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達人が考えた最も効率の良い練習方法では達人の境地には至れない

生き方・人生・人間関係スポーツ・武道
あるところに天才的な武術の達人が居たそうです。

その人が、自分と同じ境地に到達するための、最も効率の良い、最短で上達するための練習方法を考案した。

そして、一番見込みのある弟子にやらせてみた。

その人の予想では、弟子はあれよあれよと見る間に上達し、自分ほどの熟練度ではないにせよ、その一端を垣間見る程度の領域までは到達するはずだった。

ところが、弟子は上達するどころか、どんどん疲労していき、やればやるほど動きは鈍くなる一方、最後には倒れて動かなくなってしまったそうで。

他の弟子たちにもやらせてみたが、結果は同じ。

誰も思ったような成長を見せることはなかったとか。

これは意外とあるあるな話のようです。

「努力は絶対報われる」と言う人が居る。

一方、ある程度のハイレベルに到達した人は

「間違った努力の仕方では結果は出ない」

とも言う。

どちらも間違ってはいないと思うが・・・

では、達人が考案した、無駄をすべて廃した最も効率の良い練習方法で結果が出ないのはなぜなのか?

弟子の道とは何か?

何かしらの職人でも、芸事でも、スポーツや武術などでも、一人の師に師事したら、浮気などせず、ひたすらその人の教えを守り道を貫くべき、それが弟子たるものの道であるというような考え方があるようです。

落語の立川談志の言葉で「修行とは、理不尽に耐えること」というのがあるのだそうですが(笑)

宗教は別ですが、その他の「芸事」では、師匠とは言え、聖人君子ではない場合が多いので、理不尽もあるし、指導が下手な場合もある。それでも、師匠の良いところも悪いところもすべてを受け継ぐ覚悟で生涯ついていく。

たとえ自分には無駄ではないかと思えるような、意味がないように思える事であっても、師匠にやれと言われたら、疑念を抱くことなどせず、黙って何年でもそれをやり抜く。それが弟子としてあるべき姿であると。

一方で、誰かに師事しては、すぐ辞めてまた違う先生に師事する、というような浮気性の弟子もいる。まぁ、ちょっとかじっては、辛いことがあるとすぐ辞めてしまうというような人間では何も身につかないだろうとは思いますが。

初心者のうちから複数の指導者に平行してついてしまうと、基本の部分で違ったことを教わって、チグハグになってしまい、良くない結果にしかならない、と言うこともありますので、平行して違う指導を受けるのは良くないのは理解できると思います。

しかし、ある程度、何年か一人の先生の下で修行した後、壁を感じるということはよくあるでしょう。

「このまま、今の練習方法を続けていても、自分は次の段階に進めないのではないか?」

と感じて困り、迷ってしまう。。。

壁にぶち当たった時に、その壁を破るためにどうするか?

そんな時、それでも今の師匠に教わった、これまでやってきた練習方法をひたすらひたすら続ける。そうすることで、ある時、壁が破れる瞬間が来る。

そのように考える人もいるでしょう。

しかし、そんな状況で、別の先生の指導に触れる機会があったりすると、一気に壁が破れるという事もよくある事だったりします。
  • 破れない壁を、破れるまで愚直に叩き続ける。
  • 壁を叩くのを止め、少し離れて見てみたり、迂回してみたり、叩き方を変えてみたりする。
という二通りの選択肢があるわけです。

「弟子」としてのあるべき姿は前者でしょう。

他の先生に教わるというのは、今の先生を裏切る事になりますので。

指導者も人間ですので、「嫉妬心」がありますので、難しい部分がありますが。
指導する立場になってみると、自分の教え子が他の人の指導を受けるというのは、許せないと感じる人が多いようです。

同じ門派の中でも、熱心に教えてくれていた先輩や指導員から、別の人に「鞍替え」したとなると、人間関係がおかしくなって、大変な事になることが多いようです。

それが、もし、他流の指導を受けるなどとなったら、現在の師匠とは、生涯決別し、憎まれることを覚悟する必要があります。

本当に良い指導者であれば、自分の指導ではここまで、弟子の成長のために、次の段階はもっと素晴らしい先生に指導を乞いなさいと送り出してあげるのが理想なのでしょうが、なかなかそうはできないのが人間というもののようです。。。

「三年修行するより三年師を探せ」という格言があります。

良い先生を見つけて、その人に師事することが大切であると。

そうやって誰かに師事して、その人の指導を信じて、弟子として修業を積んでいく、と言うのも一つの道です。

しかし、世の中には、誰か一人の固定した師匠を持たず、色々な人から技を盗みながら、己の道、己の技を独自に磨き上げていくというタイプの人が居ます。

そして、色々な世界を見てみて、面白なと思うのは、世の中で一流と言われている人、達人になった人というのは、後者であることが多いように思えるのです(笑)

誰かの師匠の弟子として、その師匠のすべてを受け継ぎ、その師匠の教え、流儀を守り通して出ることはない、と言うタイプの人で、傑出した達人になったという人をあまり聞かない。

もちろんそうして達人になった人はたくさんいるのかも知れませんが、それでは、師匠は有名になっても弟子はそのコピーでしかないわけですね。

その流派、流儀を心から愛し、信奉して、それをそのまますべて受け継ぐことが誇りであると思えるならばそれでよいですが。。。

考えてみれば、「一流」と言う言葉は、もともと一つの流派、オリジナルの流派と言う意味であって、ランクを表す言葉ではなかったのではないかと思います。

二流というのは、誰かが既にやっていることの真似をしている、二番煎じだから二流であると。(三流はそのまた真似・・・)

一流というのが、誰も真似できないオリジナルであるという意味であるなら、弟子は全員二流でしかないわけで(笑)

達人になって免許皆伝を許されたときに渡される「奥義書」が、開いてみたら「白紙」であった、なんてストーリーは良くありますが(笑)

普通は、師を超えた、あるいは師とは異なるオリジナルの道を切り開く事ができて、初めて「卒業」と言えるわけです。

一つの流派を受け継ぎとどまるのは、卒業ではないわけです。伝統を「受け継ぐ」と言う意味ではそれもまた一つの選択肢でしょうが。

さて、ここで最初の話に戻りますが

達人の師匠が考案した、最も無駄のない練習方法で、なぜ弟子が育たないのか?

その達人となった人は、その練習方法をしてきてはいないわけです。

正解が分からず、さんざん紆余曲折の回り道をしてきて、ようやっと今の境地に到達している。

その中で、これは無駄だったな、これを知っていればもっと早く先に進めたな、と思う事が多々あり、それを弟子に教えたくなる。

しかし、無駄な道を通らず、いきなり正解を教えられた弟子は、それが身につかない。

実は、無駄な道は無駄ではなかったのではないか?ということなのですね。

紆余曲折の試行錯誤を繰り返し、暗中模索をしてきたその過程がないと、正解に辿り着いても身につかない。

苦労して手に入れたモノは価値を重く感じるが、簡単に教えられた正解は忘れてしまうということなのかも知れませんね。

もちろん、一人で発見できる「真理」には限界があります。一人では到達できるところは多くない。他者の発見した知恵を知ることはとても大切です。

しかし、それをただで簡単に教えられては身につかないのもまた人間ということなのでしょう。

よく、技は教わるのではなく盗むものだ、なんて話もありますが、そういう姿勢が大切なのかも知れませんね。

(そう考えると、弟子に理不尽とも思える修行を課し、それを信じて黙ってついてきた者だけに技を教える、というような師弟の教え方も、簡単に教えると価値がなくなるという意味で、実は一理ある指導法ということになるわけですね。)

一人の師匠について、限界を感じている人、壁にぶち当たっている人は、別の指導者に教えを請う、(あるいは盗む)というのも、一つのやり方ではないかと思います。

指導者が変わるだけで、教え方も千差万別、教える内容も千差万別、まったく違う事に気づかされるということもよくありますので。

※それは、今の師匠と永遠の決別となるかも知れませんので、よく考えた上で決断してほしいと思いますが。

そこまでの大袈裟な話ではなくても、他の流派の技を見て参考にする(盗む)とか、あるいはまったく違うジャンルの事からも、何かしらヒントを得ることができることもありますので、少し違う方向に目を向けることもありかも知れません。

まぁ、注意は必要です、嫉妬は恐ろしいですから(笑)
とある空手の流派の人に聞いたのですが、有名なボクシングの世界タイトルマッチがあり、それを見に行ったのを咎められたのだとか。
他流の試合を見に行くのは何事か?と言う感じのようですが(笑)
たんにスポーツの試合を観戦に行っただけのつもりだった人は、とても驚いたようです。

人間、どこまで行っても、派閥争いをするものなのですねぇ・・・(笑)

※これらの話は、あくまで「芸事」「技術」についての話

人としての道、あるいは例えば「宗教」についてはまた別の話となりますので、勘違いしないようにしましょう(笑)

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