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多数決は多数派の横暴?【民主主義の正体】

政治・経済・法律
江田憲司議員「昔の自民党は違った。故竹下登元首相は『少数意見に耳を傾けろ』と党内に説いた。こういう相手なら、我々野党は対案を出す」
江田憲司氏のツイート 「問答無用!」と聞く耳を持たない安倍首相を相手に、「対案を出せ」「修正協議をしろ」「それが野党の役割だ」と言う人がいるが「きれいごと」はやめてほしい。 それは今の国会の現場を知ら…
snjpn.net
さすがに現在の野党のこの言い分には賛同できるところはありませんが(笑)

近年の野党系勢力の主張の言動はあまりに稚拙で、「民主主義なんだから多数決に従え」という意見が多く聞かれるようになってきました。

民主主義における少数派の扱い   
  • 少数派を切り捨てていくのが民主主義なのか?
  • 少数派に配慮し、尊重・保護するのが民主主義なのか?
   については、いろいろと難しい面があるなと思います。

日本の政治を見ていると不思議な現象をよく見ます。

それは、法案が「野党の反対」や「野党議員の審議拒否」などで成立しない、という状況がよく報じられるのです。

現状、野党というのはものすごい少数派なわけですが。

与党議員が圧倒的多数を占めているのだから「多数決を採って進めばいいのでは?」と思うのですが。(実際、日本以外の外国では、ほとんどがそうやって議会は進行していくそうです。)

ところが不思議なことに、日本の国会というのは特殊で

『全員一致で賛成にならないといけない』

という暗黙のルールがあるのだとか。

反対している者がいるのに、多数決で多いほうに決めると、

「強行だ!」
「数の横暴だ!」

と批判されるのです。

数の横暴もなにも、多数決を否定してしまったら民主主義ではないような気がするのですが・・・

例えば、何かを決めなければいけないという時、

50人の人間が居て、49人が賛成、1人が反対という結果になりました。

もし、全員一致が原則の場合、「反対者が一人居たので、不成立」ということになります。

しかし、現実の社会では、50人いれば意見は50通りあるわけです。

どんな物事でも、必ず、意見の違う人は出てくる、完全一致などないのが人間。

50人が、否、すべての国民が全員「賛成」できる事って、どれだけあるでしょうか・・・

そんな事言ってたら、何も決められなくなってしまいそうです。

(今の国会はそういう状況なわけですね。)

しかし、では、49人が賛成だから、1人の反対者を切り捨てて良いのか?というと、話は少し違ってきますね。

守られるべき最低限度のライン(権利)はあるわけです。

ある決定をしたことで、反対者の一人が生きていけなくなる、というような状況になる事は、人道上、あってはならない事なわけです。

そこまでの話ではなかったとしても、毎回同じ一人(少数派)だけがいつも貧乏くじを引かされる状況も、多数決だから仕方がない、という事にしてしまうのはあまり良くないわけですね。

多数決絶対主義にしてしまうと、人数が多いほうが正義ということで、派閥闘争が発生します。

「全員一致でなければ決められない」ルールを厳格に守ろうとすると何も決定できなくなりますが

「少数派は切り捨てていく」方式でも、「少ない方を排除」を繰り返していけば、やがて最終的には誰も居なくなります。

民主主義って難しいところがあるわけですね。

多数派の意見が概ね通るが、少数派の権利も守られるよう配慮する、という必要があるわけです。

しかし、この、少数派も切り捨ててはならない、というルールを悪用して、ワガママを言い駄々をこねる者がいる、という状況になる可能性もあるわけです。

少数派の権利も守る、少数派にも配慮する、はずが、よくよく話を聞いていると、どうも少数派が「自分に都合が良い事だけを100%通せ」と主張している場合もある。

(これが現状の国会ですね。)

結局、最終的には、少数派にも配慮した上で、決めなければならないことは、やはり最後には多数決で決めるしかない。これが民主主義の原則であることは間違いないわけです。

多数派が少数派に配慮できているのは、ある意味、恵まれた状況なのだと思います。

多数派のほうに余裕があるから、少数派にも配慮できる。

多数派にも余裕がない、生きるか死ぬなという、いよいよギリギリの切羽詰まった状態となったら、少数派が切り捨てられていくのは、ある程度仕方がない事・・・その恐ろしい性質が、民主主義の正体なんですよね。

トロッコ問題というのがあります。
線路を走っているトロッコが故障して制御不能(停止できない)状態になりました。

線路の先では、保線作業員が5人線路の上で作業中で、このままトロッコが走って行けば全員轢かれてしまいます。

線路は途中で二股に別れていて、その切替器の近くにあなたは居ます。

あなたが切替器のレバーを引き、トロッコの進路を変えれば5人の作業員は助かります。

ところが、切り替えた線路の先にも1人、作業員が居るのが見えました。切り替えればその人が轢かれて死んでしまいます。

切り替えなければ5人が死にます。切り替えれば一人が死にます。あなたは切替器のレバーを引きますか?
という問題ですね。

なんだか酷い状況ですが。

単純に、多数決の理論であれば、これは一人を殺して五人を助けるべき、ということになるわけです。

両方助ける方法を模索するのが当然の事なわけですが。

もし、必ずどちらかが死ぬ、という状況であれば、人数の多い方を助ける、それが民主主義の正体ですね。

助けるべき人間の命の価値を定義する、というのが、このトロッコ問題の本質だと思います。

民主主義において、人の命の重さはすべて平等、1人と5人なら5人の命が当然重い、と判断することになります。

しかし、例えば、多くの人を救った一人の立派な人物と、多くの罪のない人を殺した殺人鬼5人とだったらどうでしょうか?

年寄り五人と若者1人だったら?

男性五人と女性一人(またはその逆)だったら?

大人5人と子供一人だったら?

条件・状況によって命の重さの尺度は変わってくるかも知れませんが、何らかの基準によって、判断せざるを得ないというのは確かですね。

トロッコ問題よりもっと古く、「カルネアデスの板」という話がありましたね。

古代ギリシャの哲学者、カルネアデスが出した問題だそうで。
一隻の船が難破し、乗組員は海に投げ出された。その中の一人が船の板切れにすがりついて溺れずに済んだ。そこへもう一人、別の人間が必死で泳いできて同じ板に掴まろうとしたのを見た。板は小さい。二人が同時につかまれば板もろとも二人共沈んでしまうのは明白だった。先に板を掴んでいた男は、後から来た者を突き飛ばし、その人物は水死してしまった。その後、男は救助された後に殺人の罪で裁判にかけらる事になる。
結局男は「罪に問われない」という結論になるのですが、これは、現代でもよく「緊急避難」の事例として説明される話ですね。

(※実際には、緊急時には何をしても良いという意味ではなく、やりすぎれば「過剰避難」という罪に問われますが。)

似たような話で、

震災の時、自分の赤ん坊用の粉ミルクを持って避難した人が、赤ん坊を抱えていてミルクのなかった人からミルクをわけてくれるよう頼まれて、断ったら非難轟々となり避難所を追い出された

とか、

食料のストックがあったので避難所に持っていって皆に分けたら、「買い占めするような自分勝手な人間」と詰られた

などの体験談がネットで話題になりました。

まさに、災害があって非難しているような状況において、このような究極の選択を強いられる事になるわけです。

食料が残り少ない状況の時、その食料を持っている人間が食料を独り占めして一人だけ生き残るか、全員に分けて全員が餓死するか・・・難しい問題です。

これは、共産主義と資本主義の考え方の違いも現れるかも知れません。共産主義は、全員平等が大切で、少数が恵まれた状況になることを良しとしません。全員等しく貧しくなる、というのが実は共産主義の正体ですね。(現実には共産主義の国家は一部少数の人間だけが権力を持ち富を独占している、超独裁国家であることが多いようですが。)

面白いなと思うのは、「蜘蛛の糸」という仏教の逸話

お釈迦様が地獄の人間を不憫に思って蜘蛛の糸を垂らしてやったところ、それに気付いた男が登り始めた。しかし、他の人間たちもそれに気づき、我先にと登り始め、最初に登っていた男は糸が切れたらどうするんだ?!と後から登ってきた者を蹴落とし始める。その瞬間、糸は切れ、全員地獄へ逆戻りとなった。

これ、何が正解だったのか・・・現実の世界に置き換えた場合、どうなんでしょうね?

現実の社会においては、富(食料)が有限で、全員が豊かに満足できる量はないようです。先進国が飽食で食料が捨てられている一方、地球の裏側では餓死している子どもたちがまだ存在している。

いずれ、また小氷河期が来ると言われています。地球の気温が上がらなくなり、作物がとれなくなり、地球規模で食糧不足になる。(実際に、1600年台後半からの小氷河期による飢饉で多くの人がなくなったそうです。)

もし、地球人全員が生き残るだけの食料がない、と言う状況になったとき、全員に食料を平等に分配して、全員が飢え死ぬか?あるいは、どうせ全員は生き残れないのだから、全員死ぬよりは、生き残れる人数だけ生き残る道を選ぶか?

もし後者を選んだ時、誰が生き残って誰が死ぬのか、命の価値に基準を設けて選別する必要が出てくるわけです。

いよいよとなったら、最後は感情論は抜きにしてドライに選ぶしかないだろうと思いますが。

その前に、そこまでの究極の状態に追い込まれているのか、まだ余裕があるのか?という議論が必要になりますので、そこでまた揉めて決着がつかないうちに、全員が死んでいく、という結末もありえるかも・・・?

そこまで極論にならず、現実的に考えた場合、では少数派であっても守られる最低限のラインは何か?と言う事になりますが、社会保障制度については多数決の例外と言えるでしょうね。例えば、電気ガス水道などのライフラインは多数決で切られて廃止されてよいのか?と言う話。

日本政府ついに水道事業の民営化に踏み切るようですが、そうなると、少数派の地域が切られて不遇を強いられる可能性があるとの指摘があります。
「新たな料金負担しなければ水停止」 雫石、業者通知で混乱
雫石町長山岩手山の住宅やペンションなど35軒に水道を供給するイーテックジャパン(仙台市青葉区)が、住民に新たな料金負担をしなければ水を供給しないと通知し、地域が混乱している。同社は経営悪化を理由に、井戸水をくみ上げるポンプの電気料金負担を住…
www.iwate-np.co.jp
水道事業者も民営なれば慈善事業ではありませんので、利益がなければ撤退せざるを得なくなる。これは、民間の事業者を責める事はできません。問題は、民営化してしまった行政の問題でしょう。

行政側も金がないのだから仕方がないと言うかも知れません。本当に金がない死活問題という状況であれば仕方がないでしょうが、このような問題は、地方自治体が無理ならば、国がフォロースべきではないかと思うのです。

一部過疎地域の少数の人のために、都市部の人の払った税金が使われるのは不公平ではないか?という意見もあるのかも知れませんが、考えてみれば、都市だけが国ではないはず。

例えば上述の岩手県は国土に対して人口がたったの120万人、かなり人口密度の薄い地域です。広大な自然が残っており、人が住める場所が少ない。

しかし、人が住んでいない場所は国ではないというわけではない。そのような、人が住めない大きな自然も、私たちの国の一部なわけで。

私は、人が住んでいなくても、そのような自然が残る地域も、自分たちの国の一部として大切にしていきたいと思うのですが。。。

国の水道事業民営化の決断については、かなり批判が多く出ています。私も正直不安です。命に直接関わる水という資源が、外国資本の企業に買い取られてしまう可能性がある。

水道料金の値上げ、水質の劣化・・・
日本人は知らない「水道民営化の真実」フランスと英国で起きたこと(橋本 淳司)
日本で急速に進みつつある水道民営化の議論だが、このままでは日本人の生活インフラを大きく揺るがす事態が起きかねない。水道民営化を経験してきたフランス、イギリスではいったいなにが起きたのか。その衝撃的な実態をレポートする…
gendai.ismedia.jp
とは言え、ガスと電気は既に民営化されて長いわけですから、それほど大きな問題は起きないのかも知れませんが・・・(これらについても事業者が暴利を貪り私腹を肥やしているという指摘もありますが)

ずっと好調を維持してきた安倍政権の支持率が、今月に入って急落しているそうです。理由はおそらく、「外国人労働者の受け入れ」「水道事業の民営化」「消費税増税と企業減税」ではないかと思います。

ずっと行われてきた野党勢力からの批判は、もともと政権を指示している人には相手にされませんでしたが、これらの問題は、支持者の層から批判が大きかったのだと思います。

なぜ安倍総理は支持者の声を無視してこれらを強行するのか・・・これは、一歩間違えば、首相退陣の可能性があるかも知れません。

他に任せられる人が居るのか?という指摘もあり、困った問題ですね。。。
「低所得者の保険料の軽減を廃止」
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老人虐待国家 ニッポン安倍政権の「骨太の改革」の正体が、老人虐待である事が明確になりそうだ。老人の貯蓄が多いことは言われているが、あくまでも平均での話であり、生活保護以下の生活をしている老人も多く存在する。安倍政権が誕生して以来、「日本を取り戻す」というスローガンに、それまでになく期待をし、大きな改革をしてくれるものと信じていた。民主党から日本を取り戻し、リベラル思想に毒された社会が、きっちりとし…
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