「学問に王道なし」というのが元の格言だったようですが いろいろな言葉に入れ替えて使われますね。 「将棋に王道なし」とか この言葉は「楽な道はない」「近道はない」と言うような意味ですが・・・ そう言えば、学生時代に、コレの意味を勘違いしている同期が居たのを思い出しました。 そいつは他にも色々な事を勘違いしている事が多い人間で、しかも自分の説を言い張って曲げないやっかいな人物だったので、結局、友人がみんな離れてしまったようですが。(私も自然に距離を置くようになりました。) まぁそれはどうでもいいのですが、彼はどうも「王道」を、「正統派の道」「本来進むべき正しい道」というような意味で捉えていたようです。 それだと、「○○に王道なし」は「正統派の道」などないと言う意味になりますが。。。
なるほど、「王道」と言われると、なんかすごい立派な道にも思えます。 実際、「王道を歩む」のような言葉がありますので。 「王道を行く」と言う場合は、「まっとうな道を進む」「基本に忠実」「定石通り」「オーソドックス」と言うような意味になるようです。 確かに、ややこしいですね(笑)
なぜ「王道」が「近道」の意味で使われるのか? それは、この言葉はもともと、ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉だそうです。 アリストテレスがアレキサンダー大王の家庭教師をしていた時に、王に「もっと楽に学問を身につける方法はないのか?」と問われ、「たとえ王と言えども、楽して身につく方法などない、地道に努力すべし」と答えたという逸話から来ているのですね。 「王道を行く」も「○○に王道なし」も、どちらも地道が大切というニュアンスを含んでいる言葉だと思いますが・・・ 「王道」を「地道」と定義するか、「近道」と定義するかで正反対の意味になってしまう。 そういう意味では、「○○に近道なし」と言ったほうが誤解が少なくて良いかなぁと思いますが・・・ 今風に言うと「○○にチート技なし」?(笑)
しかし、この「○○に王道なし」という言葉が、「確実に実力が身につく決まった方法などない」と言うようなニュアンスで使われる事もあるような気がします。 これ自体は、案外間違いではないかな、と思えるところが興味深いですね。 上記二種類の意味が混ざってしまって、結果、真実をついているというか(笑) どんな道も、実力を身につけるためには地道に努力するしかないわけですが、実際に何かの道を進んでみると、これだけやってれば確実にステップアップしていく、と言う方法がなく、壁にぶち当たってしまう事がありますよね。 もちろん、伝統の長い世界などでは、これだけ地道にやってればいつか必ず力になる、と言う方法が用意されていることがありますし、それは間違いではないのですが。 それは初心者の話であって、ある程度、道を進んで壁にぶつかると、もはやコレという方法論はなく、とにかく色々な事を試してみて、暗中模索しながら進んでいく事になる、そんな経験は誰もが必ずするはずだと思います。 やがて、それを通り抜けてある程度の境地に達すると、初心に戻り、結局は初心の頃の地道な練習がやっぱり大切だったなぁと気づく事も多いのですが(^^;)
面白いなぁと思うのは、例えば、何らかの芸事や、武道やスポーツなどで、達人になった人が居たとして。 この人は、もともと才能もあったでしょうが、もちろん必死で努力もし、紆余曲折を経て、達人になった。 その人が、この達人の境地に到達するための、「最も良い練習方法はこれだ」と練習方法を考案しました。 自分は無駄なな努力も随分してしまったが、弟子は的確な努力だけを続けさせれば、効率よく成長するだろう、と思うわけです。 ところが、その達人が考案した画期的な練習方法をやった結果、弟子がメキメキ成長して短期間で達人になった、などということは、やってみると実際にはまず起こりえないのだそうで。 むしろ凄い達人ほど、弟子が育たない事が多い。弟子を育てるのが上手い人も居ますが、そういう人は本人の実力はそれほどでもない事も多い。 不思議なことに、最短距離の最も効率の良い練習方法を教わった人は、何故か大成しないものなのだそうで。 結局、伸びる弟子というのは、師匠のやり方を無視するというわけではないですが、効率が悪くとも自分のやり方を模索し試行錯誤を繰り返したような人なのだとか。 確かに、暗中模索で寄り道・回り道をしたかも知れませんが、その過程を経ないと、人は高みに到達できないようなのです。 確かに、いきなり正解を教えてもらった生徒は、それを解く力を身につけられませんからね。 そう言えば、前にこんな記事もありましたね。 ⇒簡単に教えてはいけない
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