メラミンスポンジで職場の廊下の床を擦ったら、簡単に綺麗になったのです。 こんなヤツです、少し水をつけて擦るだけで、汚れが削り取られて綺麗になります。 ※表面を削ってしまうものなので、削れると困るものには使えません。 全体に黒っぽく薄汚れていた廊下が、擦った範囲だけ、明るい色になっています。通った人みんなが口々に「綺麗になるもんだねね!」と驚きの声をあげます。 疲れたのである程度の範囲で区切りをつけてやめたのですが・・・ 当然、綺麗な部分と汚れた部分がくっきり分かれてしまい。 後日、みっともないから全部綺麗にしろと社長命令が下り、みんなで床磨きをすることに(笑) めでたく、廊下全体が大変綺麗になりましたとさ。
しかし、結果として、大変つまらない事になっているなぁと思いました。。。 床全部が綺麗になったことで、暗めのグレーだった床が、少し明るめのグレーになっただけ。 汚い部分とキレイな部分があれば「キレイになった」と言ってもらえるものが、全体に同じ色になったら、誰もキレイだとは思わない。 ただのくすんだグレーの床・・・。 実は、これって、人間という生き物の悲しい性(さが)であり、これこそが、人間の不幸の根源なのではないかと思うのです。 いきなり話が壮大になりましたが(笑) 人間の感覚自体がそのようなものであるから、差別化を求める、そういう部分があるのかも・・・? 考え方の問題ではなく、純粋に感覚として、比較対象がないと、違いが分からない、人間の神経、感覚がそんなものである、と。
つまり、全面がキレイになった床のごとく。すべての人がまったく完全に平等な世界があったとしたら、そのような世界では----それが恵まれた環境であったとしても----それが幸福である事を感じられず、むしろそれでは不幸であると感じる人がいるわけですね。 特に、自己承認欲求や自己顕示欲、嫉妬心が強い人間であるほど、完全な平等の状態では不幸と感じる傾向が強いのだろうと思います。 人より優れていることを自慢する事が何より幸せという人間であったら、そのような人は、誰かを差別しないと幸せになれないわけで。
しかしそのような欲求は、多かれ少なかれ、誰でもが当たり前に持っているものである。 だとしたら、人は、多かれ少なかれ、必ず差別したがるということになる。 足りないモノがあるとき、そのモノのありがたさを感じるけれど、在るのが当前のモノの時は、それは空気と同じになってしまう。 有るのが当たり前のモノには、それが在る事に感謝したり、在り難い、幸せだなどとは思わなくなるのが人間である。 それは人間が愚かであると言うわけではなく、当たり前の感覚なので仕方が無いことなのかも知れない。 苦しみがあるから、幸せだと実感を感じるのであれば、全員が平等に幸せになったとき、それはあって当たり前の事で、その状態で誰も幸せを感じないと言う事になってしまう。
昔、知り合いで、親の遺産で働かなくても生きていける、大変羨ましい状況の人物が居た。成績優秀で、容姿も悪くない。一般の庶民からしたら大変羨ましい状態の人物であったが、本人はずっと自分は不幸だと嘆き、うつ病で引きこもり状態に。。。 人間は、多分、どんなに恵まれた環境に置かれても、必ずその中で不幸を見つけ出すのだろうな、と思いました。。。
とある映画の中に「落ちこぼれクラス」というのが登場しました。その他の生徒達が比較対象として実感できるように、差別された「落ちこぼれクラス」の存在が必要なのだと。他の生徒は、そのクラスの生徒を軽蔑し、また自分たちがそのクラスに落ちないように努力する、というわけです。 それは----人の道として正しいか間違っているかは別として----明確に差を意識させるためには、一理あるのかもしれませんね。 違いがないと幸せを感じられないというのが人間の性(さが)であるのだとしたら、人の世界から差別はなくならない。 それは、比較対象がないと違いを感じられない(比較対象があると分かりやすい)という、人間の感覚の機能的な問題が原因なのかも・・・ などと思ったり。。。
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