インドだかチベットだかの宗教の教えで 「今日死ぬ、と考えれば、物事の優先順位に整理がつきやすい」 というのがあるのだそうだ。 革命家で有名なチェ・ゲバラも同じような事を言っていたとか。 他でも同じような話を聞いた気がするし、納得もできる。 ただ、意外と「明日死ぬかも」とリアルに実感するのは難しい。 しかし、自分の場合、そう考えてみても、あまり生活・考え方に変化はなかった。 死ぬ可能性のある病気になって、初めて実感した。それがなければ、今でも実感はなかったかも知れない。 死は必ず誰にでも待っている、それを意識して生きればより良い生き方が出来る部分は確かにあるかも知れないが、しかし、それを常に強く意識して日常生活を生きるのは、平穏な社会においては意外と難しい。 しかし、こう考えたら、少し違った考えかたになるのではないかと思った。 それは・・・ 自分ではない、自分の大切な誰かが、明日死ぬ、と思ったら・・・ 自分ではなく、他の誰か───家族や友人、大切な人が死にかけているという時、その人のためにやり残したことはないだろうか?その人のために、精一杯の事をしてきただろうか・・・? そう考えると、死を意識しやすくなり、時間を大切に思えるのではないか?
キリスト・イエスの言葉に、「メメント・モリ」というのがあるのだそうで。 「死を忘れるな」と言う意味だそうだ。 これは、死を意識して、時間を無駄にするな、と言う事を言いたかったのではなかろうか?と思う。。。
人は、生まれた時から死という言うゴールに向かってまっさかさまに落ちているようなもの。止めたい、嫌だと思っても、落下はとまらない、止められない、速度を遅らせることもできはしない。地獄のような運命だ。
かつて、戦国時代は、人はばった端と簡単に死んでいく。 その中で、どんな気持ちで生きたのであろうか。 常に死と背中合わせの戦国時代、人はどのような気持ちで生きていたのであろうか?
個人的に、時々思うのは・・・ 武士道は嫌い 日本人は"侍"ではない、大部分は農民だった 侍とは現代で言えばただの"官僚"にすぎない 「武士道とは死ぬこと」と言った人が居たそうだが、それは、本当は、どういう意味だったのだろうか?
あと何回桜を見られるだろう? 若い子にあと50~60回しか見られないよ?と尋ねてみたら、十分長いと言われた。 自分はそれほど多くはみる事はできないだろう。そして、自分は短いと感じるようになった。若い頃は、何度となく飽きるほど無数に見られるだろうと、永遠にも近い時間に感じていたが。 年を取るにつれ、時間が短く感じるようになる。それはなぜなのか。
人生長いか短いか人生は、何もしないには長すぎるが、何かをしようとすると短すぎる。
時間は止まらない。 人生あと何年か分からないが、人は必ず死ぬ。それを逃れる事はできない。こうしているあいだにも、1秒、また1秒とその時間は残り短くなっていく。
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