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職業選択の自由

まだ自分探ししてるの?
余命時間以外にも、制約はたくさんある。経済力、身体的な素養・才能、環境。
自分の性格などの心の要因もある。

努力すれば誰でも結果を出せるという人もいるが、努力する事ができない性格の人はどうであろうか?

その性格を、仮に克服できるとしても、それを克服するために時間を割かれるのだとしたら、ハンディになる。

そして、克服できない根の深い問題を抱えている人も多いのだ。人の心は深く複雑である。また、心の問題だけではない、病気などの肉体的問題から影響を受けている人も居る。それが分かっている人でも、治療で治らないケースもありうる。
また、そのような問題に気づいていないという人もいる。

たとえば、ナルコレプシーという病気がある。これは、脳の睡眠を司る部分に不具合があり、突然眠ってしまう病気だと言われていた。しかし、近年、そのような激しい症状が出ていなくとも、軽度の症状を抱えている人が多いという事が分かってきたそうだ。

そのような人は、「居眠り」をしてしまったりする。しかし、それは大抵の場合、気合いが入っていないからだとか、やる気がないから、緊張感が足りないからだと言われてしまう。だが、どんなに本人が緊張していようと、脳の中のスイッチ
が入ってしまえば抵抗する事はできないので、本人の努力でどうなる者ではない。

病気に気が付けば治療方法は今はあるそうだが、自分がそうであることに気づいていない人は多いらしい。潜在的な患者は数十万人にも上ると推測されているそうだが、そのうち数パーセントしか病気を認識して治療を受ける事ができていないそうだ。

この例などは、一種の身体的障害であるわけだが、障害とまでは言えなくとも、身体的に優れた特徴を持つ人しか成功できないような分野も存在する。たとえばバスケットボールやバレーボールの選手になりたくとも、身長が足りない人は大きなハンディを抱えてのスタートとなる。

もちろん、背が小さくとも活躍する方法はあるだろうが、その世界でそれで成功と言えるほどになるまでには、背の高い人の何倍もの努力を強いられるのは間違いない事だろう。

逆に、背が高いとなれない世界もある。たとえば競馬の騎手。馬の重荷にならないように、体重は少しでも軽いほうが有利である。もちろんその道を志すのを妨げる事は誰もできないが、身長2メートル、体重120キロと言うような競馬の騎手が活躍した話を聞いた事はない。

他にも、例えば手の小さい人よりは大きい人のほうがピアニストには向いているだろうし、同じ走る競技でも短距離走が得意な筋肉の質の人と、長距離が向いている筋肉の質の人が居るという。

体質的な問題ではない、才能やセンスの問題と言う場合もある。これはさらに難しい。磨いてどうなるものではないからだ。いや、磨けば身につくという説を唱える人も居ると思う。自分も実はそう思っている。しかし、それは非常に奥深く難解で、難しい世界だ。そのための才能やセンスを身に着けるために、こういう訓練をしたらよい、と言うような方法が確立されていない事が多いのだ。

例えば、センスと言うのはバランス感覚である、と言う面もあると思う。しかしこれは、人の心の問題が非常に大きいと思っている。完全にニュートラルな思考・嗜好を人はなかなか持てないからだ。

人は、何かしら、「こだわり」を持っているものだ。絶対譲れない、ポリシーや信念とでも言うような強いこだわりを持っている人もいるだろう。または、どちらかと言えばこちらが好ましいと思う、と言うような小さなこだわりもあるだろう。自分の立場とその利害関係によっても変わってくる。利害関係があると、ニュートラルな考え方は難しくなってくることもあるものだ。

人の好み、好き嫌いの配分が正確の違いを形成するとも言えるが、言い方を変えれば、大なり小なりの「こだわり」の配分具合が、人の性格の違い形成しているともいえる。

完全にニュートラルな人はいない。何も一切のこだわりを持っていない人などいない。こだわりを捨てよ、などと言う宗教的な教えをする人も居る。だが、それも不可能だ。悟りきった修行僧のたどり着いた境地がそうであるというかも知れないが、本当にそれが可能であれば、歴史に名を残す宗教的聖人になれるだろう。

現実には、すべてのこだわりを捨てた時、人は空気のような面白くない人間になってしまう。こだわりや好みの集積・配分具合が個性なのだとするならば、こだわりをすべて捨てる事は、個性を捨て去る事だ。

現実には、あまりに偏って強いこだわりがたくさん人は、正確に癖のある人、という事になってしまう。実際に付き合うと色々と面倒な事も多いだろうが、そういう人のほうが、客観的に見ていて面白いとも言える。

すべてのこだわりを捨て去ることができた人は、透明な性格と言えるかも知れない。しかし、何も好きなものがない、何もこだわるものがない。なんでもいい。それでは、透明人間だ。

実際には、こだわりや趣味嗜好は無にはできない。ただ、何もこだわりを持つことなく "淡い" 人は、一般的には「いい人」と呼ばれるようになると思う。

「いい人」は、いい人なのだ。恋愛の際のお断りのセリフの定番(笑)「いい人なんだけど・・・」面白みがない、個性がないという事。

話が少し脱線したが、センスと言うのがバランス感覚が重要であるとするならば、その個性、つまりこだわりの配合具合が問題である。

それはつまり、自分の好みは何か?という事の配合具合という事になる。

自分探しとは、それをまさに見つけ出すことに他ならないわけだが、それを変える事ではない。

自分の好みが解明できたとして、それが他の人にとって評価されるものとなるかどうかはまた別の問題なのだ。

最初から、多くの人の好まれるようなセンス(趣味嗜好)を持っていた人は、才能があると言われる事になる。

その才能を最初からは持っていない人も居るのだ。それを磨く事が必要になるとしたら、それは、好みや価値観を変える作業が必要になる。それが容易ではない道のりであろう。 

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