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「ヘイト」ってなんだろう?(Twitter社におけるヘイトの定義)

政治・経済・法律
ヘイトスピーチ防止法なるものがついに日本でも成立した。

いや、してない。

したのは特定の地域だけの条例だった。

「ヘイトスピーチ」は禁止という世界的な流れはあるようだ。

人種差別等の禁止と言う趣旨だろう。

もちろん人種差別等の差別は絶対に良くない。

が、しかし・・・

どうも見ていると、

差別でもなんでもない事まで「差別」だと騒ぎ立て、利権を守るために利用されている場合があるように見える。

自分に都合が悪い事はなんでも「差別だ」と言えば相手の意見を封じられる

利権を守るのにはとても便利な、言論弾圧のツールとなってしまっていないか?

(この傾向は世界的にあるようである。)

「ヘイト」という短い名前がついたことによって、それがさらに悪化してしまったように思う。

定義の曖昧ない言葉がうまく利用され、言論を封じるツールとされる。

「差別」という言葉も定義が明確になっておらず、なんでも差別だと言えば相手の言論を封じることができるの悪用されてきたが

それが「ヘイト」というさらに曖昧な(しかしシンプルでサインとして使いやすい)言葉になったことで、その傾向が強まったように思う。

「ヘイト」ってなんだろう?

SNSでは「ヘイトスピーチ」を禁止し、違反した投稿は削除されるルールが設置される傾向にある。

例えば、Twitterのルールには以下のようにヘイトが定義されている。
ヘイト行為: 人種、民族、出身地、性的指向、性別、性同一性、信仰している宗教、年齢、障碍、疾患を理由とした他者への暴力行為、直接的な攻撃、脅迫の助長・扇動を禁じます。
(https://support.twitter.com/articles/20175057)
※上記に加え、さらに、『ヘイトに満ちた投稿者を凍結する』という条文も新たに加わったらしい。日本語の原文がみつからないので、まだ日本では適用されていないか、ルールブックに反映されていないのかもしれない。

Twitterのルールにはこのような文言もある
Twitterは表現の自由を尊重し、開かれた話し合いを行うべきだと考えています。ただし、そのような理念も、人々が恐怖に怯えているために何も言えないという状況では何の意味も成しません。Twitterでは利用者が安心してさまざまな意見や信念を表現できるよう、嫌がらせや脅し、または恐怖を与えて他の利用者が発言できないようにするといった、攻撃的な行為を禁じています。

攻撃的な行為: 特定の人物や他の利用者を標的とした嫌がらせを禁じます。Twitterは、嫌がらせ、威圧、他者の発言に対する抑制を攻撃的な行為と見なします。
(https://twitter.com/rules)

ヘイトスピーチ禁止条例や、一時期話題になった「人権擁護法案」などもそうだが、それ自体の理念は大変人間味のある素晴らしい事だと思う。

しかしそれは、「ヘイト」の定義が何かによる。その判定を、誰がどのような基準で行うのかによっては、法律の名前とは裏腹・正反対の、大変危険なものになってしまう可能性がある。

例えば、仮に、何らかの「利権」を持った者達が居たとして。その利権を持った者達の中から、この判断を行う者が選抜される仕組みになっていたとしたらどうであろうか?

その利権を批判する言葉はすべて「ヘイトである」と認定してしまえば、自分たちの既得利権に対する批判さえも一切許さない体制を作ることができてしまう。

某都市のヘイトスピーチ禁止条例は既にそのような体制になっていると批判されているとも聞く。

この国の法律は、名前だけ先に作られ、細かい規定や運用の仕方は曖昧なままとされる事が多い。その後、運用しながら基準が流動的に決められていくのだ。

しかし、法律は、
その判定基準を明確化すること
それを判定する人間が公正に選定されること
がまず何より重要ではないかと思うのだが・・・

「ヘイトスピーチの禁止」は、常に「言論の自由の侵害」との対立となる。

個人的には、「差別」は、「具体的な被害が出ている場合」に限定すべきなのではないかと思う。(「及び、具体的な被害につながる可能性が極めて高い場合」も含めてもよいが。)

単なる好き嫌いや意見の表明についてまで、全て「差別」で封じようとするのは単なる「言葉狩り」、酷い言論弾圧になると思う。

前述のように、既得権益を守るためのツールとして「差別」が悪用されないように、明確な線引きをしていく必要があると思われる。

例えば、「人種差別撤廃条約」というものがあり、日本は1995年に加盟している。これはその名の通り、「あらゆる形態の人種差別の撤廃」が目的であるが第一条は
この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
となっている しかし、続いて第二条には
この条約は、締約国が市民と市民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優先については、適用しない。 
となっている。つまり、国籍による区別は差別ではないと言う事になっている。

これは「公権力の行使又は国家の意思の形成に影響を与える場合」などの合理的な根拠がある場合に限られるということらしいが、分かりやすく言えば、外国籍の者の参政権を付与しない事は、人種差別とはされないと言う事である。

外国人参政権を認めてしまえば、人口の多い国が、少ない国の国政・意思決定を左右できる事になってしまうので、認めるべきではないのは当然だろう。

自分の国の意思決定は、国民だけで行うべきであり、外国人の意見で左右されるべきではないのは当たり前のこと。それは差別ではないだろう。

しかし、日本では、当然のように「外国人参政権を認めるべき」という主張をする者たちが居るらしい。
それを認めないのは「差別」であるという論拠らしいが、それは上記のように、ルール上は何も問題がないのである。

当然、悪用したい側の人間たちは、ルールなど曖昧なままにしておきたいのだろうと思うが。

自由に意見を言える事、言論の言論は、民主主義において何より大切なものであろう。

これまで、差別撤廃のために長い時間をかけて多くの人が努力してきた。

しかし、それがとうとう行き過ぎてしまった結果、悪用される時代が来たのだと思う。

「自由」を守りたいと思う人間たちは、それを守るために、「差別の悪用」と戦う必要がある時代が来ているのかもしれない。

もちろん、差別は良くない。

理不尽な差別はなくなって欲しいと願う。

そしておそらく、差別はまだまだ根絶されてはいないだろう。

しかし、それを悪用する者が出てきてしまった時点で、真の意味での差別根絶は減速してしまうことになる。

真に差別の根絶を願う人達もまた、「ヘイト」の悪用濫用を防止するべく戦う必要があるだろうと思う。

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