既存の宗教というのは、大原則としては、善人が報われ、悪人は罰を受ける、そうであってほしいわけだろうと思います。 しかし・・・ そもそも、善悪の基準、それ自体が、人間が狭い了見の中で勝手に決めた基準であって、何が正しいのか間違っているのかは、人によって異なっていますよね。 動物を食べるのは罪だ、と考える人も居れば、植物だって命なのだから食べるのは罪だ、と考える人もいる。 どちらが正しいかを争っても、答えなど出るわけもなく、平行線の問題は多いわけです。 宗教によっては、自分の信じる神だけが正しく、異なる神(邪神?)を信じているのは悪人だから殺すべき、なんて考え方をする人も居るとか居ないとか。 何が正しいか間違っているかは、所詮、人間が勝手に決めた価値観でしかないわけなのですが。
上に例でベジタリアンについて挙げましたが。 宗教に限ったことではなく、政治やその他の思想的な問題でも、これはよくある事ですね。 よくある(よく言われる)のは 自分が絶対に正しい。それ以外は認めない。 という人が多いと言う事。 自分はそうではないから大丈夫、と思ったアナタ。危険ですよ?(笑) ずっと観察していると、思った以上に人は、自分が正しいと信じたい生き物のように見えるのですよね。 みんな、なかなか、自分が間違っていると認めるのは難しいようで。 ごく日常的な事ですらそうなのですから、生きる上で信じている信条ともなれば、間違いを認めるなど、できるわけがない。 宗教となったら、尚更です。 熱心な信者であるほど、その傾向が強くなるのですから。 自分の信じる神こそが絶対に正しい。 神なのだから、無条件に正しいし、神なのだから、無条件に絶対である。 正しく、良い事なのだから、人に教え広めるべき。 そうして、人に自分の宗教を強要し始める・・・ 神の法なのだから、人の作った法などより上である。 良い事をしているのだから、許される。 絶対正しいと信じているから、迷惑な強要をしてしまっても、何が間違っているのか理解できない。。。
どんな宗教教義でも良いのですが。 その価値観が、社会のルールと異なっている時、宗教教義と社会のルールや法律との戦いになってしまいます。 しかし、相手は神様なのですから、人間の作った方やルールなど、勝ち目はありません。(相手の中では) 例えばもし、その教義の中に、「異なる宗教を信じている人は悪だから殺して救ってやるべき」と書いてあったらどうなるか? 日本で毒ガスを撒くというテロ行為を行った宗教団体がありましたが、それもそうだったと思います。 信者たちは、正しいと信じて行ったのでしょう。
命がけで神様のために働きたいと思っている信者が居て。 その神様が、人間は汚れているから殺して浄化すべき、などと言ったら、その人にとっては人間を殺す事が正義になってしまいます。 そして、人間の社会では困った事ですが、宗教信者・宗教家の弟子としては、そこまで命がけで信じ、従う事は、姿勢としては間違っていないという事なのです。。。 それはおかしい、と思う人が多いと思います。 でも、では、おかしくない基準とはどのようなものか? それを人間たちが議論し始めても、結論は出ないんじゃないかと思います。 肉を食べる人とベジタリアン(より過激なヴィーガン)がいつまでたっても平行線で相容れないのと同じ。 何が正しいかどうか、神ならぬ人間には分からないのですから。。。
個人的には、カルトはダメだと思います。 宗教だけじゃないですよ。 政治的、あるいはその他の「運動」「活動」についてもそう。 「自分が絶対正しい」と信じて それを人に強要してしまうのは、ダメでしょう。
唯一、絶対正しいと言えるのは 「自分は間違っているかも知れない」 という可能性を忘れない事でしょうか。 しかし、困ってしまうのは、そういう姿勢・考え方を、熱心な信者の方ほど、間違ってると感じるらしいのです。 別に、神を否定するつもりはないのですが。 ただ、神様の教えを解釈する人間の側に限界があると言っているだけです。 神様が間違っているのではなく、アナタが曲解しているだけではないか、という事なのですが。
ある宗教に関するジョークを思い出します
とある宗教の、異なる宗派の人同士が、どちらの教義が正しいか言い争いになりました。 結局、議論は平行線のまま、不毛だからもうやめようと言うことになったのですが、その時、一人が言いました。 「そうですね、結局わたしたちは同じ神を信じているのですから。あなたはあなたのやり方で、わたしは神のやり方で。」
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