自分探しをしていて、いつまでも何も見つからないという若者は、「自分のため」と「世のため人のため」の狭間で苦しんでいるのではなかろうか? そういう人は、自分が何をしたらうれしい気持ちになるのか、どうすると幸せな気持ちになるのか、何が好きで何が嫌いなのか、自分を見直せばよいのではなかろうかと思う。
自分のためでいいんだ、と言うと、自分さえよければよい、自分勝手な自己中な生き方考え方でいいと思われてしまうかも知れないが、それはYESでもあり、NOでもある。 人に迷惑をかけるのが生きがいで、そういう生き方でしか満足できないという人がもし居たら、その人はそのようにしか生きられないのだろうから・・・ 仮にそういう人が、自分を殺して品行方正に生きたとして、死ぬときには、自分の人生についてどう思うか、それは分からないが・・・。 結局、多くの場合、人に迷惑をかけると、自分も満足はできない事が多いので、そうしない結論に達するケースが多いのだと思う。 そして、自分を抑えて耐え忍んだ人生よりも、多少周囲に迷惑をかけつつも、やりたい放題好き放題生きた人生のほうに、人は魅力を感じる事が多い。 自分探しとか、自分らしく、ありのままで、と言うのは、自分の好み、趣味嗜好を、やりたいことをやる、という事なのだと思う。
何をしてもそれほど幸せな気持ちになった事はない。何も好きなものはない。嫌いなモノしかない。何も嬉しい事はこの世の中にはない。そういう人間も中には居るかもしれない。 そのような人は悲しい。 そんな人生では悲しい、生きがいもない、生きてる意味も価値もない。 どこか病んでいるのではないか?と言う人もいるだろう。 だが、私はこれも有りだと思っている。 そういう人は、この世に生きる意味や価値なんてないと感じているだろう。そういう人は、死を身近に感じているかもしれない。 実際、全ての人の人生、ひとつひとつに、そのすべてに意味や価値があるのかと言えば、そうではないと思う。 むしろ、それぞれの人が、自分が満足する生き方をできれば、それぞれの人にとっては満足かも知れないが、他の人にとっては、どうでも良い事なのだ。何か意味があるわけではない。
人生は、自由ではない。平等でもない。スタート時点から、既に差別されている。 人にあるのは、選択の自由に過ぎないのだ。 選択肢は、自分では用意できない事が多い。 なんでも好きなように生きたほうがいいと言うが、なんでもやりたい事がすべて自由にできるほど恵まれた環境に居る人は少ない。恵まれた才能がある人は少ない。 余命宣告された人は、自分がやり残したこと、やりたかった事をやろうとする。 それは、残された時間の中で、実現可能な事を選別する事でもある。 それは、余命短い人だけではない。人生は全員余命宣告されているのだから。 平均寿命、男性は 女性は 動ける寿命 長く見積もっても余命100年程度 自分がやりたいこと、やり残した事を、その余命の許す中で、選別するしかないのだ。もちろん、完遂できなさそうな目標を選ぶ事はできなくはないが
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