『健全な精神は健全な肉体に宿る』 という言葉がありますが、本当はその後に 「というのが理想なのだけど、なかなかそうはいかないよね」 というような文章が続いていたのが、その前半だけが抜き出されて誤用されている、と言う話を聞きまして。
※『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず』と同じパターンですかね?これも本当はその直後に『というが、現実はそうではない。』と原文は続いている。
というわけで、『健全な精神は健全な肉体に宿る』の本来の意味を検索してみたら・・・なんかもっと複雑な話だったようです。
この言葉の出典は、古代ローマの詩人、ユウェナリスが残した詩の一節なのだとか。 ⇒ユウェナリス(Wikipedia) この言葉は『風刺詩集』という詩集の中にある一節ですが、この詩は幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄を挙げつらい、どれも身の破滅に繋がるのすべきではない、と戒めている内容であり、もし祈るとすれば『健やかな心が健やかな体に』(orandum est ut sit mens sana in corpore sano)と願うべきである、と書かれているようです。
こちらの人は、本来の意味は「人間よ欲をかかず慎ましく祈れ」ではないかと書いているようです。 ⇒「健全な精神は健全な肉体に宿る」とは言わなかったユウェナリス
人々は間違ったことばかりを神様にお願いしている。例えば金持ちになること、 例えば長生き、例えば美貌。しかし、これらはなかなか手に入りにくいだけでな く、手に入ったところで決して持ち主を幸福にはしない。金持ちになっても泥棒の 心配が増えるだけ。長生きしても、もうろくした人生にいいことはない。美人にな っても不倫に陥って苦しむだけだ。「心身ともに健康であること」。願うならこの 程度にしておきなさい。これなら誰でも自分の力で達成できるし、それが手に入っ たことによって不幸になることもない。しかし、けっしてそれ以上の大きな願いを 抱いてはいけない。
しかし、Wikipediaには、「神への願い事は、慎ましく心身の健康だけにすべき、という意味であるとの主張もあるが、それも誤りである」と書かれていますね。 なぜなら、求めるべき「健全な精神」についてはその後数行に渡って記述されている、と。 その内容は、要約すると「勇敢な精神を持て」というような意味である、と。
しかし、個人的には、どちらの解釈も、なんとなく釈然としません。 「健全な肉体に健全な精神が宿る」と言われても、「いやそれは間違いだ」という解説も、どちらも何かスッキリとしない。 そこで思ったのは----単なる個人的な想像に過ぎませんが----もしかして、ユウェナリスは、霊的な感性を持った人物だったのではないか?と言うこと・・・ 霊魂学においては、肉体を鍛えるだけでなく、肉体と重なる霊的な身体(幽体・霊体)をも鍛えることが大切であると言います。 もし、ユウェナリスが、それを直感的に感じ取っていたとしたら・・・? そう考えると、すべての辻褄が合う・・・・ 「神には物欲のご利益を祈るのではなく、健かな霊的身体を願うべき」 ならば、霊魂学(古神道)的な考え方に完全に合致します。 当時は、現代にくらべて霊的な環境はそれほど悪くはなかったはずと思いますので、高度な霊的感性がある人がいたとしても不思議ではないかも知れません。詩人になるような人物であればなおさらでしょう・・・ しかし、物質ではない霊的な身体は「肉体」とは言えないが「精神」とも言えない。(幽体や霊体という物質ではない身体を認識する言葉も当時はなかったので)それを表現しようとして、少し回りくどい言い方になってしまったのかな? と想像してみると、すべて腑に落ちる気がします。 この詩集は人々を啓蒙するためというニュアンスがあったようなので、その他にも、ユウェリナリスが言いたいこと、考え方や哲学が色々と盛り込まれているのだと思いますが、無意識のうちに、そのような感覚を感じ取って表現していた、と言う可能性はあるのではないかと思います。。。
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