歴史を紐解いてみると、ほとんどの戦争が、背景・根幹に「宗教」問題が絡んでいる事が分かると思います。
宗教に関係なく、純粋に損得だけで怒った争いは、損益分岐点で簡単に収束するわけです。
しかし、宗教問題は違う。熱心な信者であるほど、命がけで神を信じ守ろうとします。そこに損得は関係ない。
人間の命より重い、絶対譲れない信念だから、殺し合いにまでなるし、殺し合っても収束しない。
そういう状況が見えてくると、「宗教があるから争いが起きる。宗教がなくなれば良いのではないか?」という疑問を抱く人も出てくるわけですね。
しかし、宗教を失くすこともまた、難しいわけです。
そして、突き詰めていくと、問題は「宗教」ではないと言う事に気がつきます。
仮に、宗教がすべて地球上からなくなったら、戦争がなくなるか?
おそらく、なくならないでしょうね。
現在ある宗教とは別の宗教、「宗教」と言う名前ではない何かが発生して、そのために殺し合いが起きると思います。
人間には、知らない事、分からない事が多い。
科学がすべてを解明しているかというと、そうではない。
むしろ、分かってない事のほうがまだまだ多い。
分からないから、現在も研究を続けているわけで。
分からない事がある限り、宗教は、人間の精神衛生上、必要なのではないかと思います。
実は、最先端の科学者ほど、神や宗教を否定しないと聞きます。自分たちの限界を一番よく知っているからですね。
自分では研究などしていない人で、宗教やオカルトを頑なに否定するタイプの人がたまに居ますが、それは "科学教" の信者であって、科学的な意見ではないわけです。
問題は、"分からないこと" を勝手にこうだと決めつけてしまう人。
「科学」でも、「宗教」でも、どちらでもこれは同じです。
科学においては、分からないことは分からない(未だ解明されていない)というのが正しい姿勢です。
アシモフがエッセイに書いていました、『「神や死後の世界はあると思いますか?」みたいな質問をされる事があるが、科学者としての正しい答えは「分からない」だ』と。
未だ解明されていないことを、どちらだと言い切ってしまうのは科学者の姿勢ではない、と言う事ですね。
科学で未だ証明されていないモノをこうだと決めつける人、これは科学者ではなく宗教家の分類になるのではないかと思うわけです。
証明できないことを、信じるか否か、というのを宗教というわけですが。
宗教においても、同じような事は実はあります。
例えば、不思議な事に、同じ経典を元にしているはずなのに、解釈が正反対になる人が出てくるのです。
ある宗教には「異教徒は殺せと経典に書いてある」というと言われています。
ところが、実は経典を見てみると、そんな事は書いていなくて、かなり曖昧な表現になっているのだとか。
あるいは、経典には書いていないが、教祖がどこかで発言したと言い伝えられてる、という話だったりとか。
教祖は、その時、その状況に合わせた発言をしているわけで、一般化してよい発言ではないからこそ、経典には残していない、というケースもあるわけです。そういう話を、後の人々が、当時の状況も理解せずに発言だけを切り取って独り歩きさせてしまう、という可能性はあるわけですね。
また、経典に書いてある事でさえ、人によってその解釈が違ってしまうという場合はままあるそうです。
明らかに、他に意味を間違えようがないような、明確・明瞭に書かれている事ですから、勝手に裏を読み、これは実はこういう意味だと曲解する人も出てきたりするのだとか。。。
つまり、「宗教」が問題なのではなく、「人間」が問題なのではないでしょうか。
考え方の違い、価値観の違い。
解釈の違い。
仮に「宗教」がなくなったとしても、そういったものの違いで、人は争うのだろうと思います。
他者との考え方の違い、価値観の違いを認められない「絶対自分が正しい」という人が居なくならない限り、争いはなくならないでしょう。
そして、人間は、どうしても、自分は正しいと思い込みたいものなので・・・
「自分は間違ってる」と思いながら生きるのは辛いですからね。。。
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