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自分探し

まだ自分探ししてるの?
自分探し、と言う言葉がある。
若者が、自分が何をやりたいか見つからないと言う。

それは当たり前だと思う。人生に意味はあるのか?

人は何のために生まれて来るのか?

宗教を持つ方々は、それ系の事を色々と説明してくださるだろう。
曰く、自分を成長させるため?魂を成長させるため?

では人間以外の生物はどうなのであろうか?
人に飼われている犬や猫は、その人に飼われ、その人を癒すために、(あるいは虐待されるために?)生まれてきたのだろうか?

では鉢に植えられている草木は?何か意味や目的があって生まれてきたのだろうか?

では昆虫は?野生の動植物も、何か意味があってこの世に誕生しているのだろうか?

人は特別だと言うのかも知れない。では、その人を生かすために、その他の生命は誕生させられたのだろうか?

話が壮大になりすぎた。ふとそのように思う事はあっても、自分にはその答えは分からない。神の御意志は、神の身ならぬ生身の人間には分かるまい。

宗教的な答えはともかくとして、多くの人は、神のために生き神のために人生を捧る人生というような、敬虔な宗教家の生き方をしていないだろう。

一つ言える事があるのは、人はみんな、幸せになりたいのだという事。これは共通した思いであろう。

こう言うと、そりゃそうだと思う人も居るだろうが、違うという人も居るかもしれない。誤解を招きそうなので言い方を変えると、人はみな、満足したいのだと思う。

満足する生き方しか、人はできないのだ。

例えば、私財をすべて投げ打ち、困っている人の為に生きている人が居たとする。その人は、私財を溜め込み増やし肥やして、自分のためだけに生きる生き方もできたとする。しかし、おそらく今困っている人の為に生きているという人は、私腹を肥やすだけの生き方をしても、満足はできないはずだ。

極端な話ではなるが、人の為に生きている人も、そうしないと自分が満足できないからそうしているだけであって、つまりは自分の心に正直に生きているだけ。人の心には愛があるからそうなるのだと言えば格好いいが、言い方を変えれば自分の心を満足させるために行動しているだけで、つまり自分の為に生きているともいえよう。

逆のパターンを考えてみれば分かると思う。

自分の私財を増やし、私腹を肥やすことがすべて、そうする事で自分が満足できると言う人間が居たとして、その人間が、私財をすべて投げ打ち困っている人の為に生きる事ができるだろうか?そうすべきかどうか?と言う問題ではない。現実に、できないであろう。誰かに強要されればいやいやする事はあるかも知れない。しかし、嫌々やった人生で、満足な人生であったとは、思えないであろう。

こう突き詰めて考えていくと、自分のためではなく「人の為に」と言うのは尊いと言われるが、果たして本当の意味で自分のためではない「人の為」など存在するのだろうか?

存在するとは思う。思うが、今現在、そして過去にも、地上に生きた人間のほとんどが、それを体現していなかったと思う。

もしかしたら、イエス・キリストや釈迦などの聖人はそうだったのかも知れないが。そのような宗教的聖人の事は、凡人の私にはよく分からない。

私は別に、人の為に生きるのが尊い事なんだという事を訴えたいわけではない。むしろ逆だ。自分が幸せになりたい、自分が満足できる生き方をしたい、それで良いのだと思う。

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