木曽路を流していて、ふと、「行雲流水」と書かれた看板が目に入った。。。 お寺の修行僧を「雲水」と呼ぶのはこの言葉からだと聞いたことがあるけれど・・・ そういえば、「行雲流水」ってどんな意味なのだろう?と思い、検索してみた。 Googleの結果では、
空をゆく雲と川を流れる水のように、執着することなく物に応じ、事に従って行動すること。
だそうだ。。。
とあるお寺のサイト
行雲流水 <普勧坐禅儀>
無心にして無碍自在のありようが禅の修行にもあい通じることから、この語を禅者は好んで用いた。今も禅の修行僧を「雲水」と云うのも雲が悠々と大空を行く如く、また流れる水の如く一処にとどまらず師をたずね修行の行脚したことから名づけられた…
無心にして無碍自在のありようが禅の修行にもあい通じることから、この語を禅者は好んで用いた。今も禅の修行僧を「雲水」と云うのも雲が悠々と大空を行く如く、また流れる水の如く一処にとどまらず師をたずね修行の行脚したことから名づけられた…
jyofukuji.com
雲は悠然として浮かび、しかもとどまることなく、水はまた絶えることなくさらさらとして流れて、また一処にとどまることがない。 この無心にして無碍自在のありようが禅の修行にもあい通じることから、この語を禅者は好んで用いた。 今も禅の修行僧を「雲水(うんすい) 」と云うのも雲が悠々と大空を行く如く、また流れる水の如く一処にとどまらず師をたずね修行の行脚したことから名づけられたことばである。
なるほど。。。
「雲水」は仏教の修行僧全般を指すのではなく、全集の修行僧の事を指す言葉なんですね。。。
物事に捉われないのは良いことのような気がするが、物事に流されていくだけ、というのは、ちょっとまずい時もあるんじゃないの? と思ってしまうのは、私に修行が足りないからか?(笑) 禅の修行者ではないのでまぁどうでもよいですが。 まぁ確かに、本当に、何事にも捉われなくなってしまったら、流れに従うも抗うも、それすらもどうでも良いことになってしまいますかねぇ。 全ての事を諦めてしまっているような境地とも言えるのかも? やっぱり私はそれは違うんじゃないかなぁと思ったり。。。 生涯、どれだけ達観しても、そこまで枯れたくはないかなぁ。。。
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