いたしておりました。 親鸞 私から注意しておきましょう。 僧二 善鸞様はこのごろは木屋町へんのあるお茶屋で、毎日居つづけして遊んでいられるそうでございます。 親鸞 あの子には実に困ります。お前がたにはいつも心配をかけてすまないね。 僧一 いいえ。私たちはただあなたのお徳の傷つかぬように祈るばかりでございます。 僧二 あなたのような清いおかたにどうしてあのようなお子ができたのでございましょう。 僧一 せめて京においであそばさねばよろしいのでございますが。 親鸞 どうか人様に迷惑をかけてくれねばよいがと祈っています。(頭をたれ、黙然としている) 少時沈黙。 僧一 もう晩のお勤めになりますから失礼いたします。きょうは由ない事をお耳に入れてすみませんでした。 親鸞 いいや。 僧二 あまりお気におかけなされますな。おからだにさわってはなりません。 親鸞 ありがとう。 僧一 ではまた後ほど。 僧二 お大切になされませ。 僧一、僧二退場。親鸞目をつむり、考えに沈む。 小僧 (登場)暗くなりました。火をつけましょう。(行灯に火をつける) 親鸞 唯円はどうした。 小僧 お午下がりに用たしに行って来ると言って出られました。もうお帰りになりましょう。晩のお勤めまでには帰ると申されましたから。 親鸞 そうか。 小僧 今夜はお気分はいかがでございますか。 親鸞 おかげでいい気持ちだ。きょうはお庭を掃除してくれて御苦労だったね。 小僧 しばらく手入れを怠るとすぐに雑草がはびこりますからね。 親鸞 くたびれたろう。今夜は早くお寝み。 小僧 はい。では御用があったら呼んでくださいませ。(退場) 本堂から晩のお勤めの鐘が聞こえる。 親鸞 (寝床の上にて居ずまいを正し)南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。(目をつむる) 唯円 (登場)ただ今帰りました。(手をつく) 親鸞 あゝ、お帰りか。 唯円 おそくなりました。 親鸞 どこへ行きました。 唯円 木屋町のほうまで行きました。 親鸞 そうか。 唯円 暇どってすみませんでした。お夕飯は? 親鸞 さっき済ませました。お前の帰るのを待とうかと思ったけれど、先に食べました。 唯円 お給仕もいたしませんで。 親鸞 いいえ。(間)お前はまだだろう。 唯円 私は今夜はほしくありませんので。 親鸞 気分でも悪いのかえ。少しでもおあがり。(唯円の顔を見る) 唯円 いいえ少しせいて歩いたからでしょう。あとでまたいただきます。 親鸞 そうかえ。気をおつけよ。お前は丈夫なたちではないのだから。 唯円 ありがとうございます。今夜はお具合は? 親鸞 もうほとんどいいのだよ。私はこうしているのがもったいないくらいだ。お前が止めなければもう床上げをしようと思うくらいだよ。 唯円 それはうれしゅうございます。しかしも少し御用心あそばしませ。大切なおからだですから。(間)あなたお寒くはありませんか。夜分はたいそう冷えるようになりましたね。 親鸞 いいや。頭がしっかりして気持ちがいいくらいだよ。 唯円 秋もだいぶ深くなりました。けさもお庭に仏様のお花を切りに出て見ましたが一面に霜が置いていました。花もすがれたのが多うございます。 親鸞 おっつけ木の葉も落ちるようになるだろう。 唯円 庫裡の裏のあの公孫樹の葉が散って、散って、いくら掃いても限りがないって、庭男のこぼす時が来るのですね。 親鸞 四季のうつりかわりの速いこと。年をとるとそれがことに早く感じられるものだ。この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい。もう一年たったかと思って恐ろしい気がする事があるよ。人生には老年にならぬとわからないさびしい気持ちがあるものだ。 唯円 世の中は若い私たちの考えているようなものではないのでしょうね。 親鸞 「若さ」のつくり出す間違いがたくさんあるね。それがだんだんと眼があかるくなって人生の真の姿が見えるようになるのだよ。しかし若い時には若い心で生きて行くより無いのだ。若さを振りかざして運命に向かうのだよ。純な青年時代を過ごさない人は深い老年期を持つ事もできないのだ。 唯円 私には人生はたのしい事や悲しい事のいっぱいある不思議な、幕の向こうの国のような気がいたします。 親鸞 そうだろうとも。 唯円 虫が鳴いていますね。(耳を傾ける) 親鸞 まるで降るようだね。 唯円 私はあの声を聞くといつも国の事が思われますの。私の家の裏の草むらでは秋になると虫がしきりに鳴きました。私のなくなった母は、よく私をおぶって裏口の畑に出ました。そしてあのこおろぎの鳴くのは、「襤褸針せつづれさせ」と言って鳴くのだ、貧しいものはあの声を聞いて冬の着物の用意をするのだと言って聞かせました。私はその時さびしいような、寒さの近づくような変に心細い気がしたものです。それからはあのこおろぎの声を聞くと母の事を思います。 親鸞 お兼さんがなくなってから何年になるかね。 唯円 ことしの冬が七回忌でございます。 親鸞 ほんに惜しい事をした。あんないいおかあさんはめずらしかった。 唯円 母は私をどんなに愛してくれたでしょう。私は子供の時の思い出をたどるたびに母の愛をしみじみと感じます。 親鸞 左衛門殿からおたよりがありましたか。 唯円 はい、達者で暮らしているそうです。母がなくなってからはさびしくていけないそうです。人生の無常を感じる、ひたすらに墨染めの衣がなつかしいと言って来ました。そして母の七回忌を機に出家したい、私の家を寺にしようと思っている。本尊はあの、あなたから、かたみにいただいた片手の欠けた仏像をまつるつもりだ、と言ってよこしました。 親鸞 とうとう出家する気になったかねえ。 唯円 長い間の願いだったのですからね。寺の名を枕石寺とつけるのですって。それはあなたがあの雪の降る夜、石を枕にして門口にお寝みになったのにちなむのですって。それからお師匠様に法名をつけてもらってくれと言っていました。 親鸞 あの人もずいぶん苦しまれたからね。 唯円 私は父が恋しゅうございます。もうずいぶん長く会わないのですから。 親鸞 私はあの雪の朝に別れたきりお目にかからないのだ。あの夜の事は忘れられない。 唯円 すごいような吹雪の夜でしたっけね。私は子供心にもはっきりと覚えています。 親鸞 お前はまだ稚ない童子だったがな。あのころから少しからだが弱いと言っておかあさんは案じていらしたっけ。 唯円 あの時あなたが門口のところで、もうお別れのときに、私を衣のなかに抱いてくだすったのを私は今でもよく覚えています。 親鸞 もう会えるか会えないかもわからずに、どこともなしに立ち去ったのだった。 唯円 師と弟子との契りを結ぶようになろうとは夢にも思いませんでした。 親鸞 縁が深かったのだね。 唯円 (しばらく沈黙、やがて思い入れたように)お師匠様、あなたは私を愛してくださいますか。 親鸞 妙な事をきくね。お前どうお思いかな。 唯円 愛してくださいます。(急に涙をこぼす)私はもったいないほどでございます。私はあなたの御恩は一生忘れません。私はあなたのためならなんでもいたします。私は死んでもいといません。(すすり泣く) 親鸞 (唯円の肩に手を置く)どうした。唯円。なんでそんなに感動するのだ。 唯円 私はあなたの愛にすがって頼みます。どうぞ善鸞様をゆるしてあげてください。善鸞様と会ってください。 親鸞 ………… 唯円 私はたまりません。善鸞様は善いかたです。不幸なかたです。だれがあのかたを憎む事ができるものですか。皆が悪いのです。世の中が不調和なのです。皆が寄ってたかってあのかたをあのようにしたのです。あのかたはあなたを愛していらっしゃいます。どうぞ会ってあげてください。ゆるしてあげてください。私がすぐに行ってお連れ申します。どんなにお喜びなさるか知れません。 親鸞 (苦痛を制したる落ち付きにて)お前は善鸞と会いましたか。 唯円 私は会いました。きょう善鸞様からお使いが来て私はあなたに内緒で会いに行きました。私はうそを申しました。私は木屋町に用たしに行くと言ったのは偽りです。善鸞様は木屋町にいられます。私はうそを申しました。 親鸞 善鸞はどうしていましたか。 唯円 (思い切って)私が行った時には遊女や太鼓持ちとお酒を飲んでいられました。 親鸞 そのような席にお前を呼んだのか。純な、幼いお前を。放縦な人は小さいものをつまずかすことをおそれないのだ。 唯円 でも善鸞様はこのような所を見せてすまないとおっしゃいました。また仲居が私に酒をすすめた時に、この人にはすすめてやってくれるなとおっしゃいました。また自分は汚れているが純潔な人を尊敬するとおっしゃいました。善鸞様はいつもの自分のしているありのままのところへ私をお呼びなすったのです。見せつけるためではなく、自分を偽らないためだったのです。 親鸞 善鸞はなんのためにお前を呼び寄せたのだろう。 唯円 さびしいのですよ。私と会って話したかったのですって。私のような者をでも慰めにお呼びなさらなくてはならないとはあのかたもよほど孤独なかたです。まったくさびしそうでした。杯やお膳や三味線などの狼藉としたなかにすわって、酔いのさめかけた善鸞様は実に不幸そうに見えました。私は一人の人間があのようにさびしそうにしていたのを見た事はこれまでありませんでした。 親鸞 人生のさびしさは酒や女で癒されるような浅いものではないからな。多くの弱い人はさびしい時に酒と女に行く。そしてますますさびしくされる。魂を荒される。不自然な、険悪な、わるい心のありさまに陥る。それは無理はないが、本道ではない。どこかに自欺と回避とごまかしとがある。強い人はそのさびしさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。もしそのさびしさが人間の運命ならば、そのさびしさを受け取らねばならぬ。そのさびしさを内容として生活を立てねばならぬ。宗教生活とはそのような生活の事を言うのだ。耽溺と信心との別れ道はきわどいところにある。まっすぐに行くのと、ごまかすのとの相違だ。 唯円 善鸞様も自分の生活に自信を持ってしていられるわけではないのです。それでよけいに不幸なのです。今のあのかたのお心持ちでは、ああして暮らしなさるよりないのだろうと思います。私は善鸞様の苦しいお話を聞いて圧しつけられるような気がいたしました。なんと言って慰めていいかわからないで、同悲の情に胸を打たれるばかりでした。私は善鸞様を責める気など少しも起こす事はできませんでした。私はただ私の前に痛ましく苦しんでいる一人の人間を見ました。そしてその人を傷つけた責めをだれが背負うべきかを考えて不合理な感じばかりに先立たれました。私は帰る道で考えると眩暈がするような気がしました。だって何一つ私の頭では得心が行かないのですもの。私はすべての考えの混乱の間に、ただはっきりとわかっている一つの事ばかり思いつめて帰りました。それは善鸞様はゆるされなければならないという事でした。 親鸞 あれもかわいそうなやつとは私も思うている。あれにも数々の弁解がある事だろう。だがあれは他人の運命を損うたのだからな。一人の可憐な女は死んだ。一人の善良な青年の心は一生涯破れてしまった。幾つかの家族の間には平和が失われた。それが皆あれの弱かったせいなのだからな。その報いをうけているのだよ。 唯円 でもあのかたばかりが悪いのではありません。あのかたの一生の運命を傷つけたのも社会の不自然な意志の責めに帰すべきものと私は思います。恋している男と女とを添わせるのは天の法則です。その法則に反逆したのは社会の罪と思います。あのかたばかり責めるのはひどすぎます。 親鸞 社会もその報いを受けているのだよ。世の中の不調和は、そのようにして、人間が互いに傷つけ合うては報いを受け合うところから生ずるのだ。それが遠うい遠うい昔から、傷つけつ傷つけられつして積み重ねて来た「業」が錯雑しているのだからな。そのもつれた糸の結び目にぽつり一個の生をうけているのが私たちなのだもの、不調和な運命を生まれながらに負わされているのだ。その上私たちが作る罪や過失の報いはいつまでも子孫の末に伝わって消えないのだ。 唯円 私たちの存在は実に険悪なものですね。 親鸞 仏様がましまさぬならば、私はだれよりも先にだれよりもはげしく、私たちの存在を呪うであろう。だが仏様の恩寵はこの世に禍悪があればあるだけ深く感じられる。世界の調和はいっそう複雑な微妙なものになる。南無阿弥陀仏はいっさいの業のもつれを解くのだ。 唯円 その南無阿弥陀仏を信ずる事ができないと善鸞様はおっしゃるのです。 親鸞 なぜにな。 唯円 私はその理由を聞いてどんなに感動したでしょう。善鸞様は御自分がそれに相当しないほど強く自分を責めていられるのです。自分のようにきたない罪を犯しながら、このまま助かることを願うほど自分はあつかましくなっていないと言われました。「せめてそれは私の良心です、私の誇りです」とおっしゃった時には涙が光っていました。父のように清い人間には念仏はふさわしいが、私のような汚れたものにはむしろ難行苦行が似つかわしいとおっしゃいました。私はいっそ罰を受けたい気がする。私は滅びの子だと言ってお泣きあそばしました。私はあのかたがおいとしくてたまりませんでした。 親鸞 も少し素直になってくれたらな。人にも自らにも反抗的になっている。罰を受けたいというのは甘えている。地獄の火の恐ろしさを侮っている。指一本焼ける肉体的苦痛でもとても耐え切れるものではないのだ。(間)彼はまだ失うべきものを失うていないと見える。 唯円 善鸞様は今なくなられたら魂はどこに行きます? 親鸞 (苦痛を耐えるために緊張した顔になる)地獄に堕ちる…… 唯円 おゝお師匠様、善鸞様に会ってあげてください。助けてあげてください。あなたはあのお子がいとしくはないのですか。 親鸞 ………… 唯円 あなたはきびし過ぎます。あのかたにだけひど過ぎます。あなたはもし善鸞様があなたのお子でないならばとっくにゆるしてあげていらっしゃります。いつぞや了然殿はあのかたよりもはるかに悪い罪を犯されました。けれどもあなたはおゆるしなされました。また唯信殿がこの春あやまちを犯された時、お弟子衆は皆破門するように勧められたのに、あなたは一人かばっておあげなされました。なぜ善鸞様にばかりきびしいのですか。私はわかりません。あなたは常々私におっしゃるには私たちは骨肉や夫婦の関係で愛するのは純な愛ではない。何人をも隣人として愛せなくてはならないと教えてくださいました。それならあのかたも一人のあなたの隣人ではありませんか。その隣人をゆるすのは美しい事ではありませんか。私はこれまで一度もお師匠様に逆ろうた事はありません。けれどこの事ばかりは逆らわずにはおられません。私の一生の願いでございます。隣人としてあのかたに会ってあげてください。 親鸞 (涙ぐむ)お前の心持ちはよくわかる。私はうれしく思います。(考える)善鸞は会いたいと言いますか。 唯円 初めは、今私が父に会うのは父のためにならないとおっしゃいました。けれどお別れする時におとう様が会うとおっしゃればどうなされますときいたら、喜んで会うとおっしゃいました。 親鸞 私を恨んでいたろうね。 唯円 いいえ。あなたにすまないすまないと言っていられました。そしてあなたの事をいろいろ案じてお聞きなされました。今度御上洛あそばしたのもあなたに心がひかれたのらしいのです。私をお呼びなさるもあなたの身辺の御様子が何くれとなく聞きたいためなのですよ。 親鸞 実は私もあの子の事はいつも気になっているのだ。ことにあの子の母の事を思い出すと時々たまらなくなることもあるのだ。あの子の不幸なのも私に罪があるような気がしてな。 唯円 私はその事についてもきょう善鸞様から伺いました。 親鸞 善鸞はなんと言いましたか。 唯円 何事も人生の悲哀と運命だ。父を責める気はないとおっしゃいました。 親鸞 ふむ。(考える)やはり私の罪――過失だよ。そう言うことを許してもらえるなら。朝姫をも――あの子の母の名だよ――私は隣人として取り扱う気だったのだ。けれどついにそうはゆかなくなったのだ。私が弱かったのだ。おとなしい、けれどもいちずな朝姫の熱いなさけにほだされたのだ。北国の長い巡礼で私の心は荒野のようにさびしくなっていたからな。私はなぜなくなった玉日の記憶を忠実に守って独りで暮らすことができなかったのであろうか。それを思うと自分を責める心に耐えない。私は苦しい。 唯円 ………… 親鸞 けれど朝姫は責めるにはあまりに善良な温和な女だったよ。弱々しい感じを与えるほどだったよ。その裏には強い情熱がかくれていたけれどね。私が京に帰るときにどんなにはげしく泣いたろう。 唯円 もうおかくれあそばしたのですってね。 親鸞 うむ。(間)私はもう幾人愛する人に死なれたか知れない。慈悲深い法然様や貞淑な玉日や、かいがいしいお兼さんや―― 唯円 あの孝行な御嫡男の範意さまや。 親鸞 (目をつむる)みんな今は美しい仏様になっていられるだろう。そして私たちを哀れみ護っていてくださるだろう。生きているうちに私の加えたあやまちは皆ゆるしていてくださるだろう。 唯円 逝くものをさびしく送ったこころで、残るものは仲よくせねばならぬと思います。それにつけても善鸞様を一日も早くゆるしてあげてくださいまし。 親鸞 私はゆるしているのだよ。あの子を裁くものは仏様のほかには無いのだ。 唯円 では会ってあげてくださいまし。 親鸞 ………… 唯円 お師匠様。あなたはほんとうは会いたいのでございましょう。 親鸞 会いたいのだ。(声を強くする)放蕩こそすれ私はあの子の純な性格も認めて愛しているのだ。私はあの子の事を忘れた日はない。あの子の顔が見たい。あの子の声に飢えている…… 唯円 お会いなさいませ。お師匠様。父と子とが互いに会いたがっている。それを会うのがなぜそのようにむつかしい事なのでしょう。実に単純な事ではございませんか。 親鸞 まことに単純な事だ。調和した浄土ならすぐできるやさしい事だ。その単純な事ができぬような不自由な世界がこの世なのだ。(声を強くする)多くの人々の平和がその単純な一事にかかっている。無数の力が集まって私をさえぎっている。私は今その力の圧迫を痛切に感じている。私は争う力がない。(身をもがく)私は会えない。 唯円 いいえ。会ってください。会ってください。あなたはあまり義理を立て過ぎなされます。あなたのお子と思わずに、隣人として、赤の他人と思って…… 親鸞 (苦しげに)おゝそれが私にできたなら! 私はそう思うべきであると信ずる。そう思えよとお前に教える。しかしそう思う事ができないのだ。お前はさっき私が他人に優しくわが子にきびしいと言ったね。それは私がわが子ばかり愛して、他人を愛する事ができないからだ。私は善鸞を愛している。私の心はややもすれば善鸞を抱きかかえて他の人々を責めようとする。ちょうど愛におぼれる母親が悪戯をする子供を擁して、あわれな子守をしかるように。私は私の心のその弱みを知っている。それを知っているだけ私は善鸞を許し難いのだ。私は善鸞のために死んだ女の家族と、女の夫と、その家族と――すべて善鸞を呪っている人々の事を思わずにはいられない。「あなたの子のために……」とその人々の目は語っている。「私の子のために……」と私はわびずにはいられない。ことに私はその人々を愛していないのだからね。私はあの子に会わなくともあの子を愛していないとの苛責は感じない。それほど私はあの子を心の内では愛しているのだ。 唯円 私はせつなくなります。私はわからなくなります。 親鸞 その上私の弟子たちにも私が善鸞に会う事を喜ばぬもののほうが多いのだ。先刻も知応と永蓮とが来て私に会わぬように勧めて行った。 唯円 まあ、あなたのお心も察しないで。 親鸞 私のためを思って言ってくれたのだ。けれどすまぬ事だがそれは耳に快く響かなかった。 唯円 皆はなぜそのような考え方をするのでしょうねえ。 親鸞 お前のように情の温かい人は少ないのだ。 唯円 あなたはほんとうにお会いなさらぬおつもりですか。 親鸞 うむ。周囲の人々の平和が乱れるでな。 唯円 では善鸞様はどうなるのでしょう。どんなにか失望なさいましょう。それよりもあのかたの迷っている魂はどうなるのでしょう。 親鸞 私がいちばん気にかけたのはそこなのだ。もし私でなくては善鸞の魂を救う事ができず、また私に救いうる力があるなら、私は他のいっさいの感情に瞑目してもあの子に会って説教するだろう。だが私にはあの子を摂取する力はない。助けるも助けぬも仏様の聖旨にある事だ。私の計らいで自由にできる事ではない。あの子も一人の仏子であるからには仏様の守りの外に出てはいないはずだ。よもお見捨てはあるまいと思う。私に許される事はただ祈りばかりだ。私は会わずに朝夕あの子のために祈りましょう。おゝ仏さま、どうぞあの子を助けてやってくださいませと。愛は所詮念仏にならねばならない。念仏ばかりが真の末通りたる愛なのだ。あの子がいとしい時には、私は手を合わせて南無阿弥陀仏を唱えようと思うのだ。お前もあの不幸な子のために祈ってやってくれ。 唯円 私も祈らせてもらいます。あゝ、しかし、なんというさびしいお心でございましょう。 親鸞 これが人間の恩愛の限りなのだ。 唯円 私はたまらなくなります。人生はあまりにさびし過ぎます。 親鸞 人生にはまだまださびしい事があるのだ。人は捨て難いものをも次第に失うてゆくのだ。私もきょうまでいかに多くのものを失うて来た事だろう。(独語のごとくに)あゝ、滅びるものは滅びよ。くずれるものはくずれよ。そして運命にこぼたれぬ確かなものだけ残ってくれ。私はそれをひしとつかんで墓場に行きたいのだ。(黙祷する) 唯円 あゝ、私はおそろしくなりました。 ――幕――
第四幕
第一場
黒谷墓地 無数の墓、石塔、地蔵尊等塁々として並んでいる。陰深き木立ちあり。ちょっとした草地、ところどころにばら、いちご等の灌木の叢。道は叢の陰から、草地を経て木立ちの中にはいっている。 人物 唯円 かえで 女の子、四人 時 春の午後 第三幕より一年後 唯円一人。木の株に腰を掛けている。 唯円 春が来た。草や木の芽はまるで燃えるようだ。大地は日光を吸うて、ふくれるように柔らかになった。小鳥は楽しそうに鳴いている。数々の花のめでたいこと! 若い命のよろこびが私のからだからわいて出るような気がする。(立ち上がり、あちこち歩く)もう来そうなものだがな。(叢の陰を透かして見る)もしかすると都合が悪くて、出られなかったのではないかしら。私も内緒でやっと出て来たのだもの。(間)だんだんうそを言う事になれて行く。(立ち止まり考える。やがて急に生き生きとする)いいや、今、そんな事は考えられない。(歩き出す)気がいそいそしてとてもじっとしてはいられない。(歌い出す)春のはじめのおん喜びは、おんよろこびは、さわらびの萌えいずるこころなりけり、きみがため、摘む衣の袖に、雪こそかかれ、わがころも手に…… かえで (灌木の叢のかげより登場)唯円様、ただ今。お待ちあそばして? 唯円 えゝ。ずいぶん長く。 かえで (唯円のそばに寄る)私少し家の都合が悪かったものですから。でも急いで走るようにして来たのよ。(息をはずませている) 唯円 私はもしか出られないのではないかと気が気ではありませんでした。 かえで 出られないのを無理に出たのよ。でもあなたとあれほど堅くお約束しておいたのですもの、あなたを一人待ちぼけにすることはどうしたって私にはできなかったのだわ。けれどきょうは早く帰らないと悪いのよ。 唯円 来るとから帰る話をするのはよしてください。(かえでの顔を見る)どんなに会いたかったでしょう。 かえで (唯円に寄り添う)私も会いたくて、あいたくて。(涙ぐむ) 両人ちょっと沈黙。 唯円 ここにすわりましょう。(草をしいてすわる) かえで (唯円と並んですわる)人に見られはしなくって。 唯円 めったに人は通りません。通ったっていいではありませんか。悪い事をするのではなし。 かえで でもきまりが悪いわ。 唯円 ずいぶん久しぶりのような気がします。この前松の家の裏で別れてから何日目でしょう。 かえで 半月ぶりですわ。 唯円 その半月の長かったこと。私はその間あなたの事ばかり思い続けていました。 かえで 私もあなたの事はつかのまも忘れた事はありません。恋しくて、すぐにも飛んで行きたい事が幾度あったか知れません。でもどうする事もできないのですもの。私もどかしくてたまりませんでしたわ。 唯円 私もお寺でお経など読んでいても、ぼんやりしてあなたの事ばかり考えているのです。私は晩のお勤めを済ませたあとで、だれもいない静かな庭を、あなたの事を思いながら歩くのがいちばんたのしい時なのです。 かえで あなたなどはそのような時があるからようございますわ。私なんかそれはつらいのよ。一日じゅう騒々しくて、じっとものなど考えられるような時はありませんわ。 唯円 ほんとにもっとたびたび会えたらねえ。 かえで この前の時だって、ねえさんがとりなしてくださらなかったら会うことはできなかったのですわ。 唯円 浅香さんはどうしていられます。 かえで 善鸞様がお帰国あそばしてからは、それはさびしい日を送っておられます。 唯円 あのかたのおかげであなたに手紙があげられるのです。この前も私は夜おそくまで起きてあなたに長い手紙を書きました。そしてその手紙をふところに入れて外に出ました。外は水のような月夜でした。私はとても会えないとは思いながら、おのずと足が木屋町のほうに向いて、いつしか松の家の門口まで行きました。二階の障子には明かりがさして影法師が動いていました。あすこにはあなたがいるだろうと思いました。私は去りかねてそのへんをうろうろしていました。すると浅香さんが出て来たのです。私は手早く手紙を渡して急いでお寺へ帰りました。 かえで あの夜階子段の下の薄暗がりで、ねえさんが、いいものをあげましょうと言って何かしらくれました。私は廊下のぼんぼりの光で透かして見ました。あなたのお手紙なのでしょう。どんなにうれしかったでしょう。私は一字ずつ、たまいたまい読みました。読んでしまうのが惜しいのですもの。あなたの手紙はほんとにいいお手紙ね。私なんかお腹に思ってることがいっぱいあっても、筆が渋って書けないからくやしいわ。 唯円 あなたもお手紙くださいな。 かえで だって私はいろはだけしか知らないのですもの、(顔を赤くする)そして書くことが下手ですもの。 唯円 いろはでたくさんです。また心に思うことを飾らずにすらすら書けば、ひとりでにいい手紙になるのです。お腹にまごころさえあれば。 かえで まごころでならだれにもまけなくてよ。私今度から手紙をあげますわ。(ちょっと考える)だめよ。どうしてあなたに渡すの。 唯円 そうですね。あなたは出られないし。使いがお寺へ来ると変だし。 かえで 何かいい分別は無くって。 唯円 (考える)私が取りに行きます。 かえで そんな事ができるの。 唯円 あなたは手紙を書いて持っていてください。私があの松の家のかけだしの下の石段のところに行って、口笛を吹きます。あなたはあの河原へおりる裏口のところから出て私に手紙を渡してください。 かえで そしたらちょっとでもお顔を見る事もできるわね。けれど見つけられるとたいへんよ。(声を低くする)家のおかあさんは私とあなたと仲よくするのをたいへん悪く思ってるのよ。遊ぶならお銭を持って来て遊ぶがいいと言っておこるのよ。 唯円 (拳を握る)私にお銭があったらなあ。 かえで いいのよ。私はあなただけはお客としてつきあってるのではないのですもの。いくらできたって、あなたにお銭で買われるのは死んでもいやですわ。(涙ぐむ) 唯円 あなたは私ゆえにつらいでしょうねえ。 かえで 私はかまいませんわ。それよりあなたお寺のほうの首尾が悪くはなくて。 唯円 (暗い顔をする)少しはお弟子たちには怪しく思っているものもあるようです。 かえで お師匠様には知れはしなくて。 唯円 えゝ。(不安そうな顔をする) かえで きょうはなんと言って出ていらしたの。 唯円 黒谷様にお参りして来ると言ったのです。 かえで お師匠様はなんとおっしゃいました。 唯円 ついでに真如堂に回って、ゆっくりして帰るがいいとおっしゃいました。 かえで そうですか。(考える) 唯円 私はお師匠様にうそをつくのが苦しくていけません。けさも黒谷にお参りして、法然様のお墓の前にひざまずいて、私は心からおわびを申しました。 かえで (急に沈んだ表情になる)清いあなたにうそを言わせるのも皆私のせいです。 唯円 いいえ。そうではありません。 かえで 堪忍してください。(手を合わす) 唯円 私が悪いのです。(手を解かせる。そのままじっとかえでの手を握っている)無理にうそを言わなくても、ありのままをお師匠様に打ち明ければいいのです。私が勇気が無いのがいけないのです。 かえで だってそんな事を打ち明けたらしかられはしなくって。 唯円 私たちは悪い事をしているのではありません。私たちはその自信を何よりも先に持たねばなりません。かえでさん。いいですか。卑屈な心を起こしてはいけませんよ。 かえで だってあなたは坊様でしょう。そして私はあれでしょう。女のなかでも人様に卑しまれる遊女でしょう。 唯円 僧は恋をしてはいけないというのは真宗の信心ではありません。また遊女だからとて軽蔑するのはお師匠様の教えではありません。たとえ遊女でも純粋な恋をすれば、その恋は無垢な清いものです。世の中には卑しい、汚れた恋をするお嬢さんがいくらあるか知れません。私はあなたを遊女としてつきあってはいません。あなたも私を客としてつきあってはいないとさっき言いましたね。私はあれはありがたい気がしました。実際あなたは純潔な心を持っているのだもの。私はあなたを愛します。(手を強く握り締める) かえで でも私は、私は……(涙をこぼす)私のからだは汚れています。(袖で顔をおおうて泣く) 唯円 (かえでを抱く)かえでさん。かえでさん。 かえで 私を捨ててください。私はあなたに愛される価値がありません。私は汚れています。あなたは清い清い玉のようなおからだです。私はすみません。私は泣いて耐え忍びます。これまで何もかもこらえて来たのですもの。私は一生男のなぐさみもので終わるものと覚悟していました。その侮辱さえも私の運命としてあきらめる気でした。あきらめないと言ったとてしかたはないのですもの。私に力が無いのですもの。また皆が私にそうあきらめさせるように仕向けるのですもの。どのお客も、どのお客も皆私をなぐさみものとして取り扱いました。そして私に自分をそう思えよと強いました。私はそれにならされました。自分はなぐさまれる犠牲、お客は呵責する鬼ときめました。あなたは私を娘として取り扱ってくださった最初のかたでした。私でも人間であることを教えてくださった最初のかたでした。あなたは私でも仏様の子であるとまでおっしゃってくださいました。(泣く)私はあなたのように私を取り扱ってくれる人があろうとは夢にも思いませんでした。あなたは天の使いのようなかただと私は思いました。あなたとつきあっているうちに、私はだんだんと、失っていた娘の心を回復して来ました。娘らしいねがいが、よみがえって来ました。雨のようなあなたの情けに潤うて、私の胸につぼみのままで圧しつけられていた、娘のねがい、よろこび、いのち、おゝ、私の恋が一時にほころびました。私はうれしくて夢中になりました、そして私の身のほども、境遇も忘れてしまいました。私に許されぬ世界を夢みました。今私は私の立っている地位を明らかに知りました。私はあなたの玉のような運命を傷つけてはなりません。私を捨ててください。私はあきらめます。あなたの事は一生忘れません。私はしばらく私に許されたたのしい夢の思い出を守って生きて行きます。 唯円 夢ではありません。夢ではありません。私は私たちの恋を何よりも確かな実在にしようと思っているのです。天地の間に厳存するところのすべて美しきものの精として、あの空に輝く星にも比べて尊み慈しんでいるのです。二人の間に産まれたこの宝を大切にしましょう。育てて行きましょう。私は恋のためと思うと一生懸命になるのです。力がわくのです。およそ私たちの恋を妨げる敵と勇ましくたたかいましょう。あなたも悲しい事を考えないで心を強く保っていてください。私たちの恋が成就するためには、山のような困難が横たわっています。それを踏み越えて勝利を占めねばなりません。およそ私たちの恋を夢と思うほど間違った考えはありません。かえでさん、私はそのような浮いた心ではありませんよ。私は恋の事を思うただけでも涙がこぼれるのです。(涙をこぼす)私は甘い、たのしい事を考えるよりも、むしろ難行苦行を思います。お百度参りを思います。恋は巡礼です。日参です。(かえでの顔をじっと見る。やがて強くかえでを抱き締める)あなたのからだの汚れていることをあなたはひどく気にします。あなたの心を察します。あなたはたまらないでしょう。私はそれを思うとふらふらするような気がしました。私は夜も眠られませんでした。私は考えもだえました。けれど私はもうその苦しみに打ちかちました。それはあなたの罪ではありません。あなたの不幸です。あなたを責めるのは無理です。他人の罪です。その他人の加えた傷害のために、あなたはそのように苦しんでいるのです。そのために自分の一生の幸福さえもあきらめようとしているのです。なんという事でしょう。私はこの事実を呪います。恐ろしい事です。不合理な事です。皆悪魔のしわざです。おゝ、私は悪魔に挑戦します。(拳を握る) かえで 皆悪魔です。冷酷な鬼です。毎晩その悪魔が来て恥ずかしい事を仕掛けるのですもの。それがみんな、しつこいのですもの。 唯円 その小さな、美しいからだに。おゝ。(よろめく) かえで (唯円をささえる)唯円さま。唯円さま。 唯円 ちくしょう! 私はこうしてはいられない。(かえでに)私はあなたを悪魔の手から守らなくてはなりません。一日も早くあなたをその境遇から救い出さねばなりません。しっかりしていてください。気を落としてはいけません。今に、今に私があなたを助け出します。 かえで でも一度汚れたからだはもう二度と―― 唯円 その事はもうおっしゃいますな。あなたはその事で決して私に気がねをなさいますな。あなたの罪ではないのですから。それどころではありません。私はあなたがたといこれまで自分でどのようなきたない罪を犯していらしっても、私はそれをゆるしてあなたを愛する気なのです。 かえで (涙ぐむ)まあ、それほどまでに私を愛してくださいますの。 唯円 (痙攣的にかえでを抱く)永久にあなたを愛します。あなたは私のいのちです。 かえで (唯円の胸に顔を押し当てる)いつまでも、かわいがってくださいよねえ。 唯円 いつまでも。いつまでも。 両人沈黙。叢の陰から子供の歌がきこえる。やがて子供四人登場。女の子ばかり。手ぬぐいをかぶり、籃を持っている。唯円、かえで離れる。 子供一 (歌う)蕗のとう十になれ、わしゃ二十一になる。 子供二 見つけた。(蕗のとうを摘む) 子供三 ここにもあってよ。 子供四 入れてちょうだい。(籃をさし出す)もうこんなにたんとになってよ。 子供たち唯円とかえでを見てちょっと黙って躊躇する。やがて、そこここを、捜しては摘む。摘みつつ歌う。かえでは子供をじっと見ている。 子供一 ここにつくしがあった。 子供二 そう。(見る)ほんに。皆つくしを摘みましょうよ。 子供一 (つくしを手に持って歌う)一本摘み初め。(捜しつづける) 子供たちつくしを捜す。 子供二 見つけた。(歌う)二本摘み添え。 子供三 ここにもあってよ。ずいぶん大きくてよ。 子供四 私も見つけた。私のほうが大きくてよ。 子供三 比べてみましょう。(二本あわせて丈を比べる) 子供四 私のが少し長いわ。 子供三 くやしいね。 子供一 皆、来て御覧、ここにお地蔵さんが小さなよだれかけをしていらしてよ。 子供たちそちらに行きて見る。皆笑う。 子供二 赤ちゃんみたいね。(地蔵の頭をなでる) 子供三 幾つ並んでるの。 子供四 (数える)六つよ。 子供一 四つ目のは首がないのね。 子供二 あゝ、わかった。これは六地蔵というのでしょ。 子供三 地蔵さんてなあに。 子供四 仏さまでしょう。 子供一 ではこの花をあげましょうよ。(籃の中から野菊を出して地蔵の前に立てる) 子供二 皆おがみましょうよ。(ひざまずき手を合わす) 子供一同代わる代わるひざまずき手を合わす。 子供一 あの森のなかの塔のほうに行ってみなくて。 子供二 えゝ、行ってみましょう。 子供たち森のなかにはいり、歌いつつ退場。 かえで 子供は無邪気なものね。(考えている) 唯円 まったく罪がありませんね。 かえで なんの苦も無さそうに見えるのね。(間)私も一度あのころに返ってみたいわ。あのころはしあわせだったわ。まだおとうさんが生きていらっしゃるころは。 唯円 あなたにはおとうさんが無いのでしたね。私にはおかあさんが無いのですけれど。 かえで あなたのおとうさんはどこにいらっしゃるの。 唯円 国にひとりいます。常陸の国の田舎に。 かえで 常陸と言えばずいぶん遠いのでしょう。 唯円 えゝ。十何か国も越えた東のほう。あなたのおかあさんは? かえで 播州の山の奥よ。病身なのよ。(考える)おとうさんのないのと、おかあさんの無いのとどちらが不幸でしょうか。 唯円 おかあさんが無いと、着物のことなんか少しもわからなくて、それは困りますよ。 かえで でもおとうさんが無いと暮らしに困ってよ。私なんかおとうさんさえいてくだすったらこのような身にならなくてもよかったのだわ。 唯円 もうよしましょうよ。自分らのふしあわせの比べっこをするなんて、ずいぶんなさけない気がします。 かえで 私は子供の時には家の貧乏な事など少しも気にならないで、お友だちとはねまわって遊んだわ。けれどもそのような時は短かったの。私が十三の時におとうさんがなくなってからは、おかあさんと二人でそれは苦労したわ。御飯も食べない時もあったわ。そのうちにおかあさんが病気になったのよ。それからはもうどうもこうもならなくなってしまったのよ。そのころの事よ。私は村はずれのお地蔵様に毎日はだし参りをしました。おかあさんの病気がなおりますようにと夢中になって祈りました。私はさっき子供がお地蔵様を拝んでいるのを見て、その時の事を思い出して涙が出ました。いくら拝んでも病気はなおらないのよ。 唯円 それでしかたが無いから身を売ったの。 かえで 身を売るのがどのようなものか私はよく知らなかったのよ。十四の年ですもの。世話人が来て京に出て奉公すればたくさんお銭がもらえると勧めたのよ。おかあさんはやらないと言ったのよ。けれど私は思い切って京に出る気になったの。だっておかあさんは薬も何もないのですもの。 唯円 ………… かえで 私は小さなふろしき包みをしょって、世話人に連れられて村を出ました。村の土橋の所までかあさんが送って来てくれました。別れる時におかあさんは私を抱いて泣いて、泣いて―― 唯円 たまらなかったでしょう。つらかったでしょう。 かえで 京へ来てからは毎日こき使われました。三味線や歌を習わせられました。よく覚わらないので撥でたたかれました。お稽古の暇には用使いから、お掃除から、使わねば損のように皆が追い使いました。私はいっそ死んでしまおうと思った事もありました。 唯円 そうまで思い詰めましたか。 かえで えゝ。お皿を一枚こわしたと言って、ひどく、しつこくしかるのですもの。犬だの、青猿だのとののしるのですもの。それでも私は黙ってお庭のお掃除をしました。でも口ごたえでもしょうものなら、それこそたいへんな目にあうのですからね。私はちり取りを持ってごみ捨てに川原に出ました。そして川の水の流れるのを見て立ちつくしました。その時私は死んでしまおうかと思いました。 唯円 ほんとにねえ。 かえで ねえさんがいてくださらなかったら、私はきっとあのころ死んでいたでしょう。 唯円 浅香さんはよくしてくれましたか。 かえで えゝ。影になり、日向になり、私をかぼうてくださいました。(間)私より小さい人が新しく来てからは私は少しはらくになりました。けれど今度はいやないやな事を強いられました。 唯円 それはもう言わないでください。言わないでください。(目をつむる) かえで こらえてください。私はあなたよりほかにこのような話をする人はないのですから。ついつり込まれて、身の上話をいたしました。 唯円 いいえ。私はただなんと言ってあなたを慰めていいか、わからないのがつらいのです。どうぞ耐え忍んでください。私はそういうよりありません。悲しいのはあなたばかりではないのです。お師匠様でも、善鸞様でも、内容こそ違え、それはそれはたまらないような深い悲しみを持っていられます。でも耐え忍んで生きていられます。死ぬのはいけません。どんなに苦しくても死ぬのはいけません。自殺は他殺よりも深い罪だとお師匠様がおっしゃいました。仏様からいただいたいのちに対して何よりも敬虔な心を持たねばいけません。火宅のこの世では生きる事は死ぬる事よりも苦しい場合はいくらもあります。そこを死なずに、耐え忍ぶ時に、信心ができるようになるとお師匠さまがおっしゃいました。 かえで 私のようなものでも信心ができるでしょうか。 唯円 できなくてどうしましょう。あなたのような純な人に。 かえで 私は学問も何も知りませんよ。 唯円 そのようなものは信心となんの関係もありません。悲しみと、愛とに感ずる心さえあればいいのです。 かえで 私はどうすればいいのでしょう。 唯円 あなたはお地蔵様に、かあさんの病気がなおるように願いましたね。なおりませんでしたね。あの時お地蔵様を恨みましたか。 かえで お恨み申しました。 唯円 その時仏様を恨まずに、このようにふしあわせなのも、私がいつか悪い事をした報いなのだ。けれど仏様は私を愛していてくださるのだ。そしてどこかで助けてくださるのだと信ずるのです。それが信心です。それはほんとうなのですからね。あの慈悲深いお師匠様がうそをおっしゃるはずはありません。 かえで 私のように人から卑しまれる、汚れた女でも仏様は助けてくださいましょうか。 唯円 助けてくださいますとも。どのような悪い人間でも赦して、助けてくださるのですもの。 かえで 私はうれしゅうございます。私はあなたとつき合うようになってから、美しい、善いものをだんだんと願い、また信じる事ができるようになって来ました。私はこれまで媚びることや、欺くことばかり見たり、聞いたりして来ました。愛というようなものはこの世には無いものとあきらめていました。それがこのごろは、私をつつむ愛の温かさを待ち、望み、そして信じる事ができそうな気がしだしました。明るい光がどこからかさし込んで来るようなここちがしだしました。 唯円 あなたの周囲にいる人たちが悪かったのです。これからは、明るい美しい事を考えるようにならねばいけません。 かえで あなたなどはしあわせね。毎日尊いお師匠様のおそばで清いお話を教えてもらったり、仏様の前でお経を読んだりなさるのね。私などの毎日している事はそれと比べてなんという醜い事でしょう。私はつくづくいやになってよ。 唯円 あのお師匠様のそばにいる事は心からしあわせと思います。けれどお寺の中は清い事ばかりはなく、また坊様にもいやな人はたくさんありますよ。お寺とか、坊様とかいう事はそんなにたいした事ではないのです。大切なのは信ずる心なのです。お師匠様から聞いた事は、皆私があなたに教えてあげますよ。またあなたをいつまでも、今の所には、私は決して置かぬ気です。 かえで ほんとに早くそうなれるような、よい分別を出してくださいな。そして私を善い女になれるように導いてくださいな。 唯円 そうしなくていいものですか。(肩をそびやかすようにする) かえで 私はなんだかうれしくなって来ました。(ほれぼれと唯円の顔を見る)ほんとうにいつまでもあなたのおそばにいられるようにしてくださいよねえ。 唯円 きっとそうしますよ。 かえで おゝ、うれしい。そしたら私あなたを大切にしてよ。 この時夕暮れの鐘が殷々として鳴る。 かえで (立ち上がる)私きょうはもう帰らないといけないのよ。 唯円 も少しいらっしゃいよ。 かえで でもおそくなると困るのですもの。 唯円 ではちょっとの間。あの夕日があの楠の木の陰になるまで。私は帰しませんよ。(さえぎるまねをする) かえで (すわる)私も帰りたくなくてしょうがないのよ。 二人しばらく沈黙。 唯円 かえでさん。 かえで はい。 唯円 かえでさん。かえでさん。かえでさん。 かえで まあ。(目をみ張る) 唯円 あなたの名がむやみと呼んでみたいのです。いくら呼んでも飽きないのです。 かえで (涙ぐむ)私はあなたといつまでも離れなくてよ。墓場に行くまで。 唯円 私は恋の事を思うと死にたくなくなります。いつまでも生きていたくなります。 かえで でも人は皆死ぬのね。このたくさんな墓場を御覧あそばせ。 唯円 私は恋をしだしてから、変に死の事が気になりだしました。(ひとり言のごとく)恋と運命と死と、皆どこかに通じた永遠な気持ちがあるような気がする。(考える)もしかすると私は若死にかもしれない。 かえで どうして? 唯円 私は病身ですもの。 かえで そんな事があるものですか。 両人ちょっと沈黙。 かえで もうお日様が楠の木にかかりました。(立ち上がる) 唯円 あゝしかたがない。(立ち上がる) かえで では帰りますわ。 唯円 今度はいつ。 かえで きめられませんわ。あとでお手紙で知らせますわ。 唯円 できるだけ早く。 かえで えゝ。ほんとうに手紙を取りに来てくださる? 唯円 きっと行きます。口笛を吹きますからね。 かえで これからお寺へ帰ってどうなさるの。 唯円 晩のお勤めに仏様を拝むのです。 かえで あゝ。私はまた歌をうたわねばならぬのだろう。(ため息をつく。思い切って)しょうがない。ではさようなら。 唯円 さようなら。 両人抱き合う、やがて離れる。かえで叢の陰に退場。 唯円 (ぼんやりたたずむ、やがて木の株に腰をおろす)おゝさびしいさびしい。(頭を両ひじでささえて沈黙) ――黒幕――
第二場
浅香居間 やや古代めいた装飾。小さな仏壇、お灯明があがっている。衣桁に着物が掛けてある。壁に三味線が二丁、一丁には袋がかけてある。火のともった行灯。鏡台と火鉢がある。川に面して欄干あり。 人物 かえで 浅香(遊女) 村萩(遊女) 墨野(遊女) 仲居 時 同じ日の宵 浅香、村萩、墨野、花合わせをしている。しばらく黙って札を引いている。 村萩 おやもみじ。気をつけないと浅香さんが青丹をしますよ。 墨野 ぬかりなくてよ。あとは菊ですね。 浅香 きっとできますわ。 村萩 そら、あやめ。三本が飛び込みになりましたよ。 墨野 うまくやってるね。 村萩 あといくらも札が残ってなくてよ。 浅香 (札を引く)そら菊。(ちょっと眉根を寄せる)あらいやだ。桐のがらだわ。 墨野 おあいにくさま。 村萩 (札を引く)そら菊。出た。 墨野 青はやぶれましたね。 浅香 くやしいわ。 村萩 (笑う)お気の毒様。 三人しばらく沈黙して札をめくる。 墨野 これでおしまい。 三人点を数える。仲居登場。 仲居 墨野さん。さっきからお座敷で呼んでいられますよ。 墨野 すぐに行きますよ。(村萩に)いま十か月ね。あと二か月ね。ついでにきりをつけて行こうかしら。 仲居 たいへん待ち兼ねていらっしゃるのよ。 村萩 すぐに行かないとまたあとで悪くてよ。 墨野 しょうがないね。 仲居 ではすぐに来てください。(退場) 墨野 では行って参ります。いずれ後ほど。(退場) 村萩 二人でしましょうか。 浅香 (気の無さそうに)もう花合わせはよしましょうよ。(札をかたづけつつ)私は今晩は負けてばかりいました。(考える)ことしはどうも運勢がよくないらしい。 村萩 花合わせのようなものでも、負けると気持ちのいいものではないのね。 浅香 まったく。 村萩 あなたはこのごろおからだでも悪いのじゃなくて。 浅香 どうして? 村萩 なんだか景気がよくないのね。いつも沈んでいらっしゃるわ。 浅香 私の性分ですわ。 村萩 少しおやせなさいましたね。 浅香 そうですか。 村萩 あまり物事を苦になさるからよ。私みたようにのんきにおなりなさいな。 浅香 でも何もかも情けない事だらけですもの。 村萩 それはそうよ。けれど私たちのような身で、物を苦にした日には、それこそ限りがありませんわ。 浅香 ほんとにねえ。 村萩 私も初めはあなたみたいに、考えては悲しがっていたのよ。来た当座は泣いてばかりいましたわ。けれど泣いたとて、どうもなるのではなし、くよくよ思うだけ損だと思って、いっさい考えない事にしてしまったのよ。きょう一日がどうにか過ごされさえすればいいと思うことにしたのよ。だって行く末の事を案じだしたら、心細くて、とてもこうやってはいられなくなりますもの。 浅香 私もあなたのような気分になりたいと思うのよ。またそうなるよりほかにしかたもないのですしね。けれど生まれつき苦労性とでもいうのでしょうかね。ものが気になってならないのよ。(間)私もね。もう行く末の事などそんなに考えはしないのよ。だけどきょうの一日が味気なくて、さびしくてならないの。 村萩 あなたはほんとうに陰気なかたね。あなたと話していると私までつり込まれてさびしくなるわ。そして忘れている――というよりも、忘れようと努めている不幸を新しく思い出しますわ。(間)えゝ。よしましょう。よしましょう。こんな気のめいるようなお話は。今は陽気な春ではありませんか。もっと楽しい話でもしましょうよ。 浅香 ほんに春の宵なのね。 村萩 町も春めいてずいぶん陽気になりましたよ。今晩方も店に出ていたら、格子の外を軽そうな下駄の音などして、通る人は花のうわさをしていましたよ。 浅香 もうまもなく咲くでしょう。 村萩 皆で花見に一日行こうではありませんか。 浅香 そうね。(沈む) 村萩 それはそうとかえでさんはまだ帰らないの。 浅香 えゝ。まだですの。 村萩 どこへ行ったのでしょう。 浅香 ちょっと清水へお参りして来ると言って出たのですがね。 村萩 ずいぶんおそいのね。 浅香 もうおっつけ帰るでしょう。なにしろまだ子供ですからね。 村萩 そうでもないようよ。(間)実はね。おかあさんが私に腹を立てて話してましたよ。 浅香 なんと言って。 村萩 かえでのやり方は横着だ。そのような若い小僧あがりのような者に身を入れて、家の勤めがお留守になる。お銭なしに稼業をしている女と遊ぼうとするのは虫がよすぎる。ほかの客を粗末にして困ってしまう。それに浅香も浅香だって。 浅香 私の事も言ってましたか。 村萩 えゝ、浅香が仲に立って取り持っているらしい。妹分を取り締まらなくてはならない身で不都合だと言っていましたよ。 浅香 そんな事を言っていましたか。 村萩 ぷりぷりしていましたよ。気をつけないと、またあのおかあさんがおこりだすと、しつこくてめんどうですからねえ。 浅香 それはねえ。(考え込む) 村萩 私はかえでさんは若くはあるし、ああなるのも無理はないとは思うのよ。私だって覚えの無い身ではないし。けれどかえでさんはあんまり聞き分けがなさ過ぎると思ってよ。勤めの身でいてまるで生娘のような恋をしようとするのですからね。 浅香 それはおかあさんで見れば、困る事もありましょうけれどね。 村萩 なにしろ稼業になりませんからね。それにかえでさんは私なんかには何も打ち明けないで、内緒にばかりしているんですからね。こうこうだから頼むと言えば、私だって、都合をつけて、一度や二度は会わしてあげないものでもないのだけれど、あれではかわいらしくありませんからね。 浅香 お花にならずに、かくれ遊びをしているのだから、気がとがめて打ち明けられないのでしょうよ。 村萩 けれどあの人は気が高すぎます。きょうもこそこそ出かけていたから、私がどこへ行きますときいたら、白ばくれてちょっとそこまでと言うのよ。私は少ししゃくだったから、へえ、ちょっとお寺まででしょうと言ってやったのよ。そしておかあさんのおこっている事や、勤めをだいじにせねばならない事を言ってきかせてやったのよ。そしたら、あの子の口上が憎らしいではありませんか。私は悪い事をしているのではありません。ねえさんなどとは考えが少し違うのだから、いいから、ほっといてください、とこうなのでしょう。 浅香 そんな事を言いましたかえ。帰ったら私がよく言い聞かせてやりますから、どうぞ気を悪くなさらないで、堪忍してやってくださいね。元来はおとなしい性質なのですからね。 村萩 あんまり私たちを軽く見ていますからね。 浅香 あの子もこのごろは思い詰めて、気が立っているのです。あのように言ったのもよくよく思い余ったのでしょうから。 村萩 あなたはかえでさんに甘すぎますよ。おかあさんもこのあいだ言っていました。かえでの気の高いのは、浅香の仕込みだって。 浅香 そんな事はありませんわ。 村萩 なにしろ少しあなたから気をつけたほうがよくてよ。皆そう言っているのですからね。優しくするとつけあがりますからね。 浅香 気をつけましょう。堪忍してやってください。(涙ぐむ) 村萩 何も堪忍するの、しないのっていう段ではないのですけれどね。話のついでに言ったまでの事ですよ。あれではかえでさんのためにもならないと思って。 浅香 ありがとうございます。(くちびるをかむ) 村萩 そんなに気に留めなくてもいいことよ。ではまた寄せてもらいます。(立ち上がる) 浅香 まあ、いいではありませんか。 村萩 いずれまた。花合わせにのぼせてまだ夕方の身じまいもしていませんから。 浅香 そう。ではまたいらしてください。 村萩退場。浅香、ちょっとぼんやりする。それから花合わせを箱に入れる。それからまた考え込む。やがて気を替えたように立ちあがり、鏡台の前に行きてすわる。 浅香 (鏡を見つつ)ほんとに少しやせたようだ。(頬に手を当てる)やせもするだろうよ。(鏡台の引き出しから櫛を出して、髪をなでつける)このようにしてなんのために身じまいをするのだろう。自分をもてあそびに来るいやな男――自分の敵に媚びるために自分の顔形を飾らなくてはならないとは! いや、今ではもうそのような事を考えなくって、ただ習慣で、夕方ごとに鏡に向くのだ。それも自分の色香に自信があった間はまだよかったのだけれど。(間)髪の毛の抜けること。(櫛から髪の毛を除く)弱いからだを資本にして、無理なからだの使い方をして働けるだけ働き抜いて、そして働けなくなったら――(身ぶるいする)えゝ、考えまい。考えまい。 ほかの座敷から鼓の音がきこえて来る。かえで登場。浅香を見ると声をあげて泣く。 浅香 (かえでのそばに寄り、のぞき込む)かえでさん。どうしたの。かえでさん。 かえで あんまりです。あんまりです。(身をふるわす。簪が脱けて落ちる) 浅香 どうしたのだえ。だしぬけに。(簪をさしてやる)まあおすわり。(かえでを火鉢のそばにすわらせる。自分もそのそばにすわる) かえで (泣きやむ)おかあさんにひどくしかられたのよ。帰ると呼びつけられて。私が悪いのよ。おそくなったのだもの。でも帰られなかったのよ。けれどあんまりな事をおっしゃるのだもの。 浅香 私もそうだろうと思いました。 かえで つかみかかるようにして、頭からどなりつけられたわ。できるだけひどい言葉を使って。私はかまわないのよ。どうせ私はおかあさんにかけたら虫けらのようなものですもの。なんと言ったとてしかたはないのだし、もうしかられつけていますからね。けれどおかあさんはあのかたの事を悪く悪くはたで聞いていられないような事をいうのですもの。 浅香 唯円様の事もかえ。 かえで お銭を持たずに遊ぶ者は盗人も同じ事だって。あのかたの事を台所でおさかなをくわえて逃げる泥棒猫にたとえました。 浅香 まあひどいことを。 かえで 私はあまり腹が立ちましたから、いいえ、あのかたは鳩のように純潔な優しいかたですと言ったのよ。すると口ごたえをするといって煙管でぶつのですよ。 浅香 ぶったの。 かえで えゝ。ここのところを力いっぱい。(ひざをさする)そしてもういっさい外出はさせないと言いました。 浅香 ひどいことをするものだね。あの人の荒いのはいつもの事だけれど、ぶつのはあまりだ。言って聞かせればよかりそうなものだのに。 かえで きっと村萩さんが告げ口をしたのよ。今晩もおかあさんのそばにいて、意地悪い皮肉や、針のあるいやみをならべましたわ。 浅香 村萩さんもかえ、皆して小さいお前をいじめるなんて。(間)村萩さんはさっきまでここで話して行ったのだよ。お前は気が高くてねえさんたちを軽く見ていると言っておこっていたよ。それにお前が打ち明けないのが気に入らないのだよ。 かえで いやなことだ。あの人に打ち明けるなんて。自分の心の内に守っている大切な恋を、軽いチョコチョコした心ない人に安っぽく話す気になれるものですか。私ほんとうにねえさんきりよ。何もかも打ち明けるのは。また私が気が高いって言うのはほんとうかもしれないわ。いつかねえさんが私におっしゃったでしょう。どのような身になっても心に何かのほこりというものを持っていない女はきらいだって。 浅香 (涙ぐむ)よく覚えていてくれた。あゝ、けれど人様から卑しきもののたとえに引かれる遊女の身で、そのような事を考えているのはばかげているかもしれない! かえでさん。私は何も言う事はなくてよ。ただあなたがいとしいだけよ。何もかも耐え忍ぶよりほかありません。あきらめるよりほか――あゝ、あきらめるという心持ちはなんてさびしいこころでしょう。 かえで わかっててよ。ねえさん。(涙ぐむ)あなたがいてくださらなかったら、私はこれまでどうなっていたかわかりませんわ。私はお腹の内では手を合わせて拝んでいますわ。 両人沈黙。鼓の音だけきこえる。 かえで (欄干のそばに行き外をながめる)ねえさん来て御覧なさい。東山から月が出るところよ。 浅香 (かえでのそばに行き欄干にすがる)山の縁がぽーっと明るくなっていますね。 かえで 向こう岸の灯の美しいこと。 浅香 橋の上を人影がちらほらしていますね。 かえで 私はあのようなところを見ると変に人なつかしい気がしますのよ。 しばらく黙って夜景を見ている。 浅香 きょうはどこで会ったの。 かえで 黒谷様の裏手の墓地で。 浅香 うれしかって。(ほほえむ) かえで それはねえ。だけど私たちは悲しいほうが多いのよ。そして泣いたわ。 浅香 どうして? かえで 二人いるとひとりでに悲しくなるのよ。それにあのかたはどうかするとすぐに涙ぐみなさるのですもの。 浅香 優しいんですからね。あなたがたは会うとどのような話をするの。(ほほえむ) かえで (うれしそうに)それはいろいろの事を話しますわ。会いたかった事や手紙の事や、身の上話や、それから行く先々の事や―― 浅香 (まじめに)行く先々どうすると言って。 かえで いっしょになるといって。(口早に)私はすまないというのよ。私はこのような身分ですから捨ててくださいというのよ。けれど唯円様はどうしてもいっしょになろうとおっしゃるの。真宗では坊様でも奥様を持ってもいいのですって。 浅香 ではからだの汚れている事も知っての上で。 かえで えゝ。それを思うと苦しくて夜も眠られなかった。しかしその苦しみに打ちかった。あなたのからだの汚れたのはあなたの罪ではなく、あなたの不幸だとおっしゃるのよ。そればかりでなく、たとい、あなたが自分で自分のからだを汚していたとしても私はゆるして愛する気だとおっしゃってくださるのよ。 浅香 (涙ぐむ)よくよくまじめな熱いお心だわね。 かえで 唯円様はそれはまじめよ。私と会っている時でもどうかするとすぐ説教のような堅い話になるのよ。私はまたそのような話を聞くのがうれしいの。むつかしい顔をして、美だの、実在だのと、私にはよくわからないような事をおっしゃる時のあのかたがいちばん好きなのよ。 浅香 (ほほえむ)それでまだ一度も何しないの。 かえで (まじめに)えゝ。そのような事はちょっともないのよ。 浅香 ほんとにあのような人はあるものではない。よくしてあげなさいよ。 かえで それは大切にしますわ。私はもったいないと思っていますのよ。 浅香 私もあのかたは心から好きです。あなたが、いやな、卑しい人と何するのなら、私お手紙のお取り次ぎなんかまっぴらだけれどね。 かえで ほんとにお世話になりますわね。唯円様もあなたを好いていらしてよ。このあいだもあなたの事をいろいろ気にしてたずねていらしてよ。そして幾度もありがたいといっていられました。 浅香 このあいだの夜はいい都合だったのね。私はふと門口に出て見たら、あのかたが月あかりのなかをうろうろしていらっしゃるのよ。私はいとしくて涙が出てよ。駆けって行って、かえでさんに何か用事はありませんかと言ったら、どうぞこれを頼みますと言って手紙を渡して、あわてて、向こうへ行っておしまいなすったわ。 かえで あの時あなたに会わなかったら、夜通しでもうろうろしていただろうと言っていらっしゃいました。 浅香 あのかたなら、そうしかねなくってよ。(ほほえむ)だけど私はいいお役目が当たったものね。 かえで まあ。あんなことをおっしゃる。(ほほえむ) 浅香 (急に暗い顔をする)これから後はどうして会う気なの。 かえで (心配そうな顔をする)さあ。私はそれが心配でならないのよ。おかあさんは今晩の権幕では、もうちょっとも外へは出してくれますまい。といって唯円様は宅へ来てくださる事はできないのだし。 浅香 お銭の都合をつけなくてはいけますまい。 かえで 唯円様はいくらお銭があっても、私はあのかたにだけはお銭で買われたくはないのよ。私はお客とは思いません。私は娘として取り扱いますときょうもお約束しましたのよ。自分を卑しいものと思ってはいけないとくれぐれもおっしゃったのよ。 浅香 ではあなたがお勤めをやめるよりほかに道はないのではないの。 かえで 唯円様は今にそうしてやるとおっしゃるのよ。 浅香 ふむ。(考える)あのかたに何かあてがあるのでしょうか。 かえで (不安そうに)どうなのですかねえ。 浅香 あのかたに誠心があっても、世の中の事はなかなか一筋に行かないものでね。 かえで あのかたは世間の事はかいもく知っていらっしゃらないのよ。私のほうが分別があるくらいなのよ。 浅香 そうでしょうとも。 かえで あのかたはお師匠様に打ち明けて相談するとおっしゃるの。それがただ一つのたよりらしいのよ。 浅香 あの親鸞様に? かえで えゝ。お師匠様は坊様は恋をしてはいけないとはおっしゃらないのですって。なんでも力になってくださるのですって。遊女だからといって軽蔑はなさらないのですって。 浅香 何もかもわかっているかたとは善鸞様から聞いていますけれどね。 かえで ねえさん。私はどうなるのでしょうか。 浅香 さあねえ。お弟子たちにはいい人ばかりはいないそうですからねえ。 かえで ほんとに心細くなってしまうわ。 浅香 それにしても、そうなるまではどうして会う気なの。 かえで しかたがないから、唯円様が河原のほうから回って、石段の所で合図をしてくださる事になってるの、そしたら私が裏口から出て、お手紙を取り換えるお約束になってるのよ。手早くしないと、見つかるとたいへんだけれど、でもちょっとでもお顔が見られるわね。 浅香 そんなにしてまで会いたいの。 かえで ひと目だけでも。(間)唯円様は眠られない夜が多いのですって。私のようなものをでも、そんなにまで思ってくださるのですもの。 浅香 (しみじみと)それであなたも身も心もと思ったの。 かえで えゝ。(涙ぐみてうなずく) 浅香 (気を替える)うまく行きますよ。私はそれを祈ります。私が言ったのは、今急には行くまいと言ったのよ。いろいろとむつかしい事が起こるでしょうけれど、二人の心さえしっかりしていればきっと成就すると思うわ。辛抱が第一よ。 かえで どんなに苦しくても辛抱しますわ。 浅香 気が強くなくてはいけませんよ。私などはすぐに気が弱くなるからいけないのです。自分の幸福を守る事に勇敢でなくてはだめよ。皆はおとなしい人には勝手な事を仕向けて、その人のいのちよりも大切にしているものをでも造作もなく奪って行ってしまいますからね。そしてそれを義理だと言って無理にこらえさせますからね。善鸞様がいつも言っていらっしたっけ。義理を立て貫ぬく覚悟がない時には、なまなか義理を立てようとするとかえってあとで他人に迷惑をかけるような事になるって。善鸞様でも初め、恋人と心をあわせて、強く自分たちの幸福のために戦われたら、あとで皆を苦しめ、自分も泣かなくてもよかったのだわ。またいったん自分の幸福を犠牲にする気になったのなら、もう自分は死んでしまった者と思って、一生涯さびしく強く生き通さなくてはならないのです。けれど優しい人はそうは行かないのね。初めは義理にからまれるし、後にはさびしさに堪えられないし。(間)あの人はほんとうに不幸な人だ。(間)あなたはまけてはいけませんよ。 かえで 私は一生懸命になりますわ。きょう唯円様もどのような困難にも戦って必ず勝利を占めようとおっしゃいました。ねえさんも力を貸してくださいね。 浅香 私はどんな事でもしてあげますわ。 かえで ねえさんの御恩は忘れません。(涙ぐむ) 浅香 私は親身の妹のように思っているのよ。 かえで 私もほんとうのねえさんのような気がするのよ。 浅香 あなたが初めて家に来たとき、私の部屋に来てこれからお頼み申しますと言って、手をついてお辞儀をしたでしょう。私はあの時から妙にいとしい気がしたのよ。おかあさんから、今度新しい子が来るから、お前の妹分にして仕込んでやってくれとかねてたのまれていたのよ。けれど私は別に気にも留めなかったの。それにあなたを一目見るとなんとも言えないあわれな気がしたのよ、あなたはきまり悪そうに、おずおずして言葉も田舎なまりのままでしたわね。 かえで 私は勝手はわからないし、心細かったわ。あの時あなたは少し気分が悪いと言って火鉢にもたれて、何もしないでじっとすわっていらしたわね。私は優しそうなかただと思いました。だんだんつきあっているうちに、ほかのねえさんたちとは違ったさびしい、ゆかしいところが私にもよくわかって来たのよ。そしてすっかりあなたが好きになってしまったの。 浅香 あなたは初めはずいぶん苦しい目にあったわね。小さい身にはこらえ切れないような。 かえで あなたはよく私をかぼうてくださいました。 浅香 あなたが死にかけた時にはどんなに驚いたでしょう。 かえで 辛抱おし。何もかもわかっている。私も同じ思いを忍んで来たのだ。何事も国のおかあさんのために。とあなたは泣いて止めてくださいました。 浅香 でもよく聞き分けてくだすったわね。それから互いの身の上話になって、二人で話しては泣いたのね。 かえで まるで数でもかぞえるように、互いのふしあわせを並べ立てて―― 浅香 なぜ私たちはこのように不幸なのでしょうと言って二人で考えたのね。そしたらわけがわからなくなってしまって、とうとうあきらめるよりほかはないということでおしまいになったのね。 かえで あの時から二人はいっそうの事親しくなったのね。 浅香 何もかも打ち明けおうて。 かえで (浅香の顔を見る)見捨ててはいやよ。 浅香 あなたこそ。 かえで ねえさん、手をかして。 浅香 はい。(手を延ばす) かえで (浅香の手を胸のところで握り締める)ねえさんのお手の冷たいこと! 浅香 私は冷え性なのよ。 二人しばらく沈黙。 かえで 善鸞様からおたよりがありますの。 浅香 えゝ、おりおり。 かえで お国ではどうして暮らしていらっしゃるの。 浅香 やはりお寺にすわっていらっしゃるのよ。しきたりで仏様は拝むけれど、ほんとうは何も信じられないで、心はだんだんさびれて行くばかりだとお手紙に書いてありました。 かえで あのようなさびしいかたはありませんね。つきあえば、つきあうだけ、どんなに心の奥に、不幸を持っていらっしゃるかが思われるような気がしました。 浅香 善鸞様はほんとうはおとう様に会いたくて京にいらっしゃったのよ。けれどおとう様のお身のためや、お弟子衆や、親戚のかたの心持ちや、いろいろな事を考えて、とうとう会わない事に決心なすったのよ。 かえで ではさびしいお心で御帰国なすったでしょうねえ。 浅香 おいとしいと言うよりも、あわれなと言うくらいでしたよ。(間)けれど唯円様のおかげでおとう様のお心持ちがよくわかったので、たいへん安心なさいました。別れていて互いの幸福を祈る――すべての人間は隣人としてそうするのが普通のさだめなのだ。人間はどのように愛し合っていても、いつもいっしょにいられるものではない。別れていて祈りを通わすほかは無い。お前とおれでもそのとおりだ、もうじきお別れしなくてはならない。今度はいつ会えるかわからない。別れてもおれのために祈ってくれ。おれもお前のしあわせを祈るからとおっしゃいました。 かえで 善鸞様は唯円様をたいへんお好きなさいましたね。 浅香 あんな温かい、純潔な人は無いと言って、いつもほめていらっしゃいました。 かえで 唯円様も、善鸞様を皆が悪く言うのはわけがわからないと言っていらっしゃいました。 浅香 あのかたは善い心が傷つけられたために、調子が狂って来たのです。いったん心の調子が狂うと、なかなか元には返りませんからね。それには始終そのすさんだ心を温め潤す愛がはたになければなりません。それだのにあのかたの周囲には、その愛が欠けている代わりに、呪いとさげすみとが満ちているのですもの。 かえで あのかたはまたその他人の非難を気にかけずにいられるような人ではありませんでしたからね。自分では強そうな事を言っていらっしゃるくせに。いつかも私にお前はおれを善い人と思うか、悪い人と思うかと真顔でおっしゃいましたから、私はあなたのように心の善い人は知りませんと言ったら、ほんとうにそう思うかとおっしゃるから、あなたにはお世辞は申しませんと言ったら、涙ぐみあそばしてね。かえで、私はほんとうは善い人間なのだよ。皆が悪口を言うような人間ではないよ、私を悪く思ってくれるなとおっしゃいました。ちょうどその日お座敷で私に無理にお酒を飲ませたり、いたずらをなすった夜でしたのよ。 浅香 つきあうだけ深みの出る人でしたよ。私はあのように手ごたえのあるお客にぶつかった事はありませんでした。 かえで あなたと善鸞様とはいったいどんな仲だったのですの。私は今でもよくわからなくてよ。 浅香 (さびしく笑う)それはあなたと唯円様とみたようなのとは違いますよ。お互いに年を取っていますから。 かえで だってどちらも愛していらしたのでしょう。 浅香 それは愛していましたとも。 かえで ではどうしてあんなにして別れてしまったの。 浅香 それが人生のさびしいところなのよ。私もあのかたもそのようにできるようなさびしい心になってるのよ。今のあなたにはわかりませんけれど。 かえで そうお。でもいつも思い出すでしょう。 浅香 思い出しますとも。 かえで 今度はいつ京にいらっしゃるの。 浅香 いつだかわかりません。 かえで さびしいでしょう。 浅香 (涙ぐむ)ねえさんはそのさびしさにもうなれているのよ。 かえで 私はなんだか心細くなるわ。 仲居 (登場)かえでさん、お花、そのままですぐ来てください。 かえで あゝ、いやだ。今夜だけは出たくない。お座敷などへ出るような気分ではないわ。 浅香 でも辛抱して出ていらっしゃい。さっきの今ですから出ないとおかあさんがそれこそたいへんよ。 かえで しょうがないねえ。(鏡台の前にすわり、ちょっと顔をなおしてすぐ立ち上がる)ではちょっと。 浅香 (火鉢のそばにもどる)お早くお帰り。 かえで退場。しばらく沈黙。 浅香 (火箸で灰をならしつつ)あゝ、火もいつのまにやら消えたそうな。(ため息をつく)私の心はちょうどこの灰のようなものだ。もう若い情熱もなくなった。かえでさんのような恋はとてもできない。自分の不幸を泣く涙もかれて来た。訴える心もだんだん無くなって行く。なんの望みもない。と言って死ぬる事もできない。ただ習慣でなんの気乗りもなしにして来た事をつづけて行くだけだ。何が残っている、何が? ただ苦痛を忍び受ける心と、老いと死と、そしてそのさきは……あゝ何もわからない。あんまりさびしすぎる。(つきふす、泣く、間、顔をあげてあたりをぼんやり見まわす)たれかがたすけてくれそうなものだ。ほんとうにたれかが…… ――幕――
第五幕
第一場
本堂 大きな円柱がたくさん立っている大広間。正面に仏壇。左右に古雅な絵模様ある襖。灯盞にお灯明が燃えている。回り廊下。庫裏と奥院とに通ず。横手の廊下に鐘が釣ってある。 人物 唯円 僧数人 小僧一人 時 晩い春の夕方 第四幕より一月後 僧六人、仏壇の前に座して晩のお勤めの読経をしている。もはや終わりに近づいている。 僧一同 (合唱)釈迦牟尼仏能為甚難希有之事。能於娑婆国土五濁悪世、劫濁見濁煩悩濁衆生濁命濁中得阿耨多羅三藐三菩提。為諸衆生説是一切世間難信之法。舎利弗。当知我於五濁悪世行此難事得阿耨多羅三藐三菩提為一切世間説之難信之法是為甚難仏説此経已舎利弗及諸比丘一切世間天人阿修羅等聞仏所説歓喜信受作礼而去。(鐘)仏説阿弥陀経。(鐘) 僧一 なむあみだぶつ。 僧一同 なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。 この合唱たびたび繰り返さる、一同礼拝す、沈黙。立ち上がり無言のまま左右の襖をあけて退場。舞台しばらく空虚。小僧登場。夕ぐれの鐘をつく。この所作二分間かかる。無言のまま退場。 唯円 (登場。青ざめて、目が充血している)もうお勤めは済んだそうな。(ため息をつく。さえた柝の音がきこえてくる)あ、(耳をすます)庫裏で夕食を知らせる柝が鳴っている。(仏壇の前にくず折れる)あゝ心のなかから平和が去った。静けさが――あのしめやかに、落ちついた心はどこへ行ったのだろう。だれもいない本堂の、この経机の前にひざまずいて夕べごとの祈りをささげたとき、私のこころはどんなに平和であったろう。あの香炉から立ちのぼる焚きもののにおいのように、やわらかにかおっていた私のたましいはどうなったのだろう。小さな胸を抱くようにして私はその静けさを守っていた。(間)このごろの私のふつつかさ、こころはいつも乱れて飢えている。もう何日眠られぬ夜がつづくことだろう。朝夕のお勤めさえも乱れた心でおこたりがちになっている。たましいはまるで野ら犬のようにうろうろして落ちつかぬ。そうだ野ら犬のようだときょう松の家のお内儀があざけった。(身をふるわす)物ほしそうな顔をして、人目をおそれて裏口から忍び込もうとするものは、宿無し犬のようだと言った。おゝこの墨染めの衣を着て、顔を赤くして、おどおどと裏口に立っていたのだ。侮辱されてもなんとも得言わずに。みじめな私の姿は犬にも似ていたろう。こじき犬にも。(泣く) 僧三人、登場。唯円涙をかくし、立ちあがろうとする。 僧一 唯円殿。 唯円 はい。(立ち止まる) 僧一 少しお話があります。お待ちください。 僧二 あなたのお帰りを待っていたのです。 僧三 まあおすわりなされませ。 僧三人すわる。 唯円 (おずおずすわる)何か御用でございますか。お改まりあそばして。 僧一 実はちと伺いたい儀がありまして。(唯円の顔を見る)どうなされました。お顔色がひどく悪い。 僧二 目が血走っていますが。 唯円 ………… 僧三 きょうはどちらへお越しなされました。 唯円 木屋町のほうまで。おそくなりまして。 僧一 木屋町のどこに? 唯円 ………… 僧二 お勤めを怠りなさるのももうたびたびの事でございます。 唯円 相すみません。(涙ぐむ) 僧三 気をつけてもらわなくては困ります。 僧一 まだお若いとは申しながら。………… 僧二 いや、若い時こそ精進の心がさかんでなくてはなりません。私たちの若い時には、皆一生懸命に修業したものでしたよ。朝は日の出ぬ前に起きて、朝飯までには静座をして心を練りました。夜はおそくまで経を学んで、有明の月の出るのを知らなかった事もありました。お勤めを怠るというような怠慢な事は思いも寄らぬ事でしたよ。 僧三 なにしろ今時の若いお弟子たちとは心がけが違っていましたからね。このように懈怠の風の起こるのは実に嘆かわしいことと思います。身に緇衣をまとうものが女の事を――あゝ私はとうとう言ってしまいました。 僧一 いや言うべき事は言わなくてはなりません。きょうまでは黙っていましたけれど、いつまでもほっておいては唯円殿のおためでありません。だいいち法の汚れになります。(声を強くする)唯円殿、あなたはきょう木屋町の松の家にいらしたのでしょう。 僧二 そしてかえでとやら申す遊び女のところに。 唯円 ………… 僧三 何もかもわかっているのです。六角堂に参詣するとか、黒谷様に墓参のためとか言って、しげしげと外出あそばしたのは皆その女と逢引するためだったのでしょう。 唯円 すみません。すみません。 僧二 私はとくからあなたのそぶりを怪しいと思っていたのです。いや、今はもうお弟子衆でそれに気のつかぬものはありません。三人集まればあなたの事を話しています。 僧三 若いお弟子たちはうらやましがりますからな。私たちみたような年寄りはよろしいけれど。このあいだも控えの間を通っていたら、ふと耳にしたのですが、唯円殿はお師匠様の(変に力を入れる)秘蔵弟子で、美しい女には思われるし、果報者だと申していました。 僧二 (からかうように)あなたの事を陰では墨染めの少将と申しています。 唯円 (くちびるをかむ)おなぶりあそばすのですか? 僧二 いや、人がそう申しているという事ですよ。(かたくなる)お師匠様が黙っていらっしゃれば、あなたはなおさらつつしまなくてはなるまいかと存じます。お優しいのをいいことにして、思うがままのおふるまいは道であるまいと存じます。 僧三 それも良家の淑女というならまだしも、卑しい遊女などを相手にして。僧たるものが。浅ましい事でございます。 唯円 遊女ではありますが心は純潔な女です。 僧二 (僧三と顔を見合わす)あなたがだまされているのですよ。ことわざにも「傾城に誠なし」と申します。遊女などの申す言葉などあてになるものですか。 唯円 でもあの女ばかりはそのような女ではありません。私はむしろ私があの人を傷つけはしないかとそれを恐れているのです。 僧三 ほう。あなたはまだお若いからな。あなたをだますくらいたやすい事はありませんよ。あなたのひざに片手を置いて涙を一滴落として見せる――それだけの事ですよ。 唯円 私はあの人を信じています。 僧二 もしあの女がほんとうにあなたに対して何かの興味を感じているとしたら。まあ、好奇心でしょうよ。若い坊様ということにな。あなたはごきりょうがよいからな。 唯円 そんな浮いた事ではないのです。私たちは苦しいほどまじめなのです。会うたびごとに泣くのです。二人いるとひとりでに涙が出るのです。 僧三 まじめとは驚きます。女郎買いすることがまじめとは。僧たるものが。いや、まったく今時の若いお弟子たちにはおどろきますよ。 唯円 私はあの人を遊女として取り扱っているのではないのです。ひとりの娘と思ってつきあっているのです。またあの人も私に買われるとは思っていないのです。 僧二 娘としたらよほど気まぐれな娘でしょうな。もろこしの書にも「晨に呉客を送り、夕べに越客を迎う」というてあります。考えてごらんなされませ。女にはあなたのほかに幾十のお客がある。それらの人のなかにはもっとお金のある、歴々の、立派な紳商や武家もありましょう。それらの人をさしおいて、特別に女があなたに心を寄せるというには、何かあなたにひきつけるところがなくてはならぬはずです。だが、こう申しては失礼だが、あなたはまだ修業も熟さぬ若僧じゃ、お金は無し。いったい僧というものはあまり女に好かれる性質ではありませんよ。え。考えたらいかがです。男というものは女にかけてはうぬぼれの強いものでしてな。気を悪くしてはいけませんよ。まったくあなたは興奮していられますよ。だがこうして話しているうちにも、あの女はほかのお客に抱かれているかもしれない。 唯円 あゝ。それを言われては! (興奮する)私は自分のねうちのないことはよく知っています。また、あの女のからだの汚れていることも知り抜いています。けれどあの女の心がほんとうに私のものであることは疑うことができません。 僧三 そしてあなたの心があの女のものであることもでしょう。(くちびるに笑いを浮かべる)幾千万のおめでたい若者が昔からそのとおりに言いました。そして後悔するときは、もう自分の浮かぶ瀬は無くなっていました。だから君子は初めよりその危うきに近づきません。知者は、自身の身の安全の失われない範囲で女の色香をたのしみます。あなたのは身をもって、その危うさの中に飛び込もうとするのです。なんの武装もなしに。痴と言おうか。稚と申そうか。なにしろ女遊びは火をもてあそぶよりも危険ですよ。 唯円 けれど真剣な事は皆危険なものではありますまいか。お師匠様も真理は身をもって経験にぶつかる時にばかり自分のものになる。信心なども一種の冒険だとも言えるとさえおっしゃいました。 僧三 お恥じなさい、唯円殿。(声を荒くする)あなたは女遊びと信心とを一つにして考えるのですか。 僧二 お師匠様の名によって、おのれの非を掩おうとするのは横着というものです。いったいお師匠様はあなたを買いかぶっていられます。あなたは寵に甘えています。 僧三 素性も知れない遊女におぼれて、仏様への奉公をおろそかにし、そのうえあれこれと小さかしく弁解する。いったいならただおそれ入ってあやまらねばならないところです。私たちの若い時には、このような所業をしたものは寺の汚れとしてすぐに放逐されたものです。 僧二 卑しい遊び女などの言葉をまに受けてたまるものですか。おめでたいといっても限りがある。たいていわかったことではありませんか。それ、下世話によく申す、「後ろに向いて舌をべろり」――このような言葉はあまり上品なものではありませんけれどね。 唯円 (いかる)あなたは一人の少女の心をあまり見くびっていらっしゃいます。また僧だから尊い、遊女だから卑しいというような考え方は概念的ではありませんか。僧の心にでも汚れはあります。遊女の心にでも聖さはあります。純な恋をすることはできます。どのような人かわかりもしないのに、初めから悪いものと疑うのはいけないと思います。一つの事に一生懸命になるときには人間はまじめになるのです。私は最前からあなたがたのお話を聞いていて、あなたがたが女に対してまじめな考えを持っていらっしゃらないのを感じました。そのような考えが女を悪くさせたのではありますまいか。 僧三 あなたは私たちに説教する気ですか。(冷笑する) 唯円 (逆上する)あなたがたは私を愛してくださらないのです。私は初めから冷たい気に触れて、心が堅くなるような気がしました。愛してはくださらないのです。(涙ぐむ)最前あなたが舌をべろりとおっしゃった時にあなたの口もとには卑しい表情が漂いました。あの女が私はよごれているといって涙をこぼして手を合わせて私にすまないといってわびた時には聖い感じがあらわれました。いったいにこのごろあの女は信心深くなりました。私は時々あの女から純な宗教的な感じのひらめきに打たれてありがたいとさえ思うているのです。 僧二 あなたは仏様のかわりにあの女を拝んだらいいでしょう。 唯円 (立ち上がる)私はごめんをこうむります。(行こうとする) 僧三 (さけぶ)勝手になされませ。 僧一 (制する)そんなに荒くなってはいけません。唯円殿まあお待ちなされませ。 唯円 (すわる)私はなさけなくなります。(涙ぐむ) 僧一 あなたは自分のしている事を悪いとはお思いなさらぬのですか。 唯円 皆様のおっしゃるように悪いとは思っていません。 僧一 ではなぜうそを言って外出あそばすのですか。 唯円 ………… 僧一 やはりよくないところがあるのですよ。私はお若いから無理はないとは思いますがね。またきびしくは申しませんがな。少し考えなすったらいいでしょう。ほかの若い弟子たちの風儀にもかかわりますからな。 唯円 うそをついて出たのは重々悪うございました。私がお師匠様に打ち明けなかったのがいけなかったのです。私はいつも心がとがめていました。 僧一 お師匠様に打ち明けるのですって。 唯円 はい。何もかもつつまずに。 僧一 そんな事がよく考えられますね。 僧二 あつかましいといってもほどがあります。 僧三 どんなにご立腹あそばすか知れません。 唯円 でもお師匠様は恋をしてはならないとはおっしゃいませんでしたもの。 僧二 まさか遊女と恋せよとはおっしゃらなかったでしょう。 唯円 けれど遊女だからといって軽蔑してはいけないとおっしゃいました。 僧一 当流では妻帯をいとわないとはいっても、それはおもてむきの結婚をした男と女との事です。男女の野合をゆるすのではありません。ことに遊び女とかくれ遊びをするのが、いいか悪いかぐらいの事はわかりそうなはずと思います。 唯円 かくれ遊びをしたのはまったくいけませんでした。あやまります。もう二度といたしません。許してください。私はこのごろいつも考えているのです。けれどどのような男女の関係がいちばんほんとうなのかわからなくなるのです。あるいは野合のようなのが実はいちばん真実なのではないかと思われることもあります。 僧二 あなたには驚かされます。 唯円 私はあの女といっしょになるつもりです。 僧三 あの遊び女と? 唯円 はい。もう堅く夫婦約束をいたしました。 僧二 よくま顔でそんな事が言えますね。 僧一 あなたはとくと考えましたか。 唯円 はい。夜も眠れないで考えました。 僧二 そしてその結果がこの決心に到着したというのですね。この淫縦な決心に。あきれます。私は浅ましい気がいたします。あなたは何かに憑かれているのではありませんか。 僧三 破戒だ。おそろしい。(間)これはまったく悪魔の誘惑にちがいない。 唯円 (ため息をつく) 僧一 唯円殿、私はしつこくは申しますまい。私はあなたの一すじな気質を知っていますからな。私はきょうまであなたを愛していたつもりじゃ。ただも一度だけ申します。考えてみてください。静かに、心を落ち付けて。あなたは興奮していられる。恋は知恵者の目をも曇らすものだでな。私はお寺のため、法のためを思わずにはいられませぬ。また何百という若いお弟子たちのことを慮らねばなりませぬ。あの迷いやすい羊たちの群れをな。若い時の心はわしも知っている。あなたが女を恋しく思われるのを無理とは思いませぬ。その儀ならば、幸いに当流は妻帯をいとわぬことゆえ、しかるべき所から、良家の処女を申し受けても苦しくない。私に心当たりもあります。しかし素性も知れぬ遊女とはあまり理不尽と申すものです。世間ではこのごろ当流の安心は悪行をいとわぬとて非難の声が高いときです。その時お師匠様御近侍の若僧が遊女をめとったとあっては、法敵の攻撃に乗ずる口実ともなります。若い弟子たちの精進は鈍くなります。日ごろ御発明なあなたです。ここの道理のわからぬことはありますまい。若いあなたがこの決心をひるがえさぬなら、私はあなたにこの寺にいてもらうことはできません。あるいは私が出て行くかどちらかです。だが、たぶん、あなたは私にそのような苦しい思いをさせずに思いとどまってくださるだろう。私はあなたを愛しているつもりじゃ。な。唯円殿、あなたは今は興奮しているからでしょう。思い切ってくださるでしょう。あの女の事はふっつりとあきらめ……おや、あなたは泣いていますね。 僧二 女ではあるまいし。 僧三 いや。思い切られたのでしょう。それでつらいのでしょう。 唯円 私は思い切ることができません。私はもう考え抜いたのです。私は寺の事、法の事、朋輩衆の事も考えないのではありません。けれどあの女を振り捨てる気にはなれません。あの女に罪はないのですもの。振り捨てねばならない理由が見つからないのですもの。私はどうしても恋を悪いものとは思われません。もし悪いものとしたらなぜ涙と感謝とがその感情にともなうのでしょう。あの人を思う私のこころは真実に満ちています。胸の内を愛が輝き流れています。湯のような喜びが全身を浸します。今こそ生きているのだというような気がいたします。あゝ、私たちがどんなに真実に愛しあっているかをあなたがたが知ってくださったら! 私は自分の心からわいて起こる願いを大切にして生きたいと思います。そのねがいが悪いものでない以上は、決してあきらめまいと思います。お師匠様がおっしゃいました。宗教というのは、人間の、人間として起こしてもいい願いを墓場に行くまで、いかなる現実の障碍にあってもあきらめずに持ちつづける、そしてそのねがいを墓場の向こうの国で完成させようとするこころを言うのだって。あの小さい可憐なむすめ、淵の底に陥って泥にまみれてもがいている。もう死ぬのだとあきらめている。そこに救いの綱がおりて来た。それを握れば助かるという。でもそれを初めは拒んだほど不幸に身を任せていたのだ。私はあの女に助けられたいという欲望を起こさせるのにどんなに骨を折ったろう。とうとう綱を握った。もう明るい陸のきわまでひきあげられた。そこに幸福と希望とが目の前に見えて来た。その時急にその綱を断ち切ってしまう――おお。そんな残酷な事が私にできるものか。そんなことをするのが仏様のみ心にかなうものか。そんな事は考えられない。私はできない。(熱に浮かされたようになる)あの女とともに生きたい。どこまでも、いつまでも。 僧二 寺はどうなってもいい。法はどうなってもいいのですか。 僧三 若いお弟子たちはつまずいても。 唯円 あゝ、ではわからなくなる。(身をもだえる) 僧二 あなたは二つの中から選ばなくてはならない。恋かあるいは法か―― 唯円 不調和だ。どうしても不合理だ。恋を捨てなくては、法が立たないというのは無理だ。どちらもできなくては―― 僧三 なんという虫のいい事だろう。 僧二 あなたは女郎と仏様とに兼ね事える気なのですか。私はあきれてしまう。恥を知りなさい。 僧一 (しずかに)そんなに荒々しくしてはいけません。落ちつきなされ。唯円どの。あなたはさぞ苦しいでしょう。けれどその苦しいのは当座の事です。日がたつにつれていつのまにやらあわくなります。人の心というものは一つの対象に向かってでなくては燃えないような狭いものではない。蝶は一つの菫にしか止まらないというわけはない。あなたはこの事を今は特に著しく、重大に感じていられる。さもあることです。けれど私たちのような老人から見れば、ただどこの太郎もそのお花を見つけるという一つの普通の事に過ぎません。 唯円 (いかる)私はそのような考え方をするのを恥じます。 僧一 そんなに興奮しないほうがいいです。私はただ年寄りとして若いあなたに、まあ、そのようなものだということを言ったまでのことですから。もうあなたに向けて議論をいくらしてもしかたがありません。私たちは、私たちの考えを行なうよりほかに道がありません。だが、ただも一度だけ伺います。あなたはどうしてもあの遊女を思い切る事はできませんか。 唯円 どうしてもできません。 僧一 ではしかたがありません。(僧二、三に)もう話してもだめですからあちらに参りましょう。(立ち上がる) 僧二、三立ち上がる。三人の僧行こうとする。 唯円 (僧一の衣を握る)なんとなされます? 僧一 私はあなたと一つお寺にいることはできません。私が出るか、あなたが出るか、お師匠様に決めていただきます。 唯円 それはあまりです。まあお待ちくださいまし。 僧一 私は申すだけのことは申しました。(衣を払う)もうほかにいたし方がございません。 僧三人退場。 唯円 (あとを見送り茫然とする。ため息をつく)私はどうすればいいのだろう。恋はこのようにつらいものとは思わなかった。ほとんど絶え間のないこの心配、そしてたましいは荷を負わされたように重たい気がする。(間)けれどその奥からわいて来る深いよろこび! おののくような、泣きたいような――死にたいようなうれしさ! (狂熱的に)かえでさん、かえでさん、かえでさん。(自分の声に驚いたようにあたりを見回す。考えがちになる)けれど私は間違ってるのだろうか。見えない力に捕えられているのではあるまいか。(仏壇のほうを見る)あのとぼとぼする蝋燭の火が私の心に何かささやくような。あの慈悲深そうなおん顔。さぞ私があわれにみじめに見えることだろう。私は何もわかりません。今していることがいいのやら、悪いのやら、行く先々どうなることやら、思えば私はこれまで人を裁くことがどんなにきびしかったろう。こんなに弱いみじめな自分とも知らないで。さっきはあんなに強くいったけれど。私はなんだか、何もかも許されない人間のような気がする。お慈悲深いほとけ様、(手を合わせる)どうぞ私をゆるしてくださいませ。 ――黒幕――
第二場
親鸞聖人居間 舞台 第三幕、第二場に同じ 人物 親鸞 唯円 僧三人 時 同じ日の夜 僧三人、親鸞と語りいる。 親鸞 私もうすうす気はついていたのだ。けれど黙って見ていたのだよ。このようなことはあまりはたでかれこれ騒ぐのはよくないからな。 僧一 私たちもそう思ってきょうまで見のがして来ました。そして若いお弟子衆の騒ぐのをおさえていました。そのうちには、唯円殿も自分の所業を反省するのであろうと考えましたので、けれど唯円殿の身持ちはだんだん悪くなるばかりのようでございます。 僧二 日に日にわがままがつのります。なんとか言っては外出いたします。そしておそくまで帰りませんのでお勤めなども怠りがちでございます。 僧三 いつもため息をついたり、泣きはらしたような目をして控えの間などに出たり、庫裏で考え込んだりしているものですから、ほかの弟子衆の目にもあまるらしいかして、ずいぶんやかましく申しています。 僧一 唯円殿が木屋町あたりのお茶屋の裏手をうろうろしていたのを見たものがありまして、私のところに告げて来ました。取りみだして、うろたえた、浅ましい姿をしていましたそうです。お銭無しのかくれ遊びなのでお茶屋でもおこっているそうです。私はもう若いお弟子たちをしずめることができなくなりました。 僧二 相手は松の家というお茶屋のかえでとかいうまだ十七の小さい遊女だそうですがね。昨年の秋かららしいのです。善鸞様御上洛の際唯円殿がたびたびひそかに会いに行ったらしいのです。その時知り合ったものと見えます。なにしろ困ったことでございます。 僧三 きょうもお勤めが済んでから晩く帰りました。私たちが本堂に行ったら、仏壇の前にうつぶして泣いていました。顔は青ざめ、目は釣り上がって、ただならぬさまに見えました。私たちはいつまでも、ほっておいては、唯円殿の身のためでないと存じましたので、ねんごろに意見いたしました。 僧一 寺のため、法のためを説いて、くれぐれも諭し聞かせました。けれど耳にはいらぬようでございます。 僧二 自分のしている事をあまり悪いとは思っていないように見えます。自分でそう申しました。 僧三 なんという事でしょう。その遊女と夫婦約束をしたというのです。そして私たちの目の前でその女をほめたてました。 僧一 私はねんごろにものの理と非を説き、法のために、その遊女を思いきるように頼みました。けれどあくまで思い切る気は無いと言い切りました。 僧二 おしまいには法と恋とどちらもできなくてはうそだと言い出しました。もう我れを忘れて狂気のようになっていました。 僧三 私たちの意見を聞きいれぬのみか、反対に私たちに向かって、説教しょうとする勢いでした。 僧二 なにしろ驚きました。あきれて、浅ましくさえなりました。さすが忍耐深い永蓮殿もついにお立腹あそばして、唯円殿と一つお寺にいることはできぬとおっしゃいました。 僧一 私は唯円殿と同じお寺にいる恥辱に堪える事はできません。私が出るか、唯円殿が出るか、どちらかです。私はお師匠様に裁いていただこうと存じてここに参りました。 親鸞 (黙って考えている) 僧二 御老体の永蓮殿が長らく住みなれたこのお寺をお出あそばすことはできません。 僧三 今あなたに去られては若いお弟子たちをだれが取り締まるのでしょう。かつは功績厚きあなたさま―― 僧一 いいえ。私はこのままではもう寺にいても若いお弟子たちを取り締まる力はありません。 僧二 いいえ。あなたに出てもらっては困ります。(親鸞に)お師匠様永蓮殿はあのように申されます。この上はあなたの御裁決を仰ぐほかはございません。 三人の僧親鸞を注視す。 親鸞 私が悪いのだよ。(間)私にはっきりわかって、そして恐れずに言うことができるのはただこれだけだ。ほかの事は私には是非の判断がはっきりとつかないのだ。ちょっとわかっているようでも、深く考えるとわからなくなってしまう。唯円の罪を裁く自信が私にはない。悪いようにも思うけれど無理は無いようにも思われてな。(考え考え語る)このようなことになったにも、私に深い、かくれた責任がある。私はさっきから、お前たちが唯円を非難するのを聞きながら、私の罪を責められるような気がした。だいち男と女の関係についての考えからが、私に断乎たる定見がないのだ。昨年の秋だったがね。唯円が私に恋の事をしきりにきいていた。恋をしてもいいかなどと言ってね。私はいいとも悪いとも言わない、しかしもし恋するならまじめに一すじにやれと言っておいた。私は唯円のさびしそうにしているのを見て、私の青年時代の心持ちから推察して、たいていその心持ちがわかるような気がした。これはとても恋いをせずにはおさまるまいと思われたのでな。そのとき私は恋は罪にからまったものだとは言った。しかしさびしく飢えている唯円の心になんのそれが強く響こう。唯円は自分のあくがれに油をそそがれたような気がしたに相違ない。さびしさはますます強くなって行く、そこへ善鸞が花やかな光景を見せつける。向こうから誘い寄せる美しい女の情熱があらわれる。それにふらふらと身を任せたのだ。一度身を任せればもう行くところまで行かねば止まれるものではない。「一すじにやれ」私の言葉を思い出したにちがいない。おゝ、私はおだてたようなものだ。それに(苦しそうに)善鸞の稚ないものの運命をおそれない軽率な招き、私はよそ事には思われない。私はどうしても唯円の罪を分け負わなくてはならない。その私がどうして裁くことができよう。 僧一 ごもっとものようではありますが、あなたはあまり神経質にお考えあそばします。あなたは恋をすなと禁じられなかったまでのことです。恋をせよ。ことに遊女と隠れ遊びをせよとすすめられたのではありません。唯円殿が自分の都合のいいように勝手に解釈したのです。善鸞様の事について私は何も申し上げることはありません。あなたの関係あそばしたことではなし。唯円殿があなたに内緒で行ったのですもの。 親鸞 そうばかりも考えられなくてな。 僧二 あなたのようにおっしゃれば何もかも皆自分の責めになってしまいます。 親鸞 たいていのことは、よくしらべてみると自分に責めのあるものだよ。「三界に一人の罪人でもあればことごとく自分の責めである」とおっしゃった聖者もある。聖者とは罪の感じの人並みすぐれて深い人のことを言うのだよ。(間)私が悪い、善鸞はことによくない。ほんとに人を傷つけるようにできているふしあわせな生まれつきだ。 僧三 では唯円殿には罪がないように聞こえます。 親鸞 唯円も悪いのだよ。悪いという側から言えば皆わるいのだよ。無理はないという側から言えばだれも無理はないのだよ。みな悪魔のしわざだよ。どのような罪にでも言い分けはあるものだ。どのような罪も皆業といふ悪魔がさせるのだからな。そちらから言えば私たちの責任では無いのだ。けれど言い分けをしてはいけない。自分と他人とをなやますのは皆悪いことだ。唯円もたしかに悪い。周囲の平和を乱している。自分の魂の安息をこわしている。 僧一 それはたしかに悪うございますとも。あれほど恩遇を受けているお師匠様のお心を傷めまつることだけでも容易ならぬ事である。私たちの心配、若い弟子衆の激昂、お寺の平和と威厳をそこのうています。私の考えでは事は唯円殿の一身から生じていると思います。従って唯円殿の心がけ一つでお寺の平和と秩序とは回復できる。またあの人はそうする義務があると思います。しかるに唯円殿は私たちの理を尽くしての意見も用いず、今の身持ちをあらためる気はないと宣言しました。理不尽ではありませんか。あまつさえ私たち長者に向かって非難の口気を示しました。善鸞様御上洛のみぎりにも、私は間違いがあってはならないと思って幾度あの人を戒めたか知れません。私を軽く見ています。私はこれまで多くの弟子衆をあずかりましたが、あの人のようなのは初めてです。 親鸞 (黙然として考えている) 僧二 いや。たしかに上を侮る傲慢な態度でしたよ。あれでは永蓮殿の御立腹は決して無理はないと思います。 僧三 お師匠様の袖にかくれて自分の罪を掩おうとするのは最もいけないと思いました。 親鸞 日ごろおとなしいたちだがな。 僧二 そのおとなしいのがくせものですよ。小さな悪魔はしばしばみめよき容をしていますからな。おそれながら、お師匠様は唯円殿を信じ過ぎていらっしゃいませんでしょうか。(躊躇しつつ)寵愛があまると申しているお弟子たちもございます。 親鸞 しかしだれでもあやまちというものはあるものだからな。 僧一 (不服そうに)しかしそのあやまちは悔い改められなくてはなりません。唯円殿はそのあやまちを悔いないのみか、それを重ねて行く、それも意識的にそうする、それを宣言する――まったく私は堪えられません。私は今日まで長い間お寺のために働いて来ました。幸いに当流は今日の繁盛をきたしました。だがもう法の威力は衰えかけて来ました。嘆かわしいことでございます。私はもうお弟子衆をしずめる威厳を失いました。唯円殿と一つお寺に住むことを私は恥と思います。唯円殿がお寺にいるなら、私はお暇をねがいます。(涙ぐむ) 親鸞 (あわれむように僧一を見る)お前はお寺を出てはいけません。お前がどれほど寺のために働いたか私はよく知っています。お前は私と今日まで辛苦をともにして来てくれた。この後もいつまでも私を助けておくれ。 僧一 私はいつまでも寺にいたいのです。 僧二 では唯円殿はお寺を出るのですね。 僧三 それは無論の事ではありませんか。 親鸞 唯円も寺を出すことはできません。 三人の僧親鸞を見る。 親鸞 お前たちのいうのはつまり唯円は悪人だから寺から出せというのだろう。私は悪人ならなおさら寺から出せないと思うのだ。私やお前たちの愛の守りのなかにいてさえ悪い唯円を、世の中の冷たい人の間に放ったらどうだろう。だんだん悪くなるばかりではないか。世の人を傷つけないだろうか。悪いということは初めから知れているのだよ。どこに悪くない人間がいる。皆悪いのだよ。ほかの事ならともかくも悪いからというのは理由にならない。少なくともこのお寺では。このお寺には悪人ばかりいるはずだ。この寺がほかの寺と違うのはそこではなかったか。仏様のお慈悲は罪人としての私たちの上に雨とふるのだ。みなよく知っているはずじゃ。あまり知りすぎて忘れるのじゃ。な。永蓮。お前とこの寺を初めて興したときの事を覚えているか。 僧一 よく覚えています。 親鸞 私はあのころの事が忘れられない。創立者の喜びで私たちの胸はふるえていたっけね。お前のおかげで道俗の喜捨は集まった。この地を卜したのもお前だった。 僧一 棟上げの日のうれしかったこと。 親鸞 あの時私とお前と仏様の前にひざまずいて五つの綱領を定めたね。その第一は何だった。 僧一 「私たちはあしき人間である」でございました。 親鸞 そのとおりだ。そして第二は? 僧一 「他人を裁かぬ」でございました。 親鸞 その綱領で今度のことも決めてくれ。善いとか悪いとかいうことはなかなか定められるものではない。それは仏様の知恵で初めてわかることだよ。親鸞は善悪の二字総じてもて存知せぬのじゃ。若い唯円が悪ければ仏様がお裁きなさるだろう。 僧一 (沈黙して首をたれる) 僧二 でもあまりの事でございます。 親鸞 裁かずに赦さねばいけないのだ。ちょうどお前が仏様にゆるしていただいているようにな。どのような悪を働きかけられても、それをゆるさねばならない。もし鬼が来てお前の子をお前の目の前でなぶり殺しにしたとしても、その鬼をゆるさねばならぬのじゃ。その鬼を呪えばお前の罪になる。罪の価は死じゃ。いかなる小さな罪を犯しても魂は地獄に堕ちねばならぬ。人に悪を働きかけることの悪いのは、その相手をも多くの場合ともに裁きにあずからせるからじゃ。お前は唯円を呪わなかったろうか。お前の魂は罪から自由であったろうか。ゆるしておやり、ゆるしておやり。 僧三 あの場合私たちが少しも怒らずにいられたろうか。あの傲慢とあのわがままと、そしてあの侮辱を―― 親鸞 無理はないのだよ。だがそれはよくはなかった。どのような場合でも怒るのはいけない。お前たちは確かに少しも怒りを発せずにゆるすべきであったのだ。だがだれにそれができよう。ねがわくばその怒りに身を任すな。火をゆるがせにすればじきに広がる。目をつぶれ。目をつぶれ。向こうの善悪を裁くな。そしてただ「なむあみだぶつ」とのみ言え。 僧二 それはずいぶんつらいことでございます。 親鸞 つらいけれどいちばん尊いことなのだ。またいちばん慧いことなのだ。何事もなむあみだぶつだよ。(手を合わせて見せる) 僧一 やはり私が間違っていました。唯円殿はどのようにあろうとも、私としてはゆるすのがほんとうでした。いくら苦しくても。知らぬ間に我慢の角が出ていました。 親鸞 ゆるしてやっておくれ。 僧一 はい。(涙ぐむ) 僧二 私はもう何も申しません。 僧三 私もゆるします。 親鸞 それを聞いて私は安心した。皆ゆるし合って仲よく暮らすことだよ。人間は皆不幸なのだからな。皆墓場に行くのだからな。あの時ゆるしておけばよかったと後悔するようなことのないようにしておくことだよ。悪魔が悪いのだよ。人間は皆仏の子だ。悪魔は仏の子に隙を見ては呪いの霊を吹きこむからな。それに打ちかつにはゆるしがあるばかりだ。裁きだすと限りがなくなる。祈ることだよ。心の平和が第一じゃ。 僧一 ほんにさようでございます。ののしったあとの心はさびしいものでございますね。私は腹を立てている時より、ゆるした今の心持ちが勝利のような気がいたします。 親鸞 そうとも。そうとも。人間の心にもし浄土のおもかげがあるならば、それはまさしくゆるした時の心の相であろう。 僧二 して唯円殿をばどのように御処置あそばすつもりですか。 親鸞 唯円には私がよく申しきかせます。だがね、お前たちの心が解けた今だから言うのだが、お前たちの考えにも狭いところがあるようだよ。たとえば、かえでとやら申す遊女の運命のことをお前たちは考えてやったかね。ただ卑しい女と言って振り捨ててしまえばいいというわけのものではない。今度の出来事のうちでいちばん不幸な人間はその女だろう。法然様がある時室の宿にお泊まりあそばしたとき、一人の遊女が道をたずねて来たことがある。そのとき法然様はどんなにねんごろに法を説き聞かせなすったろう。その遊女は涙をこぼして喜んで帰った。またお釈迦様の一人のお弟子が遊女に恋慕されたことがあった。その時お釈迦様はその遊女を尼にしてしまわれたという話もある。仏縁というものは不思議なものだ。その遊女のためにも考えてやらねばならない。唯円と遊女との運命のために祈ってやらねばならない。皆してよく祈って考えてみましょう。よいかね。私はここではお前たちの側ばかり言うのだよ。唯円には唯円でよく諭しきかせます。これから、お前たちはここをさがって、唯円を呼んで来てくれないか。 僧一 かしこまりました。すぐに呼んで参りましょう。 僧二 私たちはよく祈って考えてみなくてはなりません。 僧三 では失礼いたします。お心を傷めて相すみませんでした。 親鸞 いいえ。よく聞き分けてくれてうれしく思います。 僧三人退場。 親鸞 (ため息をつく)いとしい弟子たち! みんなそれぞれの悩みを持っているのだ。だれを見てもあわれな気がする。(間)私のかつて通って来た道を、今は唯円が歩んでいる。おぼつかない足どりで。ため息をつきながら。(間)長く夢を見させてやりたい。だがどうせ醒めずにはおかないのだ。(縁さきに出る。重たそうに咲き満ちた桜の花を見る)よう咲いたなあ。(間。遠くのほうで静かに蛙が鳴いている。考える)ほんに昔のむかしのことだ。(追想に沈む) 唯円 (登場。親鸞を見ると、ひざまずいて泣く) 親鸞 (そばに寄り背をたたく)唯円、泣くな。私はたいてい察している。きつくしかりはしない。お前が自分を責めているのを知っているから………… 唯円 私はかくしていました。たびたびお師匠様にうそを申しました。私はどうしましょう。どうでもしてください。どのような罰でも覚悟しています。それに相当しています。 親鸞 私はお前を裁く気はない。お前のために、お前の罪のために、とりなしの祈りを仏様にささげている。 唯円 私を責めてください。鞭打ってください。 親鸞 仏さまはゆるしてくださるだろう。 唯円 すみません、すみません。 親鸞 そのすまぬというこころを、ありがたいという心に、ふかめてくれ。 唯円 永蓮様が、さっき本堂で永蓮様が(新しく涙をこぼす)私の手をお握りあそばして、ゆるしてくれとおっしゃいました。私はたまらなくなりました。私はあのかたをお恨み申していたのですもの。 親鸞 あれは律義な、いい老人じゃ。 唯円 私は空おそろしいような気がいたします。私のために皆様の平和がみだれるのですもの。けれどなんということでしょう。私は永蓮様のお心をやすめることができないのです。永蓮様は涙ぐんで私をじっと見ていらっしゃいました。ひとつの大切なことを私が保証するのを待つために。けれど私は、和解とゆるしを求めるこころで、きつくその手を握り返しただけで、大切なことを言わずにしまいました。……私にはできないのです。 親鸞 それもみなで祈ってきめなくてはならないことだ。まあ心を静かにするがよい。(間。唯円をしみじみ見る)お前はやつれたな。 唯円 眠られぬ夜がつづきました。こころはいつも重荷を負うているようでございます。 親鸞 恋の重荷をな。だが、その重荷も仏さまにおまかせ申さねばならぬのじゃ。その恋の成るとならぬとは、私事ではきまらぬものじゃ。 唯円 この恋のかなわぬことがありましょうか。この私のまごころが。いえいえ、私はそのようなことは考えられませぬ。あめつちがくずれても二人の恋はかわるまいと、私たちは、いくたび、かたく誓ったことでしょう。 親鸞 幾千代かけてかわるまいとな。あすをも知らぬ身をもって!(熱誠こめて)人間は誓うことはできないのだよ。(庭をさして)この満開の桜の花が、夜わのあらしに散らない事をだれが保証することができよう? また仏さまのみゆるしなくば、一ひらの花びらも地に落ちることはないのだ。三界の中に、かつ起こり、かつ滅びる一切の出来事はみな仏様の知ろしめしたもうのだ。恋でもそのとおりじゃ。多くの男女の恋のうちで、ただゆるされた恋のみが成就するのじゃ。そのほかの人々はみな失恋の苦いさかずきをのむのじゃ。 唯円 (おののく)それはあまりにおそろしい。では私の恋はどうなるのでしょう? 親鸞 なるかもしらぬ、ならぬかもしれぬ。先のことは人間にはわからぬのじゃ。 唯円 ならさずにおくものか。いのちにかけても。 親鸞 数知れぬ、恋する人々が昔から、そう誓った。そして運命に向かってか弱いかいなをふるった。そして地に倒された。多くのふしあわせな人々がそのようにして墓場に眠っている。 唯円 たすけてください。 親鸞 私はお前のために祈る。お前の恋のまどかなれかしと。これ以上のことは人間の領分を越えるのだ。お前もただ祈れ。縁あらば二人を結びたまえとな。決して誓ってはならない。それは仏の領土を侵すおそろしい間違いだ。けれど間違いもまた、報いから免れることはできないのだ。 唯円 もし縁が無かったら? 親鸞 結ばれることはできない。 唯円 そのようなことは考えられません。私は堪えられません。不合理な気がいたします。 親鸞 仏様の知恵でそれをよしと見られたら合理的なのだよ。つくられたものは、つくり主の計画のなかに自分の運命を見いださねばならぬのだ。その心をまかすというのだ。帰依というのだ。陶器師は土くれをもって、一の土偶を美しく、一の土偶を醜くつくらないであろうか? 唯円 人間のねがいと運命とは互いに見知らぬ人のように無関係なのでしょうか。いや、それは多くの場合むしろ暴君と犠牲者とのような残酷な関係なのでしょうか。「かくありたし」との希望を、「かく定められている」との運命が蹂躙してしまうのでしょうか。どのような純な、人間らしい、願いでも。 親鸞 そこに祈りがある。願いとさだめとを内面的につなぐものは祈りだよ。祈りは運命を呼びさますのだ。運命を創り出すと言ってもいい。法蔵比丘の超世の祈りは地獄に審判されていた人間の運命を、極楽に決定せられた運命にかえたではないか。「仏様み心ならば二人を結びたまえ」との祈りが、仏の耳に入り、心を動かせばお前たちの運命になるのだ。それを祈りがきかれたというのだ。そこに微妙な祈りの応験があるのだ。 唯円 (飛び上がる)私は祈ります。私は一心こめて祈ります。祈りで運命を呼びさまします。 親鸞 祈りの内には深い実践的の心持ちがある。いや、実行のいちばん深いものが祈祷だよ。恋のために祈るとは、真実に恋をすることにほかならない。お前は今何よりもお前の祈祷を聖いものにしなくてはならない。言いかえればお前の恋を仏のみ心にかなうように浄めなくてはならない。 唯円 あゝ、私は仏のみ心にかなう、聖い恋をしたい。お師匠様どのような恋が聖い恋でございますか。 親鸞 聖い恋とは仏の子にゆるされた恋のことだ。いっさいのものに呪いをおくらない恋のことだ。仏様を初めとし恋人へも、恋人以外の人にも、また自分自身へも。 唯円 (一生懸命に傾聴している。時々不安な表情をする) 親鸞 (厳粛に)仏様に呪いを送らぬのに二つある。一つは誓わぬ事。他の一つは、たとい恋が成らずとも仏様を恨みぬ事。 唯円 つまり仏様にまかせることでございますな。 親鸞 そのとおりだ。恋人以外の人に呪いをおくらぬとは、恋人を愛するがゆえに他人をそこなうようにならないことだ。恋の中にはこのわがままがある。これが最も恋を汚すのだ。今度の騒ぎを起こしたのはこのわがままが種になったのだ。お前は恋のために私をだまし、先輩や朋輩衆に勤めを欠いた。恋ぐらい排外的になりがちなものはないからな。また多くの恋する人は他人を排することによって、二人の間を密接にしょうとするものだ。「あのような人はいやです」と言うと、「あなたは好きです」ということを、ひそかに、けれどいっそうつよく表現することになるのでな。そこに甘味があるからな。だが、罪なことだよ。考えてごらん、他人を呪うことで、自分をたのしくしょうとするのではないか。 唯円 私はあの人の事で胸がいっぱいになって、ほかの人の事を考える余裕がないのです。またそれでなくては、愛しているような気がしません。 親鸞 そこに恋の間違いがあるのだ。愛の働きには無限性がある。愛は百人を愛すれば百分されるような量的なものではない。甲を愛しているから、乙を愛されないというのは真の愛ではない。法蔵比丘の水の中、火の中での幾万劫の御苦労はあまねく、衆生の一人、一人への愛のためだったのだ。聖なる恋は他人を愛することによって深くなるようなものでなくてはならない。会ってくださいと恋人が言って来る。自分も飛んで行きたいほどに会いたい。けれどきょうは朋輩が病気で臥ていて自分が看護してやらねばならない時にはどうするか? 朋輩をほっておいて夢中になって会いに行くのが普通の恋だ。その時その朋輩を看護するために会いたさを忍び、また会おうと言って来た恋人も、ではきょう来ないで看護してあげてくださいと言って、その忍耐と犠牲とによって、自分らの恋はより尊いものになったと思い、あとではさびしさに堪えかねて、泣いて恋人のために祈るようならば聖なる恋と言ってもいい。そのとき会わなかったことは、恋を薄いものにしないで、かえって強い、たしかなものにするだろう。それが祝福というものだ。 唯円 私のして来たことは聖い恋の反対でした。自分の楽しさのために他人を傷つけていました。 親鸞 自分自身に呪いをおくらないとは、自分の魂の安息を乱さないことだ。これが最も悪いことで、そして最も気のつかないことなのだ。お前は眠れないね。お前の心はうろうろして落ち付かないね。お前はやせて、色目も青ざめている。散乱した相じゃ。お前は自分をみじめとは思わないか。(あわれむように唯円を見る) 唯円 (涙を落とす)浅ましいとさえ思います。私は宿無し犬のようにうろうろしています。(自分をあざけるように)きょう、松の家のお内儀に、泥棒猫だとののしられました。私の小指ほどの価もないあの鬼ばばに! 親鸞 そのような言葉使いをお恥じなさい。お前はまったく乱れている。自分を尊敬し、自分の魂の品位を保たなくては聖なる恋ではない。我れとわが身をかきむしるのはこの世ながらの畜生道だ。柔和忍辱の相が自然に備わるべき仏の子が、まるで狂乱の形じゃ。 唯円 おゝ。私はどうしましょう。私は自分の影を見失いそうです。(動乱する) 親鸞 待て、唯円。も一ついちばん本質的なのが残っている。お前はお前の恋人に呪いをおくってはならない。 唯円 私があの女を呪うのですって。いのちにかけても慕うている恋人を? 親鸞 そうだ。よくお聞き。唯円。そこに恋と愛との区別がある。その区別が見えるようになったのは私の苦しい経験からだ。恋の渦巻の中心に立っている今のお前には、恋それ自身の実相が見えないのだ。恋の中には呪いが含まれているのだ。それは恋人の運命を幸福にすることを目的としない、否むしろ、時として恋人を犠牲にする私の感情が含まれているものだ。その感情は憎みと背を合わせているきわどいものだ。恋人どうしは互いに呪いの息をかけ合いながら、互いに祝していると思っていることがあるのだ。恋人を殺すものもあるのだ。無理に死を強うるものさえある。それを皆愛の名によってするのだ。愛は相手の運命を興味とする。恋は相手の運命をしあわせにするとは限らない。かえではお前をしあわせにしたか。お前は乱れて苦しんでいるな。そしてお前はかえでをしあわせにしたか? 唯円 (ある光景を思い浮かべる)おゝ。あわれなかえでさん! 親鸞 恋が互いの運命を傷つけないことはまれなのだ。恋が罪になるのはそのためだ。聖なる恋は恋人を隣人として愛せねばならない。慈悲で哀れまねばならない。仏様が衆生を見たもうような目で恋人に対せねばならない。自分のものと思わずに、一人の仏の子として、赤の他人として―― 唯円 (叫ぶ)できません。とても私にはできません。 親鸞 そうだ。できないのだ。けれどしなくてはならないのだ! 唯円 (眩暈を感ずる)あゝ、(額に手をあてる)互いに傷つけ合いながらも、慕わずにはいられないとは! 親鸞 それが人間の恋なのだ。 唯円 (独白のごとく)あゝ、いったいどうすればいいのだ。 親鸞 (しずかに)南無阿弥陀仏だよ。(目をつむる)やはり祈るほかはないのだよ、おゝ仏さま、私があの女を傷つけませんように。あの女を愛するがゆえにとて、ほかの人々をそこないませんように。わたし自らを乱しませんように―― 唯円 (手を合わせる)縁あらば二人を結びたまえ。 親鸞 おゝ。そのように祈ってくれ。そして心をつくしてその祈りを践み行なおうと心がけよ。できるだけ――あとは仏さまが助けてくださるだろう。 唯円 (沈黙、だんだん感動高まり、ついにすすり泣く) 親鸞 お慈悲深い仏様に何事もまかせたてまつれ。何もかも知っていらっしゃるのだよ。お前のこころのせつなさも。悲しさもな。(祈る)おゝ、仏さま、まどかなおわりを、あわれなものの恋のために! ――幕――
第六幕
場所 善法院御坊 時 第五幕より十五年後 秋 人物 親鸞 九十歳 善鸞(慈信房) 四十七歳 唯円 四十歳 勝信(かえで) 三十一歳 利根(唯円の娘) 九歳 須磨(同) 七歳 専信(弟子) 顕智(弟子) 橘基員(武家) 家来 二人 侍医 輿丁 数人 僧 数人
第一場
善法院境内の庭。 正面および右側に塀。右側の塀の端に通用門。塀の向こうに寺の建物見ゆ。庭には泉水あり。そのほとりに静かな木立ち、その陰に園亭あり。道は第一の門(見えず)を越えて、境内に入り庭を経て、通用門に入るこころ。朝。 お利根とお須磨と園亭で手まりをついている。 お利根 (手まりを拾う)今度はあたしよ。須磨さま。(まりをつく) 二人 (歌う) 手まりと手まりとゆき合うて、 一つの手まりがいうことにゃ、 姉さん、姉さん、奉公しょう。 ………………………… ちゅんちゅん雀が鳴いている。 奥様奥様おひなれや。 ………………………… お寺の門で日が暮れて、 西へ向いても宿がなし、 東へ向いても宿がなし………… お利根 (まりを落とす)あら。 お須磨 そらまりがそれた。(まりを拾おうとする) お利根 (すばやくまりを拾いあげてすぐつきかける) お須磨 あたしよ。ねえさま。 お利根 お待ちよ。も一度あたしよ。今のはかんにんよ。 お須磨 いやよ。私がつくのよ。 お利根 お待ちと言ったら。 お須磨 いや。いやですよう。(涙ぐむ) お利根 (かまわずつきかける)茶の木の下に宿があって…… お須磨 (まりをとろうとする)あたしだわ。あたしだわ。 お利根 (くるりと横を向く)一ぱいあがれや長六さん。二はいあがれや長六さん。三杯目にゃ…… お須磨 (泣きだす)ねえさま。ひどいよ。 お利根 (おどろく)さあ。あげましょう。これ。(まりを持たせようとする) お須磨 (振り放す)いやだよ。いやだよ。(声を高くして泣く) 勝信 (登場。髪を上品な切り髪にしている。門を出ると二人の争うているのを見て馳せ寄る)どうしたのだえ。須磨ちゃん。 お須磨 (泣き声にて)ねえさん。ひどいよ。ひどいよ。 お利根 だからあげようと言ってるのだわ。 お須磨 あたしの番だのに、自分ばかりつくのよ。 お利根 かんにんだったのよ。 お須磨 うそだよ。うそだよ。 勝信 後生だから。きょうばかりはけんかなどしておくれでない。 お利根 かあ様。泣いてるの。 お須磨 かあさま。かあさま。(すがりつく) 勝信 お師匠様がたいへんお悪いのだよ。それでみんな心配しているのだよ……ほんとに何もしらないで。(涙ぐむ)空飛ぶ鳥でさえ羽音をひそめて憂鬱いでいるような気がするのに。 お利根 かあさま。もう泣かないで。あたしどうしましょう。(お須磨に)須磨さま。ごめんなさい。 お須磨 もうけんかしないわ。かあさま。 勝信 (二人の子を抱く)仲よくするのですよ。さ、きょうはもう内へはいって、静かにしてお部屋でお遊び。 お須磨 かあさまは? 勝信 私は少し用があります。あとで行くからね。 お利根 そうお。 二人の少女門より退場。 勝信 空ゆく雲もかなしそうな気がする。大きな不幸がやがて地上におとずれる前ぶれのように。(門の内を見る)お輿が来るようだ。お医者さまのお帰りなのだろう。(門のほうに行く) 輿一丁門より出る。 唯円 (輿の後ろに従うて登場。門の出口に立つ)気をつけてお越しあそばしませ。 勝信、門口に立ち腰をかがめて見送る、輿の中より何か挨拶の声聞こゆ。輿去る。 唯円 (しおれて沈黙したまま立っている) 勝信 お医者はなんとおっしゃいますか。 唯円 (絶望したように)あゝ。人類はその最大なものを失うのか。 勝信 では、やはりもつまいと…… 唯円 (じっとしていられぬように庭をあるく)橘様の御殿医のお診察も侍医のお診察も同じことなのだ。寿命のお尽きとあきらめられよとのお言葉なのだ。 勝信 なんとかしてとりかえすてだてはないのでしょうか。 唯円 それどころではない。きょうかあすかも知れないのだそうだ。 勝信 え。そんなことはありますまい。(自分の考えを信じようとするように努力しつつ)お話などおきげんよくあそばすのですもの。 唯円 それが前ぶれなのだそうだ。消えかかる灯火がちょっと明るくなるようにな。もうお脈搏がおりおりとぎれるのだそうだ。いつ落ち入りあそばすかも知れない。無病で高齢のかたの御最後は皆そのようなふうのものだから、たのみにはならないとおっしゃった。もうあきらめて、ひたすら、思い残しのない御臨終を…… 勝信 おゝ、私に代わられるものなら! 唯円 私もいく度そう思ったろう。だがそれもかいないことだ。お師匠様はもうとくに御覚悟あそばしていらっしゃる。もう仏さまに召されるのだとおっしゃってな。 勝信 ほんにこのごろはお話もことに細々として来たようでございます。そして御臨終の事が気になっていらっしゃるようでございますよ。きのうも私にあの上品往生の発願文を読んでくれとおっしゃいましてね。 唯円 この上はせめてやすらかな御臨終をいのりたてまつるほかはあるまい。(考える) 勝信 唯円様。私はいつも気になっているのでございますがね。 唯円 善鸞様のことだろう。 勝信 えゝ。(涙ぐむ)御臨終には必ずお目におかかりあそばさなくては。呪いを解かずにこの世を去られては。 唯円 その事を私も心配しているのだよ。御不例の初めのころ、今度はどうも御回復のほどもおぼつかなく思われたので、弟子衆が相談してね。知応殿が善鸞殿をお召しあそばすようにお勧め申したのだがね。あの子憎しとて隔てているのでもないものを。由ない事を言い出して、私を苦しめてくれなとおっしゃって、御不興げに見受けたので、それからはだれもそのことを言い出すものがないのだよ。 勝信 でも今度ばかりはぜひ御面会あそばさなくては。もう二度と……私はたまりません。あとで善鸞様がどのようにお嘆きあそばすでしょう。 唯円 急ぎ御上洛あそばすよう稲田へ使いを立てておいた。もう御到着あそばすはずになっている。もう重なお弟子たちには皆通知してあるのだ。 勝信 早く申し上げなくては。もしかのことがあったらとり返しがつきません。あなたのほかに申しあげるかたはありますまい。 唯円 けさのうちに私が誠心こめて願ってみよう。お師匠様もお心ではお気にかかりあそばしていらっしゃるのにちがいないのだから。 勝信 さようでございますとも。私もいっしょにお願い申しましょう。(向こうを見る)おやお輿が参りました。 唯円 お見舞いのかただろう。お出迎え申さなくては。 唯円、勝信門口に立ち迎える。 家来二人 (輿に従うて登場。輿止まる)主人橘基員。お見舞いのため参上つかまつりました。 唯円 よくこそお越しくだされました。昨日は御殿医様をわざわざおつかわしくだされまして、まことにありがとうございました。どうぞお通りくださいませ。御案内申し上げます。 唯円、勝信先に立ちて退場。侍二人輿に付き添いて門に入る。 ――黒幕――
第二場
親鸞聖人病室。 正面に仏壇。寝床の後ろには、古雅な山水の絵の描かれた屏風が立て回してある。枕もとに脇息と小さな机。机の上に経書、絵本など二、三冊置いてある。薬壺、湯飲み等を載せた盆。その上に白絹の布が掩うてある。すべて品よき装飾。襖の模様もしっとりとした花や鳥など。回り縁にて隣の宿直の部屋に通ず。庭には秋草。短冊、色紙等のはりまぜの二枚屏風の陰に、薬を煎じる土瓶をかけた火鉢。金だらい、水びん等あり。 親鸞 (鶴のごとくやせている。白い、厚い寝巻を着ている。やや身を起こして脇息にもたれる)そのさきをもっと読んでおくれ。 勝信 (手紙を持ちて)これを読むと法然聖人様がどのように、母様思いであったかがわかりますのね。(手紙を読みつづける)けさまでははなやかに、いろかもふかくみだれ髪の、まゆずみにおい、たぐいなきその人も、ゆうべには野べのけむりとたちまちに、よりそう人も遠ざかり、ひとりかばねをさらす。ただただ世のなかは、あさがおのはかなきわざにたわぶれて、きょうやあすやとうちくれて、何か菩提のたねならむ。ただ一すじに後の世のいとなみあるべし。この世はゆめのうち、とてもかくてもすぎゆけば、うきもつらきもむなしく、ただまぼろしの身のうえに、こぞやことし、きのうやきょうも、うつりかわれる世のなかはただ一すいのゆめのうちには、よろこびさかえもあり、かなしび、あめ山なすこともあれども、さめぬればあとかたちもなきもの。あら。なにともなのうきよや。あら、いたずらごとどもや。あさましや…… 親鸞 わしのように年が寄るとね、そのような気持ちがしみじみしてくるものだよ。九十年のながい間にわしのして来たさまざまのことがほんに夢のような気がする。花鳥風月の遊びも、雪の野路の巡礼も、恋のなやみやうれしさも、みんな遠くにうたかたのように消えてしまった。ほんとに「うきもつらきもむなしく」という気がするね。何もかもすぎてゆく。(独白のごとく)そうだ、すぎてしまったのだ。わしの人生は。さびしい墓場がわしを待っている。(勝信何か言いかけてやめる)さきを読んでおくれ。 勝信 (読みつづける)よもかりのよ。身もかりの身、すこしのあいだにむやくの事を思い、つみをつくり、りんね、もうしゅうの世に、二たびかえりたもうまじく候。さきに申し候ごとく、さまざまに品こそかはれ、おしい、ほしい、いとおしい、かなしいと思うが、みなわがこころに候。こころというものはさらさらたいなきものにて候、それを思いつづくるほどに、しゅうしんとなりて、りんねする事にて候ほどに、ふっと心はなきものよ。心が鬼ともなりて身をせむるなれば心こそあだのかたきよ。凡夫なればはらもたち、いつくしきものが、おしい、ほしいとおもう一念がおこるとも、二念をつがず、水にえをかくごとく、あらあさましやと、はらりと思い切り、なに心なくむねん、むそうにしておわし候わば、それこそまことの御心にて候え………… 親鸞 そのあたりは清い、涼しい法然様のおこころがよくあらわれている。(昔をおもうように)それは清らかなうつくしいお気質だったからね。わたしなどとちがって。その手紙は老体のお母上が御病気をなすって、いろいろと悲しいおたよりをなすった御返事なのだよ。 勝信 それでなぐさめたり、はげましたりあそばすのですね。ほんとに女のように、こまごまとしたお優しいお手紙ですのね。(よみつづける)まことのこころざしある人は、人のあしきことあらば、わが身のうえに受けてかなしみ、人のよきことあらば、わが身に受けてよろこび、なに事もわれ人へだてなく、あしかれとおもわず、人をそしらず、ねたまず、にくげ言わず、たよりなき人を、言葉のひとつもやわらかに、おとなしやかにひきたてて、少しのものもあいあいにほどこして、人をたすくるこころこそ、大慈大悲のきょうようにて候え。(涙ぐむ)ほんとに涙がこぼれるような気がします。なんてお優しいおこころでございましょう。(つづけてよむ)いかなるちしき上人、そのかみ、しゃか仏ほどのにょらいも、五体に身を受けたまえば、やまいのくるしみ、しょうろうびょうしとて、なくてかなわぬ物にて候。りんじゅうなどのことなどもことごとくしゃべつはなきものにて候。つねづね御こころがけさえふかく候わば、しなばしぬるまで、いきは生きるまでと打ちまかせてあるがよろしく候。せんねんまんねんいきても、一たびは老いたるも、若きも、しなでかなわぬものにて候。会者定離は人間の習いなれば、たれになごりか惜しき……(親鸞を見る)わたしもうよしましょうかしら。なんだかせつなくなって…… 親鸞 (緊張している)さきをよんでくれ。終わりのところに臨終の心得がかいてあったはずじゃ。 勝信 (よみつづける)またこの世にいますこしすみたき、あらかなしや、いま死ぬかよなどとは、かまいてかまいておぼしめすな。(声をふるわす)死ぬることちかづくならば、かならず錯乱しては、だんまつの苦しみとて、五体はなればなれになり候えば、いかほど苦がのうてはかなわぬものなり。なんとくるしく候とも、そのくるしびに打ちまかせて、しなばしぬるまでと、なに心もなくゆうゆうとおぼしめしたもうべし。くれぐれこの御心もち、忘れたもうまじく候なり。源空。母上様。(手紙を巻き返しつつ)終わりのほうを読むのはあまりに恐ろしゅうございます。 親鸞 その母上へのお手紙は、そのまま私へおおせきけられるお師匠様のはげましのおことばのような気がする。もう時はせまって来た。わしが長いあいだ待っていた、けれどまたおそれていた時が。わしははげましの必要を感じる。わしはおそろしい不安と、それに打ちかとうとする心とのたたかいを感じている。 勝信 (不安をかくす)そのようなことがあっていいものですか。このようにお元気なのですもの。皆が御回復をお祈り申しているのですもの……もうお薬ができたでしょう。お召しあがりなされませ。(宿直の部屋に立とうとする) 親鸞 お薬はもうよろしい。ここにいてくれ。わしはもうかくごしているのじゃ。わしはお前がそのようなことを言って、なぐさめてくれねばならぬほど弱そうに見えるかな。 勝信 ………… 親鸞 もうそのようなことは言うてくれるな。私がこの不安に――さけがたい恐怖に打ちかつことができるように励ましてくれ。私は勇気をあつめなくてはならない。そして美しい、取りみださぬ臨終をするために心をととのえなくてはならない。 勝信 (泣く) 親鸞 (しずかに)唯円を呼んで来てくれ。 勝信 はい。(退場する) 親鸞 (しばらく黙然として目を閉じている。やがて目をひらき、何ものかの影に脅かさるるごとくあたりを見まわす)どこからともなく、わしの魂を掩うてくる、この寒い陰影は何ものであろう。薄くなりゆく日輪の光、さびしく誘うような風のこえ、そしてゆうべのあのゆめ見……近づいて来たようだ。(目をつぶる)だれも避けることのできない運命なのだ。何十年のながい間私はその日を待っていなかったろうか。長い、絶え間の無い罪となやみの生涯の終わりに来るあの永遠の静かな安息を。むなしく待つことの多いこの世の希望のあざむきのなかで、これのみはたしかな、必ず来るものとして、わたしは待っていた。それを考えるになれて親しさができていた。わしはしばしば思わなかったろうか。「わしのこの苦しみと忍耐とは限りなきものではない。必ず終わる日が来る」と。そしてそう思うことは、私の唯一のなぐさめではなかったろうか? ついにその日が来た。それだのにこの不安はどうしたものだろう。この打ちかちがたき不安は! 死は私にとって損失ではない。私は長い間墓場の向こうの完全と調和とをいのちとして生きて来たのだ。私はそれを信じているのだ。それだのに私の生命のなかにはまだ死を欲せぬ何ものかが残っている。運命に反抗するこころが。おゝ私はまだ生きていたいのか? この病みほうけたわしが。九十歳になる老人が――この世になんの希望が残っている。なんの享楽が? 煩悩の力の執拗なことはどうだろう。今さらながら恐ろしい。私は一生の間運命を素直に受け取って、それを愛して来た。それに事えて来た。運命にそむく心と戦って来た。そうだ。わしは墓場に行くまでこのたたかいをつづけねばならない。もう、ながいことではない。もうじきだ。休戦のラッパが鳴るのは。その時私は審判の前に立つのだ。一生を悪と戦った、勇ましい戦士として。霊の軍勢の虚空を遍満するそのなかに。そして冠が私の頭に載せられる。仏様の前にひざまずいて私がそれをうける。(だんだん顔が輝いて来る)その日から私はあの尊い聖衆のなかの一人に加えられるのだ。なんという平和であろう。なんという光栄であろう。朝夕、仏様をほめる歌をうたって暮らすのだ。その時はもう私の心に罪の影さえおとずれない。そして、(涙をこぼす)この世に苦しんでいる無類のふしあわせな人たちを摂取することができるのだ!(間)おゝ、不安よ、去れ。(黙祷する) 唯円と勝信と登場。 唯円 (手をつく、重々しく)御気分はいかがでございますか。 親鸞 もう近づいたようだ。わしは兆を感じる。 唯円 (何かいおうとする) 親鸞 (さえぎる)いや。もう避くべからざるものを避けようとすまい。運命を受け取ろう。お互いに大切なことのみ言おう。 唯円 ………… 親鸞 わしはもう覚悟している。 唯円 (苦しく緊張する)この上は安らかな御臨終を………… 勝信 (泣く) 親鸞、唯円沈黙。勝信の泣き声のみ聞こえる。やがてその声もやみ、一座森とする。 親鸞 仏様がお召しになるのだよ。この世の御用がつきたのだよ。この年寄って病み耄けているわしを、この上この苦しい世のなかにながらえさせるのをふびんとおぼしめしてくださるのであろう。わしももうずいぶん長く生きたからな。九十年――といえば人間に許されるまれな高齢だ。もうこの世に暇をつげてもいい時だ。(考える) 唯円 お師匠様の百年の御寿命をいのりたてまつるのでございますけれど………… 親鸞 それが正直な人間の情だよ。恥ずかしながらこのわしも、この期に及んでもまだ死にともないこころが残っている、それが迷いとはよく知っているのだがな。浅ましいことじゃ。わしは一生の間煩悩の林に迷惑し、愛欲の海に浮沈しながらきょうまで来た。絶えず仏様の御名を呼びながら、業の催しと戦って来た。そして墓場にゆくまでそのたたかいをつづけねばならないのだ。唯円、この大切な時に私のために祈ってくれ。わしはそれを必要とする。わしは心をたしかに保たなくてはならない。一生に一度の一大事をできるだけ、恥を少なくして過ごすためにな。わしはそのために祈っている。空澄み渡る月のように清らかな心で死にたい。 唯円 仏様にお任せあそばしませ。私はあなたのために心をこめて祈っています。(力を入れて)めでたく往生の本懐をお遂げあそばすよう。 親鸞 死はわしの長い間のねがいだったのだ。ただ一つの希望だったのだ。墓場の向こうに私を待つ祝福をわしはどんなに夢みたことだろう。いまその夢が実となるべき時が来た。めでたい時が。(間)昨夜、私は祈りながら眠りに落ちた。眠りはひとつのありがたい夢で祝された。この世ならぬ、荘厳と美とに輝く浄土のおもかげがわしの前にひらかれた。わしの魂は不思議な幸福で満たされた。地上の限りを越えたその幸福をわしはなんと言って表わしていいかわからない。あの阿弥陀経のなかに「諸上善人倶会一処」というところがあるね。わしは多くの聖衆の群れにかこまれた。みな美しい冠をかぶっていらしたよ。わしはもったいなくて頭が下がった。わしもきょうからその列の中に加えられるのだと聞いたとき、わしはうれしさに涙がこぼれた。と見るとわしの頭にも同じような美しい冠が載せてあるのだ。その時虚空はるかに微妙なる音楽がきこえ始めた。聖衆の群れはそれに合わせて仏様を讃める歌をうたわれた。すると天から花が降って来て、あたりは浄い香りに満ちた。わしは金砂をまいた地の上に散りしく花を見入りつつこれこそあの「曼陀羅華」というのであろうと思った。その時私は目がさめたのだ。 唯円 なんという尊い夢でございましょう。 勝信 美しく輝く冠ほど聖人様にふさわしいものはございますまい。 親鸞 さめてから後も私の心はその幸福のなごりでおどっていた。けれどそのときからわしに一つの兆があきらかに感じられはじめた。わしが死ぬということが……虫の知らせだよ……(顔色が悪くなる) 勝信 お臥っていらっしゃいませ。(親鸞を助けて寝床に臥させる)お苦しゅうございますか。 親鸞 うむ水を飲ませておくれ。 勝信 (湯飲みに水をついで親鸞に飲ませる) 親鸞 肉体的苦痛というものはだいぶ人間を不安にするものだ。地上のいちばん大きな直接な害悪だ。多くの人間はこの害悪を避けるためには、魂の安否を忘れてしまうほどだ。人間に与えられた刑罰だ。わしも断末魔の苦しみが気にかかる。わしはその苦しみに打ちかたねばならない。この最後の重荷を耐え忍ばねばならない。(額に玉のような汗をかく)何もかもじきにすむのだ。そのあとには湖水のような安息が、わしの魂を待っているのだ。 唯円 そしてひかり輝く光栄が? 親鸞 死はすべてのものを浄めてくれる。わしがこの世にいる間に結んだ恨みも、つくったあやまちもみんな、ひとつのかなしい、とむらいのここちで和らげられてゆるされるであろう。墓場に生えしげる草はきたない記憶を埋めてしまうであろう。わしのおかした悪は忘れられて、人は皆わしを善人であったと言うであろう。わしもすべての呪いを解いてこの世を去りたい。みなわしに親切なよい人であったとおもい、そのしあわせを祈りつつ、さようならを告げたい。 唯円 (勝信と顔を見合わす)お師匠様、あなたは善鸞様をおゆるしあそばしますか。 親鸞 わしはゆるしています。 唯円 何とぞ善鸞様をお召しくださいませ。 親鸞 ………… 勝信 (泣く)あなたの口ずからゆるすと言ってあげてください。 唯円 私の一生の願いでございます。お弟子衆も皆それを願っていないものはありません。御臨終にはぜひとも御面会あそばさなくては、あとで善鸞様がどのようにお嘆きあそばすでしょう。私は十五年前にこの事を一度申し上げてから、きょうまで黙って来ました。その間一日もこの事を思わぬ日とてはございませんでした。絶えず祈っていました。今度ばかりは私の願いをかなえてください。あとに悔いの残らぬよう、すべてと和らいでくださいませ。それはあなたのただ今おっしゃったお言葉でございます。仏様のお心にかなうことでございます。末期の水は必ず善鸞様がおくみあそばさなくてはなりません。この期に及んで私はもう何も申し上げることはございません。(涙をこぼす)ただ安らかな御最後を。すべてと和らいだ平和な御臨終を………… 親鸞 (涙ぐむ)みなの勧めに従いましょう。 唯円 おうれしゅう存じます。(手をつきうつむく、畳の上に涙が落ちる)先日おたより申し上げておきました。きょうあたり御到着あそばすはずでございます。 親鸞 善鸞はこのごろはどうして暮らしていますか。 唯円 稲田で息災でお暮らしあそばされます。 親鸞 仏様を信じていますか? 唯円 はい。(不安をかくす)たいそうお静かにお暮らしあそばしていらっしゃるようでございます。 勝信 善鸞様がどんなに、お喜びあそばすでしょう………けれどあゝ、それがすぐ長いお別れになるとは! (泣く) 親鸞 もう泣いてくれるな。(間)ただ祈ってくれ。わしはだいぶ心が落ちついて来た。魂を平らかにもちたい。静かにしておくれ。平和のなかに長い眠りにつきたいから。(勝信涙をおさえる。しずかになる)一生を仏様にささげてはたらいたものの良心の安けさがわしを訪れて来るようだ。あの世へのそこはかとなき思慕のここちにたましいは涙ぐみつつ、挙げられてゆくような気がする。しめやかな輝き、濡れたこころもちが恵みのようにわしをつつむ……唯円。もっとそば近く寄っておくれ。お前の親しい忠実な顔がもっとよく見えるように。 唯円 (ひざをすすめる)あなたのたましいに祝福を。 親鸞 おゝ、お前のたましいに祝福を。お前は一生の間よく私に仕えてくれた……私の枕もとの数珠を取ってくれ。(数珠を受け取り手に持ちて)この桐の念珠はわしの形見にお前にあげる。これはわしが法然様からいただいたのだよ。(唯円数珠を受け取る)わしが常々放さず持っていたのだ。貫ぬきとめたこの数珠には三世の諸仏の御守りがこもっている。わしがなくなった後この数珠を見てはわしを思い出しておくれ。わしは浄土でお前のために祈っているのだから。(だんだん声の調子がちがってくる)寺の後事はお前に託したぞ。仏様に祈りつつ、すべての事を皆と和らぎ、はかって定めてくれ。この世には無数の不幸な衆生がいる。その人たちを愛してくれ。仏様のみ栄えがあらわれるように。(息をつく) 唯円 あとの事はお案じなさいませんように。及ばずながら私が皆様と力をあわせて、法の隆盛をはかります。仏さまが助けてくださいましょう。あなたの丹精しておまきなされた法の種子は、すでに至るところによき芽ばえを見せています。仏様のみ名はあなたの死によってますます讃められるのでございましょう。 親鸞 仏さまのみ名をほめたてまつれ……(次第に夢幻的になる)わしの心は次第に静かになってゆく。遠い、なつかしい気がする……仏さまが悲引なさるのだ……外は涼しい風が吹いているのだね。 唯円 (ぞっとする)はい。いいえ、あかあかと入陽がさしています。 親鸞 近づいて来るようだ。兆が……座敷はきれいに掃除してあるね。 唯円 塵一つ落ちてはおりませぬ。 親鸞 わしのからだは清潔だね。 勝信 昨日、御沐浴あそばされました。 親鸞 弟子たちを呼んでおくれ。皆呼んでおくれ。わしが暇乞いするために。最後の祝福をあたえてやるために。 勝信 かしこまりました。(立ち上がる) 唯円 (深き動揺を制する。小声で勝信に)お医者様を。 勝信いそぎ退場。 唯円 (親鸞の手を握る)お師匠様。お気をたしかにお持ちあそばしませ。 親鸞 (うなずく)お灯明を。仏壇にお灯明を。南無阿弥陀仏。
第三場
舞台、第一場に同じ。夜。淡白い空に黒い輪郭を画している寺の屋根。その上方に虹のような輪をかぶった黄色な月がかかっている。通用門の両側には提灯を持った僧二人立ちいる。舞台月光にてほの暗し。 僧一 あの輪のかかったお月様を御覧なされませ。 僧二 不思議な、色をしていますね。 僧一 黄色くて、そして光芒が少しもありませんね。 僧二 あゝ、お師匠様もいよいよおかくれあそばすのですね。聖人がなくなられる時には天に凶徴があらわれると録してあります。 僧一 きのうあたり烏が本堂の屋根の上で世にも悲しそうな声をして鳴いていましたよ。 僧二 禽獣草木に至るまで聖者のおかくれあそばすのを嘆き惜しむのでございますね。 僧一 もう重なお弟子衆はみなおいでなされましたね。 僧二 まだお見えにならないのは二、三人だけでございます。 僧一 重なお弟子衆は皆聖人様のお枕べに集まっていられます。 僧二 夕方から急にお模様がお変わりあそばしましたようでございます。御臨終もほど近くと思われます……あゝお輿が来ました。 輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。 輿丁 遠江の専信房様の御到着でございます。 僧一 皆様のお待ちかねでございます。すぐに奥院へお越しなされませ。 輿、門に入り退場。 勝信 (不安のおももちにて急ぎ門より登場)慈信房様はまだ御到着あそばしませぬか。 僧一 いまだお見えなさいませぬ。お奥の御模様は? 勝信 (第一の門のほうを注意しつつ)もう御臨終でございます。(空を仰ぐ)おゝ、変な月の色。 僧二 もう引き潮時になります……あ、輿が来ました。 輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。勝信注意を集める。 輿丁 高田の顕智房様の御到着でございます。 僧一 急ぎ奥院へ。もはや御臨終でございます。 輿、門に入り、退場。 勝信 善鸞様のおそいこと。(庭をうろうろする) 僧一 もはやお越しあそばさなくてはお間に合いませぬが。 僧二 (不安なる沈黙)灯が。提灯でございます……輿が来ました。 勝信注意を緊張する。輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。 勝信 (輿のほうに馳せ寄る)善鸞様ではございませぬか。 輿丁 はい。稲田の慈信房様で。 善鸞 (輿より飛びおりる) 勝信 善鸞様。 善鸞 おゝ、勝信殿。父は、父は? 勝信 もはや御臨終でございますぞ。 善鸞 おゝ。(よろめく) 勝信 御勘気はとけました。あなたをお待ちかねでございます。 善鸞 父は会ってやると申しますか。 勝信 ゆるすと言って死にたいとおっしゃいます。 善鸞 (奥へ駆け込もうとする) 勝信 お待ちなされませ。ただ一つ。あなたは仏様をお信じなされますか。 善鸞 わたしは何もわかりません。 勝信 お父上はたいそうそれを気にしていられます。きっとあなたにそれをおたずねなされます。 善鸞 わたしは何も信じられないのです。 勝信 信じるといってください。信じると。お父上のお心が安まるために。 善鸞 でもわたしは………… 勝信 この世を去る人の心に平和をあたえてあげてください。 善鸞 (不安そうに)えゝ。 僧三 (いそぎ門より登場)善鸞様はまだお見えなさいませぬか。 善鸞 ただ今到着つかまつりました。 僧三 一刻も早く奥院へ。皆様お待ちかねでございます。もはや御最後も迫りました。 退場。 善鸞、勝信門に馳せ入る。輿それにつづく。僧二人も退場。舞台一瞬間空虚。黒き鳥四、五羽庭の木立ちより飛びいで、月の前をかすめて怪しげなる声にて鳴きつつ、屋根の上を飛ぶ。舞台回る。
第四場
舞台、第二場に同じ。夜。仏壇にあかあかと灯明がともっている。行灯の灯影に弟子衆、帰依の武家、商人らつつしみ並びいる。親鸞の寝床のそばに医者侍して脈をとりいる。唯円は枕もとに近く侍して看護しつつおり。不安の予感一座を支配している。 親鸞 (目をつぶり、小さき声にて語る。あたり静かなるためその声は明らかに聞き取らる、言葉は時々夢幻的となり、また独白のごとくになる)だから皆よくおぼえておおき、臨終の美しいということも救いの証ではないのだよ。わしのように、こうして柔らかな寝床の上で、ねんごろな看護を受けて、愛する弟子たちにかこまれて、安らかに死ぬことができるのは、恵まれているのだよ。わしは身にあまる、もったいない気がする。わしはそれに相当しているとは思われないのだ。だが、世にはさまざまな死に方をする人があることを忘れてはならないよ。刀で斬られて死ぬ人もある。火の難、水の難で死ぬ人もある。飢えと凍えで路傍にゆき倒れになるものもある。また思いも設けぬ偶然の出来事で、途方もない、ほとんど信じられぬような死に方をするものもある。やがて愛らしい花嫁となる処女が、祝言の前晩に頓死するのもある、母親の長い嘆きとなるのも知らずに。麻痺した心の臓のところに、縫いかけた晴れ着をしっかり抱き締めたりしてな。あるいはつい先刻まで快活に冗談など言いながら働いていた大工が、踏みはずして屋根から落ちて死ぬのもある。その突然で偶然なことは涙をこぼす暇さえも与えないように残酷なのがある。皮肉な感じさえ起こさせるのがある。あの観経にある下品往生というのは、手は虚空を握り、毛穴からは白い汗が流れて目もあてられぬ苦悶の臨終だそうな。恐ろしいことじゃ。業によっては何人がそのような死に方をするかもはかられぬのじゃ。だがそのような浅ましい臨終はしても、仏様を信じているならば、助けていただく事はたしかなのじゃ。救いは機にかかわらず確立しているのじゃ。信心には一切の証はないのじゃ。これがわしが皆にする最後の説教じゃ。わしがこれを言うのは人間の心ほど成心を去って素直になりにくいものはない事をよく知っているからじゃ。素直な心になってくれ。ものごとを信ずる明るいこころになってくれ。信じてだまされるのは、まことのものを疑うよりどれほどまさっているだろう。なぜ人間は疑い深いのであろう。長い間互いにだましたり、だまされたりし過ぎたからだ。もしこの世が浄土で、まだひとたびも偽りというものが存在したことがないならば、だれも疑うという事は無いであろう。信じている心には祝福がある。疑うている心には呪詛がある。もし魂の影法師が映るものならば、鬼の姿でも映るのであろう、信じてくれ、仏様の愛を、そして善の勝利を。(間、声が少しく高くなる)わしは今不思議な地位に立っている。わしの後ろには九十年の生涯の光景が横たわっている。そして前にはあの世の予感が満ちている。わしのたましいは、最も高く挙げられ、そして驚くべき広がりに達している。魂の壮観!(夢幻的になる)霊はいま高く高く天翔って、人間界の限りを越えようとしている。墓場のあちらとこちらとの二つの世界の対立と、その必然の連絡とが、わしの心の眼に見えようとしている、魂をつないでいた見えぬ鎖が今切れようとしている。打ちかちがたくあきらめられていた地上の法則が滅亡して、魂は今新しき天の法則の支配にはいろうとしている。試みられ煉められたる魂は新生のよろこびにおどっている。今こそすべての矛盾が一つの深い調和に帰しようとする。そしてこの世でのさまざまの苦しみが一つとしてむだでなかったことがわかろうとしている。あゝ。それがみな仏様の愛と義の計画であったことがわかろうとしている。(しみじみとした独白のごとくになる)なにもかもよかったのだな。わしのつくったあやまちもよかったのだな。わしに加えられた傷もよかったのだな。ゆきずりにふと挨拶をかわした旅の人も、何心なく摘みとった道のべの草花もみなわしとはなれられない縁があったのだな。みなわしの運命を成し遂げるために役立ったのだな。 専信 (登場。弟子たちに一礼する)ただ今到着いたしました。 唯円 専信殿、一刻も早くお師匠様のおそばに。 専信 (親鸞の寝床のそばに寄る)お師匠様、専信でございます。 親鸞 (目をひらく)専信か。よく来てくれた。(目おのずから閉ず)わしはいよいよ召されるのじゃ。 専信 安らかに往生の本懐を遂げられますよう。 親鸞 先に往って待っている。 専信 お師匠様の御恩はいつまでも忘れませぬ。師弟の縁ほど深い、純いものはありますまい。 親鸞 あの世でふたたび会いましょう。もう二度と別れることのない所でな。 専信 わたしもあとから参ります。じきに参ります。(涙ぐむ)ほんとうにじきでございます。 弟子衆涙ぐむ。顕智登場。一同に会釈する。唯円「すぐに師のそばへ」と目くばせする。 顕智 (親鸞の枕もとに寄る)顕智でございます。おわかりでございますか。 親鸞 (目をひらく)わかります。(目を閉じる)なにごとも浄土でな。 顕智 はい。 親鸞 お前の国の御法儀は。 顕智 ますます隆盛でございます。 親鸞 専空は。 顕智 この春奥州へ発足いたしました。(涙ぐむ)所詮御臨終のお間には合いますまい。 親鸞 それは会うよりもうれしく思います。(間)みんな仲よく暮らしてくれ。わしのなくなったあとは皆よく力をあわせて法のために働いてくれ。決して争うな。どのような苦しい、不合理な気がすることがあっても、仏と人とに呪いをおくるな。およそ祝せよ。悲しみを耐え忍べよ。忍耐は徳をおのれのものとするのじゃ。隣人を愛せよ。旅人をねんごろにせよ。仏の名によって皆つながり合ってくれ。(だんだん声が細く、とぎれがちになる)自分らがしてほしいように、人にもしてやらぬのは間違いじゃ、(唯円、筆を水につけてくちびるをうるおす。弟子たちそれにならう)裁く心と誓う心は悪魔から出るのじゃ……人の僕になれ。人の足を洗ってやれ……履のひもをむすんでやれ。(間)ほむべき仏さま。(だんだん夢幻的になる)わしのした悪がみなつぐなわれる。みなゆるされる。罪が美しくなる、罪で美しくなる。奇蹟! 七菩提分、八聖道分、涼しい鳥の鳴き声がする……園林堂閣のたたずまい……きれいな浴池だな。金色の髪を洗っていられる。皆履をぬがれた。あの素足の美しいこと。お手を合わされた。皆歌われるのだな。仏さまをほめるうただな…… 勝信、善鸞登場。 唯円 善鸞様。早くおそばへ。もう御臨終でございますぞ。 善鸞 (我れを忘れてよろめくように親鸞のそばに寄る)父上様。(声咽喉につまる) 親鸞 皆ひざまずいて三宝を礼拝していられる。金色の木の果が枝をはなれて地に落ちた。皆それをあつめて十方の諸仏を供養なさるのじゃ……あ、花がふる。花がふる………… 唯円 (親鸞の耳に口をあてる)善鸞様がお越しなされました。 善鸞 (声を高くする)父上様。善鸞でございます。わかりましたか。わたしでございます。父上様。 親鸞 (目を開き善鸞の顔を見る)おゝ、善鸞か。(身を起こそうとしてむなしく手を動かす) 侍医 (制する)おしずかに。 善鸞 (涙をこぼす)会いとうございました……ゆるしてください。わたくしは………… 親鸞 ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない。 善鸞 わたくしは不孝者です。 親鸞 お前はふしあわせだった。 善鸞 わたしは悪い人間です。わたしゆえに他人がふしあわせになりました。わたしは自分の存在を呪います。 親鸞 おゝおそろしい。われとわが身を呪うとは、お前自らを祝しておくれ。悪魔が悪いのだ。お前は仏様の姿に似せてつくられた仏の子じゃ。 善鸞 もったいない。わたしは多くの罪をかさねました。 親鸞 その罪は億劫の昔阿弥陀様が先に償うてくだされた……ゆるされているのじゃ、ゆるされているのじゃ。(声細くなりとぎれる。侍医眉をひそめる)わしはもうこの世を去る……(細けれどしっかりと)お前は仏様を信じるか。 善鸞 ………… 親鸞 お慈悲を拒んでくれるな。信じると言ってくれ……わしの魂が天に返る日に安心をあたえてくれ…… 善鸞 (魂の苦悶のためにまっさおになる) 親鸞 ただ受け取りさえすればよいのじゃ。 一座緊張する。勝信は顔青ざめ、目を火のごとくにして善鸞を見ている。 善鸞 (くちびるの筋が苦しげに痙攣する。何か言いかけてためらう。ついに絶望的に)わたしの浅ましさ……わかりません……きめられません。(前に伏す。勝信の顔ま白になる) 親鸞 おゝ。(目をつむる) 一座動揺する。 侍医 どなた様も、今が御臨終でございますぞ。 深い、内面の動揺その極に達する。されど森として声を立つるものなし。弟子衆枕もとに寄る。代わる代わる親鸞のくちびるをしめす。 親鸞 (かすかにくちびるを動かす。苦悶の表情顔に表わる。やがてその表情は次第に穏やかになり、ついにひとつの静かなる、恵まれたるもののみの持つ平和なる表情にかわる。小さけれどたしかなる声にて)それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善い、調和した世界じゃ。(この世ならぬ美しさ顔に輝きわたる)おゝ平和! もっとも遠い、もっとも内の。なむあみだぶつ。 侍医 もはやこときれあそばしました。 尊き感動。一座水を打ちたるごとく静かになる。一同合掌す。南無阿弥陀仏の声ひとしきり。やがてやむ。一瞬間沈黙。平和なヒムリッシュな音楽。親鸞の魂の天に返ったことを示すため。 ――幕――
底本:「出家とその弟子」岩波文庫、岩波書店 1927(昭和2)年7月1日第1刷発行
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