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「差別」の境界線は明確にしてはならない

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トランスジェンダーの学生受け入れ 全国の女子大で広がる | NHKニュース
先月、仙台市の宮城学院女子大学が、戸籍上の性別が男性で本人が認識する性別が女性の、トランスジェンダーの学生を受け入れることを発表しました。トランスジェンダーの学生を受け入れたり、受け入れを検討したりする動きは全国の女子大学で広がっています。先月、仙台市の宮城学院女子大学は、戸籍上の性別が男性で性自認が女性のトランスジェンダーの学生を2021年度から受け入れることを発表しました。本人が認識する性別=性自認が女性だという確認に医師の診断書などは必要なく、大学側は「本人が自分は女性である、女性として生きたいという認識があればよい」と説明しています。受け入れを決めたことについて、在校生にはおおむね好意的に受け止められているということです。トランスジェンダーの学生の受け入れはここ数年、全国の女子大学で検討されるようになっていて、すでに東京 文京区にあるお茶の水女子大学と奈良市にある奈良女子大学が2020年度からトランスジェンダーの学生の受け入れを決めています。2つの大学とも、医師の診断書は必ずしも必要ではなく、自分が女性であると認識する経緯や、入試や入学にあたって配慮を希望する内容などについて事前に書類を提出するということです。また、東京女子大学や日本女子大学、津田塾大学、福岡県の筑紫女学園大学も、トランスジェンダーの学生の受け入れについて検討をすすめています。私立大学では初めてとなる受け入れを決めた宮城学院女子大学の平川新 学長は会見で「それぞれの学生が自分らしく生きられるように背中を押すことが大学の使命であり、キャンパスだけでなく、社会全体を豊かにすることにつながると考えています」と話していました。…
www3.nhk.or.jp
女子大で「トランスジェンダー学生」受け入れ広がる 「憲法の理念に合致する」
全国の女子大で、トランスジェンダーの学生を受け入れる動きが広がっている。宮城学院女子大(仙台市)は9月10日、2021年度から、戸籍上は男性であっても、性自認(自分で認識している性別)が女性であるトラン...…
www.bengo4.com
どんどん日本がおかしくなってるような気がする。。。

戦後から始まった、左翼勢力による日本破壊工作が、数十年経って深く浸透していって、最近は加速度的?

合言葉は「ボーダーレス」「グローバル」

国境のない世界。

国境だけではない、あらゆる事に明確な定義・境界線を引かない。

ボーダーをはっきりさせようと言う議論には応じない。

具体的な内容には言及せず、ひたすら「差別」だと叫び、ひたすら反対。

定義・境界線を曖昧にしておかないと、恣意的な利用ができなくなるからですよね。

曖昧にしておけば、日本破壊工作にどんどん利用できる。

確かに、差別は良くない。なくなれば良いと思う。

しかし、日本で(いや世界中で?)差別撤廃を訴える人々に、疑問を感じる人が増えているように思う。

それは、差別撤廃を訴える人の中に、差別の定義が曖昧なのをよいことに、自分たちに都合が良いように利用している輩が混ざっているように見えるから。

混ざっていると言うか、もはや声を上げているのは「活動家」と呼ばれるような過激な人物や団体のみで、本当に差別を受けて困っている人の声はかき消されているようにすら見える。

長らく「差別はよくない」と訴えられ続けたが、では「差別とはなにか?」具体的にどれがOKでどれがNGなのかは、きちんと議論されたことがない。

議論は起きても、明確な結論や境界線は決められない、で終わる。

決めきれないというのは確かにあるのだろうが、実は、曖昧なままにしておいたほうが都合が良い勢力の働きかけもあるのではなかろうか。

そして、その「定義の曖昧さ」というのは、日本の文化に馴染む部分があるのでやっかいである。

例えば、日本の法律も条文の中身は空っぽで入れ物だけ作るという印象。

それは、明確に線を引いてしまうと「例外」に対処できなくなる。

わざと曖昧に作っておいて、実際の運用はその「趣旨」に合わせて、具体的事例はその都度、問題が起きる度に判断する。

必ず存在するであろう例外に対処するための措置なのだろう。

そうして、やがて前例が蓄積され、その後は前例に従って判断されるようになっていく。

日本の前例と慣習に従う役所の風潮はそのようにして培われていったのだろう(笑)

本当は、明確に境界線を決めておいて、問題や例外が起きたらその都度、ルールを改正していったほうが合理的に思えるのだが。

歴史が長いという得意な文化のせいなのかも知れないが、「すっぱり白か黒か分けられるほど、世の中の物事は単純じゃない」という感覚が日本にはあるような気がする。

ルールは細かく決めるのではなく、「主旨」や「精神」を重んじて、その都度判断する、というほうが、違った意味で合理的と言えるのかも知れない。

しかし、定義が曖昧なのを良いことに「差別」という言葉を利己的に利用する人間が多く出てきている以上、明確にボーダーラインを決めなければいけない気がする。

「主旨」や「精神」そのものが、不明瞭になって揺らいでいる気がするので、そこは明確に決めていく必要はあるのではなかろうか。。。

人気漫画のキャラクターを使った献血ポスターが「セクハラである」と批判を浴びて話題になっているそうで。

批判を始めたのは左翼系活動家として有名な方だという話なので、またか、という印象ではあるが。
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確かに。

極論ではあるが、マイノリティに配慮するにも限度がある。

床板に性的に興奮するという、極めてレアな人間が、床板を公共の場では禁止すべきだ、などと言われても困るわけで。

では、どこまでをOKとし、どこまでをNGとするか?

境界を定義すべきだろうという話が出てくるわけで。

しかし、境界をはっきりさせるのは、あるレベル以降の少数派を切り捨てることになるわけで。

民主主義は基本、多数決のはずなのだが。
何故か日本では「少数意見をないがしろにするのは絶対に悪」という主張が定着している。

(だから、多数派を占めている与党が国会で多数決を取ったりすると「強行採決!」と左翼野党とメディアがこぞって騒ぎ立てたりする。)

「差別撤廃」はその少数派を守れという主張なので

「多数派に合わせろ」は少数派には 絶対に受け入れられない 事なので。

彼らにとっては、とにかく、ボーダーは不明瞭なのが得な状態なのだと思う。

そして、"彼ら" は、日本を破壊したい勢力とも重なっている。

ボーダーを不明瞭にしておくのは、日本を破壊したい勢力に利することになるわけで。今後は、日本だけでなく、世界で「ボーダーレス」を目指す「グローバリスト」達と戦う国は、ボーダーを明確に引くということが必要になってくるのだと思う。

してみると、トランプ大統領が「メキシコとの国境に壁を作る」と言ったのは、ボーダーをより強固・明瞭にするという意味で、象徴的であるなぁと思う。

差別をなくせ、という主張をする人々は、ボーダーをなくせ、という人々と多くの部分で重なっているように見える。

ボーダーをなくせ、というのは、持たざる者で、ボーダーを守れというのは「持つ者」であるとも言える。

ボーダーレスを目指すグローバリズムとは、イコール共産主義思想にも近いものであり、つまり、貧困層が富裕層の富の独占を許すな、という、持たざるものが持つ者から奪いたいという構造が根底にある。

(確かに、ごく少数の富裕層に大多数の貧困層という構図になれば、気持ちは分からなくはないが。)

しかし、守るべきもの、財産や家族がある人にとっては、ボーダーはキチンと守ってほしい、つまり保守的な思想になっていくのが自然だろう。

例えば、分かりやすく言ってしまえば

家には壁とドアがあって、家族の許可なく家に入ってはならないという事になっている。

しかし、そこにホームレスがやってきて、自分たちも家に住みたい、ドアを閉ざして締め出すのは「差別」だ!と騒ぎ立てたらどうだろうか?

家には誰でも自由に出入りできるようにするべき。そういうオープンな精神が理想なのだ、というのが、持たざる者・グローバリストの精神なのかも知れないが。

しかし、家族にたべさせる食料を、家に勝手に入って食べられては困るわけで。

年頃の子供が居る家なら、他人に自由に出入りされては困ると、親なら当たり前に思うわけで。

持つ者=家族を持つ者=守るべきモノを持つ者ですね。

守るべきモノがある者は、ボーダーを明確にし、それを守ることを指示するのは当然の事だと思うのですが。

ボーダーレスな社会、一見理想に見えるかも知れませんが、常に他者に分け与えるだけ、努力して何かを得ても、それをひたすら奪われる社会であったとしたら、それはそれで大変に住みにくい社会になると思いますが。。。

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