もう十分に生きた。仕事はやり過ぎるほどやった。世界中に行った。思い残すことはない。気づかぬうちに認知症になって人の手を煩わせるのは嫌なので、そうなる前に安楽死を考えている。
高齢になったある脚本家が、自分の人生の終わり方について考えているという記事があった。 人に迷惑をかえるようになるくらいなら、その前に死にたいと。尊厳死ではダメ、人の手を煩わせてしまう。そうなる前に、自分が自分としてあり、身体が自由に動くうちに、自分から死を選びたい。 その気持はよく分かる。 そして、死ぬならわざわざ苦しい思いをして死ぬこともないので、楽な死に方を選びたいのも、強く共感するところではある。 ただ、「やる事は全部やった」これにはやはり引っかかってしまう。 「思い残すことはない」これはまぁ、今回の人生についての話だから、人それぞれ好きに考えれば良い。 だが、やるべき事を本当にやったのだろうか? そして、これから死んだ後、行く世界については、なぜ興味を持たないのか? 「死後の世界などない、死んだら終わり、消えてなくなるだけ」この脚本家さんは、そういう考えの人なのかもしれない。(この脚本家さんが実際にどう考えているのかは知らないけれど。) もし、死後の世界がある、霊魂はあると考えている人ならば、今回の人生について振り返るのも良いけれど、死んだ後どうなるかについても考えるべきではないかと思うのだが。。。 また、90年も生きて 「人はなぜこの世に生まれてきたのか?」 「何のために、何をするために生まれてきたのか?」 そういう事を考えた事がない、というのが、現代人の普通なのだろうか。。。
かつて、知り合いに、親の遺産で働かなくても生活に困らないといううらやましい立場の人で、うつ病になってしまったという人が居た。 人は、食べるためにアクセク働かなくても良い、という立場になると、人生の目的や人が生まれてきた訳などを考え始めるらしい。 そこで、神(宗教)に向かう人はよい。あるいは芸術や慈善活動などに向かう人もいる。 しかし、そういうものにもあまり興味を抱けなかった人は、人生の目的を見失い、精神を病んでしまう事になる人もいるらしい。 日本の場合は、宗教に対するアレルギーが大きくなりすぎて、行き場を失い精神を病んでしまう人は多いのかも知れない。
日々、生活に追われ、仕事に負われている人の場合は、仕方がないと思う。 明日食べるものを得るために必死で働き、今日と言う日が過ぎていく。 そういう生活であれば、人が生まれてきた目的など考えている暇はないだろう。 この脚本家さんは、そういう人生を送ってきたのかも知れないが。
記事によると、90歳になってやっと仕事を引退し、現在92歳、この二年間は終活として身辺の整理に追われていたという事なので、やはり落ち着いて考える時間がなかったのかも知れない。(あるいは消えてなくなるだけ、と頑なに信じているだけなのかもしれないが。) しかし、死後の世界があり、その世界に行くための準備ができていなかったとしたら・・・ 幽体がボロボロであれば、死後は、必ず苦しい世界に行く事になる。 せめて、死ぬ直前にでも、幽体の修復を行えばそれほど酷い世界には行かなくて済むであろうに。 幽体を修復する技術(霊術)を知っている者に頼めば、そのような事も実際可能である。 (もちろん推奨はしない、人生好き勝手に生きて、最後に人に頼んで上に押し上げてもらえばよい、そのような態度では、高級な指導霊達もモチベーションが上がらない事は間違いないであろうから、それなりに霊術に効果はあるだろうが、それほど大きな力は働かないかも知れない。) それに、栄養剤を注入して一時しのぎで元気になったような状態は、長くは続かない。結局は、その人の魂の質に応じて、死後、ふさわしい場所へとズルズルと落ちていってしまう事になるのだが・・・
魂の質とは何か?それは、この肉体を持った人生でどう生きてきたかにかかっている。 そして、死後の世界でどのような質の次元に入れるかは、死ぬ瞬間の幽体の状態にかかっている。 どちらも、やるべき事をこの世でやったかどうかで変わる。 人のために善行を積んだかどうか?そんな事は関係ない。 一生懸命生きたかどうか? それも関係ない。 霊的な事柄に目を向け、霊的に高級な栄養を得ることができたかどうか? それだけが問題だ。 魂としての本質的な価値は、幽体の状態の良し悪しとはまた別の問題だろうと思うが、何はともあれ、まずは幽体の状態をよくすること、それが基本だろう。 どう生きたか?とか、人のために働いたか?というのは、その基本ができてからでないと意味がない。 見方によっては、ある意味、霊的トレーニングを行うこと、それこそが人生の目的であると言えるかもしれない。
まぁ、考え方は人それぞれ
しょせんは、
信じるか信じないかはアナタ次第 m9(  ̄  ̄)
の話ではあるが。
「終活」ならば、せめて少しは、死んだ後行く世界について、そこへ行くための準備について、考えたらよいのに、とは思う。。。
92歳の橋田壽賀子が語る「わたしの理想の死にかた」 | 文春オンライン
死期に備え準備、活動する“終活”。近年書籍などではよく論じられるが、家族間で死について語ることはいまだタブー視されがちである。安楽死とは何を指すか、安楽死を悪用させないための仕組みづくりをどうするか…bunshun.jp
コメント