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法律家の基準は「法律」、政治家は──

政治・経済・法律
はるほど、たしかに。
国会議員は「法律を作ったり改正したりするのが仕事」ですね。

仮に、ある法律が妥当でないから改正しようかという議論をしているときに
その法律の妥当性を議論するならば分かりますが、
議論の的になっている法律に反しているから「違法だ!」と言うのは筋違いですね。

法律的に言うなら、「そもそも現行憲法は違法状態で押し付けられたものなので無効である」 なるほど、たしかに。

「牧師と法律家には、政治を語らせるな」
 (東洋学園大学教授、元衆議院議員秘書の櫻田 淳氏のFACEBOOKから)

「牧師と法律家には、政治を語らせるな」。
どぎつい言葉遣いであるけれども、これは、政治認識の基本である。
何故か。
牧師の価値判断の基準は、「道徳上、正しいか正しくないか」である。
法律家のそれは、「法律上、正しいか正しくないか」である。
政治を語る際の基準は、「それが必要か必要でないか。あるいは賢明である愚劣であるか」である。「道徳上、いかがわしかろうと、あるいは法律上、怪しかろううと、それが国家、国民のために必要であるかどうか」が、政治家の態度である。
だから、憲法学者という「法律家」を呼んで何かを語らせようとすれば、このような仕儀になるのは、寧ろ当然であろう。「憲法学者の大勢は、そのように語るであろう」という話でしかない。不肖・櫻田が憲法学者であれば、多分、彼らと同じことをいうのであろうと思う。故に、彼らの見解に、「良識が示された」と悦ぶのも、「何をふやけたことを…」と怒るのも、お門違いの沙汰である。
「憲法学者の見解は示された。だが、われわれは必要なことを断行する」。それが安倍内閣の姿勢であろう。不肖・櫻田は、それを政治学者として支持しているということでしかない。


宗教家の「道徳的規準」からの意見には、政治家は耳を貸す価値がある(場合もある)と、個人的には思いますが。

余談ですが、面白いのは、日本の宗教である「神道」は道徳を一切語りません。
道徳や生き方、哲学を語ってしまうのは、人間が後から作った教義であることが多いような気がします。

人間を超越した「神」は人間にとって理不尽な事も多々ありますね。
古来から人間は、あらがえない大自然の脅威に、神的なものを感じ取っていたのだと思います。

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