何も持っていない人は死んでもいいと思っている。 若い頃、死ぬことを今より実感していたのは、何も持っていなかったからなのだと思う。 何かしら、自分のやるべき仕事を見つけて、それに着手してしまうと、それは終わらせるまでは続くという前提で考えはじまる。 そう考えるしかない。始めたからにはできれば終わらせたいと思うし、途中で挫折することを前提に仕事を進めるわけには行かない。 最初から一人で完遂する事が難しい事が分かっている場合であれば、誰かに引き継ぐことも考えながらになるかも知れないが。そうであっても、引き継ぎができる体勢ができるまでは完遂したいと思うものだろう。 どんな仕事も、一生かかるようなスパンの仕事は普通はない。多少長い時間かかる仕事であったとしても、終わるまで完遂するつもりでするのが普通だろうと思う。
余命宣告されたとき、人は最後の時間の過ごし方を考え始める。 いざ、余命先刻をされたとき、人は、自分の人生を振り返る。そして後悔を始める。 もっと自分のやりたいことをやればよかったと思う。 そして、人生に、いまだ少し時間があるのであれば、その間に、後悔がないよう、やれることを考え始める。 自分のやりたかったことの中から、残された時間でできそうなことを見つくろい、実行するのだ。 そして幸いにもそれを見つけることができて、その仕事をやり遂げる事が出来た時、人はそれなりに後悔も少なく満足して死んで行ける。そういうい気持ちになる。 だが待ってほしい。残りの人生で、何がしかの事をやり遂げたとしても、それはやりたかったことすべてではなかったはずだ。本当にやりたかったことでもなかったはずだ。 自分の人生に、もっともっと長い時間があったら、それは本当にやりたかったことなのだろうか?
人は、何かしら、人生に生きがいを求める。人生に意味を求める。何かしら、人生に足跡を残したい。後世の人に残したいと思う人、あるいは何も記録は残って居なくとも、自分が満足すれば良い人、色々居るだろう。 だけど、それは、なんでも良かったのかもしれない。何かしら、人はやったという実感があれば、満足できるもの、充実感が欲しいだけなのかも知れない。 何かしらの仕事を成し遂げて、充実感を感じ、満足できたとして。 個人的な感覚・感情としては満足かも知れないが、その事に、意味があったと言えるのだろうか?
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