人は、決して満足しない生き物なのだという。それは、死んでも変わらないのだそうだ。 人は、いまあるものは、あって当たり前になってしまい、それでは満足できなくなるのだ。なくなるか、比較対象がない限り、どんなに満たされていようとも人はやがて不満・不幸を抱き始める、愚かな生き物であるようだ。(死と言う比較対象と向き合ってはじめて生を見直しはじめる、愚かさだ。) 団栗の背比べになると、団栗なりに僅かであっても差異を見つけようと必死になる。
坂本龍馬は死んで後悔していないか? 「最後は死んで野辺の石になるだけ、だから思いっきりやれ」 と竜馬は言ったとか。 しかしそれは、守るべきものがなかった、手に入れられなかったからなのではないか・・・ ?などと思ったっリも。。。 坂本龍馬は、結局、若くして殺される事となったが、道半ばで倒れることになって、後悔は本当になかったのだろうか・・・
人は常に、満たされる何かを求め続けている。 すべてを満たされた人でさえ、その状態が不満になってしまうほどに。 経済的に何不自由なく暮らせるとしたら、あとは、何をしたい? 人は経済的に解決できる欲求がすべて満たされると、社会的欲求、自己顕示欲を満たそうとするのかも知れない。お金で手に入らないものを求め始める。
「一番だいじなものに、一番大事な命をかける」(あいだみつお) あれ、一番大事なモノって何だっけ???
人が人生に求めているのは結局『幸せ』なのだ。 では「幸せ」とは何だ? つまり、自分の欲求を満たす事 苦労していれば、平凡な生活にあるというだけで価値を感じるのかも知れないが 生活の維持に苦労しない状況では、刺激がないことを幸せだとは思えなくなり、 お金で手に入らない欲求を満たすことを求め始める。 例えば、人のために生きる事に生きがいを見出す人も居る。 しかしそれは、本当に愛情からくることなのかも知れないが、もしかしたら、自己顕示欲を満たすためと言う人も居るかもしれない。 仮に、自己顕示欲ではなく、本当に無償の行為であったとしても、自分がそうせずにいられない、そうすることで自分が一番満足できるから、するのには違いない。 マザーテレサは立派な生き方をしたかもしれない。 しかし、テレサは自分の心の内なる声(欲求)に従って生きただけだとみる事もできる。(それは、欲求は欲求でも、高貴なる欲求かも知れないが。) 高貴であろうと、下劣であろうと、自分が満足するために、人は生きているのだ。 もし、自分が満足する事を良くない事と否定してしまったら、おかしなことになる。 テレサは人のために生きてはいけないという事になってしまう。 人は、聖人君子のような生き方を理想として押し付けられても、そのような生き方に満足できない人が、それを強要されるのは苦痛でしかないし、幸せな人生ではない。 人は幸せになるために生まれてきたわけではないかもしれないが、人はわざわざ必要もない苦痛を味わうために生きているわけでもないだろう。
人は結局、自分が満足することを求めて生きている。 「本当は、自分は何をしたい?」 でも、そのために生きて本当に良いのだろうか? 難しい問題だ。 では、人間にとって、一番気もちい事、一番満足できること、一番幸せな事とはなんだろうか?
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